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ミまとめ

1 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 12:10:46 ID:???


2 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 12:18:18 ID:???
芸術における虚妄の力は、死における虚妄とよく似てゐる。団蔵の死は、このことを微妙に暗示してゐる。
芸道は正にそこに成立する。
芸道とは何か?
それは「死」を以てはじめてなしうることを、生きながら成就する道である、といへよう。
これを裏から言ふと、芸道とは、不死身の道であり、死なないですむ道であり、死なずにしかも「死」と同じ
虚妄の力をふるつて、現実を転覆させる道である。同時に、芸道には、「いくら本気になつても死なない」
「本当に命を賭けた行為ではない」といふ後めたさ、卑しさが伴ふ筈である。現実世界に生きる生身の人間が、
ある瞬間に達する崇高な人間の美しさの極致のやうなものは、永久にフィクションである芸道には、決して
到達することのできない境地である。「死」と同じ力と言つたが、そこには微妙なちがひがある。いかなる
大名優といへども、人間としての団蔵の死の崇高美には、身自ら達することはできない。彼はただそれを
表現しうるだけである。

「団蔵・芸道・再軍備」より

3 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 12:18:48 ID:???
ここに、俳優が武士社会から河原乞食と呼ばれた本質的な理由があるのであらう。今は野球選手や芸能人が
大臣と同等の社会的名士になつてゐるが、昔は、現実の権力と仮構の権力との間には、厳重な階級的差別があつた。
しかし仮構の権力(一例が歌舞伎社会)も、それなりに卑しさの絶大の矜持を持ち、フィクションの世界観を以て、
心ひそかに現実社会の世界観と対決してゐた。現代社会に、このやうな二種の権力の緊張したひそかな対決が
見られないのは、一つは、民主社会の言論の自由の結果であり、一つは、現実の権力自体が、すべてを同一の
質と化するマス・コミュニケーションの発達によつて、仮構化しつつあるからである。
さて、芸能だけに限らない。小説を含めて文芸一般、美術、建築にいたるまで、この芸道の中に包含される。
(小説の場合、芸道から脱却しようとして、却つて二重の仮構のジレンマに陥つた「私小説」のやうな例もあるが、
ここではそれに言及する遑(いとま)はない)

「団蔵・芸道・再軍備」より

4 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 12:19:15 ID:???
(中略)芸道には、本来「決死的」などといふことはありえない。
…ギリギリのところで命を賭けないといふ芸道の原理は、芸道が、とにかく、石にかじりついても生きて
ゐなければ成就されない道だからである。「葉隠」が、
「芸能に上手といはるゝ人は、馬鹿風の者なり。これは、唯一偏に貪着(とんちやく)する故なり、愚痴ゆゑ、
余念なくて上手に成るなり。何の益にも立たぬものなり」
と言つてゐるのは、みごとにここを突いてゐる。「愚痴」とは巧く言つたもので、愚痴が芸道の根本理念であり、
現実のフィクション化の根本動機である。
さて、今いふ芸術が、芸道に属することをいふまでもないが、私は現代においては、あらゆるスポーツ、いや、
武道でさへも、芸道に属するのではないかと考へてゐる。
それは「死なない」といふことが前提になつてゐる点では、芸術と何ら変りないからである。

「団蔵・芸道・再軍備」より

5 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 12:19:51 ID:???
(中略)
武士道とは何であらう?
私はものごとに「道」がつくときは、すでに「死」の原理を脱却しかかり、しかも死の巨大な虚妄の力を自らは
死なずに利用しはじめる時であらう、と考へる。武士道は、日常座臥、命のやりとりをしてゐた戦国時代では
なくて、すでに戦国の影が遠のき、日常生活における死が稀薄になりつつあつた時代に生れた。
真に死に直面してゐた戦闘集団には、それこそ日々の「決死」の行為と、その死への心構へと、死を前にした
人間の同志的共感がすべてである。それは決して現実を仮構化する暇などはもたない。それこそが、現実の側の
権力のもつとも純粋な核であり、あらゆる芸道的なものを卑しめる資格があるのは、このやうな、死に直面した
戦闘集団に他ならない。それさへ、現実に権力を握れば、現実の仮構化をもくろむ芸道の原理に対抗するに
自分も亦、こつそりと現実の仮構化を模倣しつつ、しかも芸道を弾圧せねばならない。これが現実権力の腐敗である。

「団蔵・芸道・再軍備」より

6 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 12:20:32 ID:???
私が決して腐敗を知らぬ、永遠に美しい、永遠に純粋至上な「現実権力」として認めるものは、あの挫折した
二・二六事件の、青年将校の同志的結合である。末松太平氏の「私の昭和史」の次のやうな一節を読むがいい。
天皇の軍隊を天皇の命令なくして、私的にクーデターなどに使ふことに反対してゐた高村中尉(著者の学友)が、
つひに著者に説得されて、理屈よりも友情が勝ち、次のやうに言ふところである。
「『(略)…貴様がやることなら、おれもやるよ。しかしやるまで暇があるなら、そのあいだにできるだけ、
そのおれの疑念を晴らすよう教えてくれ。疑念が晴れなければやらないというのじゃないよ』」
この最後の一句のいさぎよい美しさこそ、永遠に反芸道的なものである。そして芸道を河原乞食と卑しむことが
できるものは、このやうな精神だけであり、固定して腐敗した政治権力には、そのやうな資格はない。

「団蔵・芸道・再軍備」より

7 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 12:23:50 ID:???
さて、死に直面する戦闘集団の原理は、多少とも武士道に影を宿し、泰平無事の元禄の世にも、赤穂義士の義挙と、
「葉隠」の著作を残した。それが、命のやりとりを再び復活した幕末から維新を経て、人々の心に色濃く
のこつてゐた。
このやうな戦闘集団の同志的結合は、要するに、戦野に同じ草を枕にし、同じ飯盒(はんがふ)の飯を喰ひ、
死の機会は等分に見舞ふところの、上長と兵士の間の倫理を要請した。
飛躍するやうだが、旧憲法の統帥大権の本質はここにあり、武士道を近代社会へつなぐ唯一のパイプであつたと
思はれるのである。
史家は、明治憲法制定の時、薩摩閥が、国務大権を握つたのに対抗して、長州閥が、天皇に直属する統帥大権を
握つて、国務大権から独立した兵馬の権をわがものにしようとした、と説明するが、政治史の心理的ダイナミズムは
そのやうに経過したとしても、統帥大権の根本精神は、もつと素朴な、戦闘集団の同志的結合の純粋性を天皇に
直属せしめるところにあつたと思はれる。

「団蔵・芸道・再軍備」より

8 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 12:24:54 ID:???
二・二六事件の悲劇は、統帥大権の純粋性を信じた青年将校と、英国的立憲君主の教育を受けた文治的天皇との、
甚だしい齟齬にあつたが、私が近ごろ再軍備の論をきくにつれ、いつも想起するのは、この統帥大権の問題である。
シヴィリアン・コントロールとたやすく言ふが、真に死に直面した戦闘集団は、芸道的原理に服した現実の
権力のために死ぬことができるであらうか?
早い話が、「死ぬこととみつけた」武士道は、「死なないですむ」芸道のために、死ぬことができるであらうか?
「死なないですむ」芸道的原理が現代を支配し、大臣も芸能人も野球選手も、同格同質の社会的名士と扱はれ、
したがつてそこに、現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との、真の対決闘争もなく、西欧的ヒューマニズムが、
唯一の正義として信奉されてゐるやうな時代に、シヴィリアン・コントロールが、真に日本人を死なせる
原理として有効であらうか、私は疑問なきを得ない。
もちろん、シヴィリアン・コントロールは、天皇の代りに、総理大臣のために死ぬことではない。

「団蔵・芸道・再軍備」より

9 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:27:10 ID:???
天地の混沌がわかたれてのちも懸橋はひとつ残つた。さうしてその懸橋は永くつづいて日本民族の上に永遠に
跨(またが)つてゐる。これが神(かん)ながらの道である。こと程さ様に神ながらの道は、日本人の
「いのち」の力が必然的に齎(もたら)した「まこと」の展開である。(中略)
神ながらの道に於ては神の世界への進出は、飛躍を伴はぬのである。そして地上の発展そのものがすでに神の
世界への「向上」となつてゐるのである。かるが故に「神ながらの道」は地上と高天原との懸橋であり得るのである。
神ながらの道の根本理念であるところの「まことごゝろ」は人間本然のものでありながら日本人に於て最も
顕著に見られる。それは豊葦原之邦(とよあしはらのくに)の創造の精神である。この「土」の創造は一点の
私心もない純粋な「まことごゝろ」を以てなされた。

16歳
「惟神(かんながら)之道」より

10 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:27:29 ID:???
「まことごゝろ」は又、古事記を貫ぬき万葉を貫ぬく精神である。鏡――天照大神(あまてらすおほみかみ)に
依つて象徴せられた精神である。すべての向上の土台たり得べき、強固にして美くしい「信ずる心」であり
「道を践(ふ)む心」である。虚心のうちにあはされた澎湃(はうはい)たる積極的なる心である。かゝる
積極と消極との融合がかもしだしたたぐひない「まことごゝろ」は、又わが国独特の愛国主義をつくり出した。
それは「忠」であつた。忠は積極のきはまりの白熱した宗教的心情であると同時に、虚心に通ずる消極の
きはまりであつた。
かゝる「忠」の精神が「神ながらの道」をよびだし、又「神ながらの道」が忠をよびだすのである。かくて
神ながらの道はすべての道のうちで最も雄大な、且つ最も純粋な宗教思想であり国家精神であつて、かくの如く
宗教と国家との合一した例は、わが国に於てはじめて見られるのである。

16歳
「惟神(かんながら)之道」より

11 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:40:57 ID:???
感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである。
いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠つて以て人が死に得るところの
一個の古い徳目、一個の偉大な道徳的規範の象徴である。その滅亡は、一つの信仰の死である。
この死を前に、戦死者たちは生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春は
はからずも「絶対」に直面する。この美しさは否定しえない。ある世代は別なものの中に
これを求めた。作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である。

三島由紀夫「一読者として(吉田満著『戦艦大和の最期』)」より

12 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:43:18 ID:???
私は別にかつての軍隊の讚美者でもなく、軍隊生活の経験も持たない身は、それについて論じる資格もないが、
大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない反感を感じたおぼえがある。
たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、戦死した
彼らのかたはらには、ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふシーンがあつた。
甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。
日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが
論理的であり、人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死をジャスティファイする権利をもつてゐる。

「『青春監獄』の序」より

13 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:43:37 ID:???
絶対的に受身の抵抗のうちに、戦死しても犬のやうに殺されたといふ実感を自ら抱いて、死んでゆける人間は、
稀に見る聖人にちがひない。
私はすべてこの種の特殊すぎる物語に疑ひの目を向ける。兵隊であつて文学者あつた人の書くものも、一般人を
納得させるかもしれないが、私のやうな疑ぐり深い文士を納得させない。私の読みたいのは、動物学者の書いた
狼の物語ではなく、狼自身の書いた狼の物語なのである。
狼がどんなに嘘を並べても、狼の目に映つた事実であり嘘であれば、私は信じる。私は何も礼を失して、
宮崎氏を狼呼ばはりするのではない。しかし氏の著書は、或る見地から見て、実に貴重なのである。

「『青春監獄』の序」より

14 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:53:31 ID:???
左翼はいつも、より良き未来世界といふものを模索してゐる。いつもより良き未来社会へ向かつて我々は
進歩してゆくと考へてゐるのです。(中略)
ところがソビエトはご承知のやうな状態になつた。これは完全な官僚社会のみならず、その常套語を使へば、
帝国主義なのです。そして、かつて日本人が未来社会と思つたのが帝国主義になつてしまつた。もう
スターリン批判以来、日本人のソビエトに対する夢も崩れた。では、中共はどうか。中共はどうも日本人の
西洋崇拝から言ふと少し外れる処があつたんだけど、文化大革命といふことがあつたので、ますます日本人の
理想から遠くなつてしまつた。近頃は経済的には先進国になつてゐますので、その点でも、あらゆる後進国的な
ラディカルな革命のやり方でやれるものかどうかといふ疑問は幼稚園ぐらゐ出てゐれば大体分るわけです。
そこで未来社会の展望を失つたところに彼らの焦燥と彼らの一種の絶望感があることは確かなのです。

「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

15 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:53:54 ID:???
それで、より良き彼らの本当の未来社会とは何であるか。皆さんは、「自由からの逃走」といふエーリッヒ・フロムの
本などをお読みになつたことがあるだらうと思ひますが、“われわれの窮屈に閉込められたこの自由といふ名の
下に於いて、人間が一種のフィクションに堕してしまつた社会”から何とか抜け出して、“自由な人間主義の
本当に実現される世界、しかもそこでは社会主義がその最も良いところを実現してゐるやうな社会”であります。
いはゆる、ヒューマニテリアン・ソシャリズムですが、完全な言論自由化の社会主義といふやうな、誰が考へても
実現不可能のやうな、より良き未来に向かつて進んで行かうと、それがまあ大体の左翼型のラディカルな革命の
行動の先にある未来国であると考へて良いと思ひます。(中略)
何も私は共産主義に対抗して生きてゐるわけではありません。別にそれを職業にしてゐる人間でもありません。
ですけれども彼らの考へにうつかり動かされ、蝕まれていつたならば、どういふ結果になるか目に見えてゐる。

「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

16 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:54:12 ID:???
(中略)
私は未来といふものはないといふ考へなのです。未来などといふことを考へるからいけない。
(中略)我々はアメーバが触手を伸ばすやうに、闇の中を手探りで少し先の未来までは予測ができる。或ひは
来年くらゐまでは予測できるかもしれない。しかし、人間が予測されない闇の中を進んでゆくためには、
その闇の彼方にあるものを信ずるか、或ひはその闇といふものに対決して本当に自分の現在に生きるか
といふことの二つの選択を迫られてゐるといふのが私の考へ方の基本であります。
“未来に夢を賭ける”といふことは弱者のすることである。そして、自分をプロセスとしか感じられない人間の
することであります。(中略)
このやうな思考の中からは人間の円熟といふことも出て来なければ、人間の成熟といふ思考も絶対に出て来ない。

「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

17 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:54:29 ID:???
実は、人間は未来に向かつて成熟してゆくものではないんです。それが人間といふ生き物の矛盾に充ちた
不思議なところです。人間といふものは“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らないんです。
「葉隠」といふ本を御覧になつた方があるとみえて、笑つてゐる方がそこに居りますが、やはり死といふ事を
毎日毎日起り得る状況として捉へるところから人間の行動の根拠を発見して、そこにモラルを提示してゆく。
非常に極端な考へ方なのですが、あれ程生きる力を与へられた本を私は知りません。
あの思考には、未来が無いのです。我々は常識で考へて「未来がない」と言ふと、まるで破産宣告を受けた人間とか、
ガンの宣告を受けた人間のやうに考へますが、さうではなくて、私は、「青年にこそ未来がない」と、
私自身の考へから、経験から言へるのです。

「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

18 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:54:44 ID:???
(中略)
そこで、何も未来を信じない時、人間の根拠は何かといふことを考へますと、次のやうになります。
未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、
今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。
そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。
つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。
今、私が四十歳であつても、二十歳の人間も同じ様に考へてくれば、その人間が生きてゐる限り、その人間の
ところで文化は完結してゐる。その様にして終りと終りを繋げれば、そこに初めて未来が始まるのであります。

「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

19 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:57:19 ID:???
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分であるといふ
気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な
成熟といふものを信じられないのではなからうか。或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。
自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。自分の背中に日本を背負ひ、日本の歴史と伝統と文化の全てを
背負つてゐるのだといふ気持に一人一人がなることが、それが即ち今日の行動の本になる。
(中略)「俺一人を見ろ!」とこれがニーチェの「この人を見よ」といふ思想の一つの核心でもありませう。
けれども、私は中学時代に「この人を見よ」といふのは「誰を見よ」といふのかと思つて先輩に聞きましたところ、
「ニーチェを見よ」といふことだと教へて貰ひ、私は世の中にこんなに自惚れの強い人間がゐるのかと
驚いたことがあるのです。しかし、今になつて考へてみると、それは自惚れではないのであります。

「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

20 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:57:40 ID:???
自分の中にすべての集積があり、それを大切にし、その魂の成熟を自分の大事な仕事にしてゆく。
しかし、そのかはり何時でも身を投げ出す覚悟で、それを毀さうとするものに対して戦ふ。(中略)
ここにこそ現在があり、歴史があり、伝統がある。彼らの貧相な、観念的な、非現実的な未来ではないものがある。
そこに自分の行動と日々のクリエーションの根拠を持つといふことが必要です。これは又、人間の行動の強さの
源泉にもなると思ふ。といふのは人間といふものは、それは果無い生命であります。
しかし、明日死ぬと思へば今日何かできる。そして、明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができる
といふのは、人間の全力的表現であり、さうしなければ、私は人間として生きる価値がないのだと思ひます。

「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

21 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 14:58:03 ID:???
本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が
結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。
しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と
伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を賭けてゆくところにあるのです。
特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと思ふのです。
ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。
私は未来は信じないけれども後世は信ずる。
特攻隊の立派な気持には万分の一にも及びませんが、私ばかりでなく、若い皆さんの一人一人がさういふ気持で後輩を、
又、自分の仕事ないし日々の行動の本を律してゆかれたならば、その力たるや恐るべきものがあると思ひます。

「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

22 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:28:30 ID:???
庭はどこかで終る。庭には必ず果てがある。これは王者にとつては、たしかに不吉な予感である。
空間的支配の終末は、統治の終末に他ならないからだ。ヴェルサイユ宮の庭や、これに類似した庭を見るたびに、
私は日本の、王者の庭ですらはるかに規模の小さい圧縮された庭、例外的に壮大な修学院離宮ですら借景に
たよつてゐるやうな庭の持つ意味を、考へずにはゐられない。おそらく日本の庭の持つ秘密は、「終らない庭」
「果てしのない庭」の発明にあつて、それは時間の流れを庭に導入したことによるのではないか。
仙洞御所の庭にも、あの岬の石組ひとつですら、空間支配よりも時間の導入の味はひがあることは前に述べた。
それから何よりも、あの幾多の橋である。水と橋とは、日本の庭では、流れ来り流れ去るものの二つの要素で、
地上の径をゆく者は橋を渡らねばならず、水は又、橋の下をくぐつて流れなければならぬ。

三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より

23 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:28:44 ID:???
橋は、西洋式庭園でよく使はれる庭へひろびろと展開する大階段とは、いかにも対蹠的な意味を担つてゐる。
大階段は空間を命令し押しひろげるが、橋は必ず此岸から彼岸へ渡すのであり、しかも日本の庭園の橋は、
どちらが此岸でありどちらが彼岸であるとも規定しないから、庭をめぐる時間は従つて可逆性を持つことになる。
時間がとらへられると共に、時間の不可逆性が否定されるのである。
すなはち、われわれはその橋を渡つて、未来へゆくこともでき、過去へ立ち戻ることもでき、しかも橋を央にして、
未来と過去とはいつでも交換可能なものとなるのだ。
西洋の庭にも、空間支配と空間離脱の、二つの相矛盾する傾向はあるけれど、離脱する方向は一方的であり、
憧憬は不可視のものへ向ひ、波打つバロックのリズムは、つひに到達しえないものへの憧憬を歌つて終る。
しかし日本の庭は、離脱して、又やすやすと帰つて来るのである。

三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より

24 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:28:57 ID:???
日本の庭をめぐつて、一つの橋にさしかかるとき、われわれはこの庭を歩みながら尋めゆくものが、何だらうかと
考へるうちに、しらぬ間に足は橋を渡つてゐて、
「ああ、自分は記憶を求めてゐるのだな」
と気がつくことがある。そのとき記憶は、橋の彼方の薮かげに、たとへば一輪の萎んだ残花のやうに、きつと
身をひそめてゐるにちがひないと感じられる。
しかし、又この喜びは裏切られる。自分はたしかに庭を奥深く進んで行つて、暗い記憶に行き当る筈であつたのに、
ひとたび橋を渡ると、そこには思ひがけない明るい展望がひらけ、自分は未来へ、未知へと踏み入つてゐることに
気づくからだ。

三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より

25 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:29:52 ID:???
かうして、庭は果てしのない、決して終らない庭になる。見られた庭は、見返す庭になり、観照の庭は行動の
庭になり、又、その逆転がただちにつづく。庭にひたつて、庭を一つの道行としか感じなかつた心が、
いつのまにか、ある一点で、自分はまぎれもなく外側から庭を見てゐる存在にすぎないと気がつくのである。
われわれは音楽を体験するやうに、生を体験するやうに、日本の庭を体験することができる。
又、生をあざむかれるやうに、日本の庭にあざむかれることができる。西洋の庭は決して体験できない。それは
すでに個々人の体験の余地のない隅々まで予定され解析された一体系なのである。ヴェルサイユの庭を見れば、
幾何学上の定理の美しさを知るであらう。

三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より

26 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:45:03 ID:???
人間の恋愛は動物の恋愛と違つて、みな歴史、社会、環境、いろいろなものに制約されて
ゐるわけです。われわれが一つ恋愛をすると、その恋愛の中に全人類の歴史、全人類の
文化が反映してゐるのです。これは、われわれといふ存在が、ちやうど歴史の一端に
大ぜいの先祖と、大ぜいの文化の趨勢の上に生まれてきたのと同じに、今あなたないし
私のする恋愛も、決してひとりでまるで天から落ちかかつてくる隕石のやうに、恋愛が
始まるといふものではなく、みな何ものかに規約されてゐるといふことができます。


日本人の一番健康な恋愛らしきものが描かれてゐるのは「万葉集」ですが、「万葉集」の
恋といふのは、このヨーロッパ、ギリシャのやうな、哲学的背景を持つた恋愛ではありません。
ただ古い民族のすなほな肉体的欲望が、日本人のやさしい心持ちとか、繊細な生活感情の中に
溶け込んで、そこに、美しい別離の情とか、恋人に久しぶりに会つた喜びとか、
さういふものが素朴に、しかし正直に述べられてゐます。

三島由紀夫「新恋愛講座」より

27 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:47:37 ID:???
「源氏物語」の「もののあはれ」といふ大きな主題、この「もののあはれ」の中には、
いろいろ仏教的な考へもないわけではないのですが、根本的には、日本人が恋愛をただ
感情の形でだけ浄化してきた、その一つの完成した形が見られます。


概して少年期には、年上の異性を愛するやうになります。


われわれは皆、好ききらひがあつて、どんな美人でも、ある人にとつては、ちつとも
魅力のない場合があり、どんな醜女でも、ある人の目から見ると、非常に魅力的な場合があるのです。


恋愛の嗜好といふのは、実は、だれでも先天的に持つてゐるものではないので、ある人に
とつては母親のイメージがあり、ある人にとつては、早く死んだお姉さんのイメージがある。
しかし異性のイメージはその人個人のみでなく、祖先から民族全体から、どこかに深く
積み重ねられたものがあつて、それがその人の心の中に出てくるといふことが言へるのです。
つまり、何かその原形がある。

三島由紀夫「新恋愛講座」より

28 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:48:14 ID:???
人生が、自分のよい意図、正しい意図、美しい意図だけでは、どうにもならないといふことを
学んで、それに絶望して、だめになつてしまふ人は、人間としても伸びて行けない人だと
いはなければならない。それからまた、それですべてをあきらめてしまつて、自堕落に
一生を送らうといふ人、これはまた、人間としてゼロだといはなければならない。
ですから、けつきよく、人間が成長する途上で初恋の幻滅に会つても、それに打ちひしがれないで、
なほ積極的な態度で人生に向つていくといふ力強さ、さういふものが、試金石としての
初恋の値打だらうと思ひます。


恋愛は、相手の当人を特別な存在に見せ、たとへ、人から見て値打のないものでも、
自分にとつて世界中でかへがたいものに見せる心の働きです。

三島由紀夫「新恋愛講座」より

29 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:48:59 ID:???
情熱は、人間の心の中で一番崇高な、一番価値のある感情で、情熱があればこそ人間は
生きていくかひがある。


私は恋愛といふものを、プルーストのやうに悲観的には考へてをりません。なぜなら、
恋愛が錯覚であるならば、人生も錯覚であるし、一人の女をあるひは一人の男を美しいと
思つて恋することは、人間が自分の仕事を美しいと思つて、それを熱愛して、一つの仕事を
完成するのと同じことです。


恋愛中には、恋人はお互ひに愛し合つた上でも、やはり千変万化の働きをしなければならない。
なぞのない恋人は魅力を失つてしまふのです。それはわれわれの幻想を描く力を失はせて
しまふからです。


人間同士の信頼感といふものは、恋愛のほんたうの要素ではありません。信頼感ならば、
友だち同士の友情の方が強いでせうし、また、長いこと連れ合つた夫婦の間の愛情も、
信頼感といふ点では恋愛よりずつと強いのです。恋愛は結局、わからないことがどこかに
ひそんでゐなければならない。

三島由紀夫「新恋愛講座」より

30 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:49:59 ID:???
人間には心があるから、心で証拠を求めようとしても、からだで求められない。からだで
求めようとしても、心で求められない。かういふ、人間独特の分裂状態から、恋愛が
生まれてくる。それが、人間的なものの一つの特徴になるのであります。
そして情熱の法則は、自分で自分を裏切るといふふうに傾くもので、理性の法則とはまるで
違つてゐます。ですから、うそもうそでなくなる。真実も真実ではなくなつてしまふわけです。


よく、結婚したときに夫に向つて、自分の過去の恋人のことを全部告白してしまふ奥さんが
ありますが、これが誠実といふものかどうかは疑はしい。それによつて夫は、いつまでも
悩むことになるでせうし、彼女は、自分に誠実であつたことによつて、実は自分にだけ
誠実であつたことになるのです。すべて人間の愛の感情では、自分だけ誠実であるといふことが、
必ずしもその恋愛に誠実であるといふことにはならないといふ皮肉な法則があります。
…誠実さとは結局、自分の真心を押しつけることではなくて、むしろ自分を捨てて
相手のためを思ふことであり、そのためには、うそも誠実になつてくるのです。

三島由紀夫「新恋愛講座」より

31 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:53:22 ID:???
生まれつき同性愛の人はゐない。なぜかといふと、性ホルモンと同性愛とは関係がないことが
わかつてきて、女性ホルモンの多い女性も十分同性愛になり得るし、女性ホルモンの
少ない女性も十分異性愛になり得る。そして、女らしい女性でも、同性愛に陥るし、
ごく生理的に男らしい男でも同性愛に陥ります。結局、フロイドが述べてゐるところの
心理的な、いろいろな錯綜から生じた一種の病気であつて、その原因に、快感が加はると、
その快感を習慣的に追ふことによつて、だんだん深みに落ちていくといふふうにいはれてゐます。


あくまでも同性愛のほかに広い世界があるといふことを忘れないで、育つていくことが
大事だと思います。若くてさういふ世界に誘惑された少年少女は、それだけが全世界だと
思ひがちですが、人生には、もつと広い世界があるといふことを忘れなければ、必ず
その広い世界へまた出ていくことができるのです。さう言ふと、私は何も解決を与へてない
やうですが、同性愛は、すべて心理的な原因ですから、心理的に自分で解決していくことです。

三島由紀夫「新恋愛講座」より

32 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:53:45 ID:???
私の思ふのに、もし同性愛に対して欲求を持つた青少年がゐるならば、初めは思ふ存分
それに向つて突進したらいいでせう。


自分が自分の欲望を追求して、その欲望を突き抜けて、人生に対して同性愛といふものも
あるんだといふやうなのどかな気持で、もう一度自分を客観的に見るやうな余裕が持てる
ところまでいかなければ、どんな医者がどう言つても無理だと思ふのです。そして今
一般的には根治しがたい、不治の病のやうにいはれてゐる精神病の中でも、一番治しにくいのが
同性愛であつて、なぜならば、それは快感を伴ふから治りにくいのだといはれてゐるのですが、
さういふこととは別に、女性ならば女性であるといふ誇りを、男性ならば自分が男性である
といふ誇りを、いつでも持つてゐれば、決してゆがめられた、グロテスクな同性愛の底に
沈んでしまふといふことはあり得ないと思ひます。そして自分の本来の性の誇りが、
自然に彼を引き戻すであらうと私は思ひます。

三島由紀夫「新恋愛講座」より

33 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:54:05 ID:???
人間は生まれてから年をとるまで、いつも嫉妬と親しい関係にあります。


嫉妬は必ず、ある瞬間にもせよ、負けた側の人間に生じるものであります。


嫉妬は愛の表現ではあるが、しかしむづかしい言ひ方をすると、愛するといふことの不可能の
表現だとも言へると思ひます。


盲腸炎にかかつた人でなければ盲腸といふものの痛みもわからない。また歯が痛んだことの
ある人でなければ、歯の痛みもわからない。それと同時に、嫉妬の苦しみも、自分が一度
味はつたことのある人でなければ、決してわからないのであります。


美しい愛情はやはり情熱と理性とが適当に折れあつてゐなければならない。

三島由紀夫「新恋愛講座」より

34 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:54:27 ID:???
恋愛は完全に健康なもの、そして円満な人格、欠点のない人がら、さういふことものを
見きはめて愛するものではありません。結局、欠点を愛することになるのが恋愛の一般の
法則であり、その欠点ないし弱味は、ともすると人の同情をそそる形で現はれます。


相手の同情をよぶことが何かの効き目を持つのは根本法則ですが、相手に自分の与へてゐる
魅力がまづなければならない。魅力のないところに同情を持ちかけても、何もなりません。

三島由紀夫「新恋愛講座」より

35 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:54:51 ID:???
性的な幻滅とか、性的な荒廃とか不良化とか堕落とかいふものは、実は、性そのものに
関する無知ではなくて、私には人間そのものに関する無知と、よく現代の社会の構造を
見きはめないといふ無知からくるもののやうに思はれる。
なぜ現代社会であんなに早く人間が動物的に成熟しながらも、結婚がだんだんおくれていく
傾向にあるか、これは現代社会の矛盾ですがしやうがない矛盾なのです。つまり性的結合は、
経済的独立が伴はなければ社会の公然たるものとして認められない。これが現代社会の
一つの鉄則と言つていいものです。もし経済的独立が伴はないで性的結合が行はれれば、
必ずそこにいろいろな不調和が生じる。そして無理に無理が重なつて、堕落と、おそらく
犯罪が待ちかまへてゐることになります。

三島由紀夫「新恋愛講座」より

36 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 16:57:07 ID:???
男の秘訣は、女に対しては、からだの交渉を持つまでは、決して女の欲望を認めてはいけない
といふことです。あたかも、相手には欲望がないやうに、ふるまはなければなりません。
それは、女性の羞恥心を、悪く刺激することになるからです。少なくとも、処女は自分の
欲望を認められることを、大へんきらふものです。


世間には浮気を浮気としてやれる人と、本気でなくてはやれない人とがあります。そして
それは、必ずしも前者が不まじめな人間で、後者がまじめな人間だとは限りません。後者の中には、三人でも四人でも同時に愛するといふ
離れわざのできる人間もあるからです。

三島由紀夫「新恋愛講座」より

37 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 23:30:23 ID:???
ボデービルに一週間に二、三回通ひ出してから、一年間で胃ケイレンがなほつてしまつた。
…ボデービルは八十歳、九十歳になつてもやりたい。これだけは途中でやめるとからだによくないらしい。
地獄におちたと思つて抜けられぬ。自転車操業のやうなものかな。私などは執筆して頭を使ふ。神経がたとへば
10疲れても、肉体は3しか疲れない。格差の7を運動によつて疲れさす必要がある。肉体を10まで疲れさせ、
頭脳とバランスがとれたら休養する。疲労を0に戻してから改めて仕事にとりかかるといふ寸法である。
冬は日光浴をするが、夏はセーブしてあまりやらない。

三島由紀夫
「私の健康法――まづボデービル」より

38 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 23:31:40 ID:???
思へば、ボディ・ビルディングとは、もつとも日本の文化伝統に欠けてゐたものの、新しい移植であつた。
われわれは肉体文化の伝統を持たず、力に対する民族的信仰は、何か超自然的なものへの信仰の影を宿してゐて、
肉体それ自体、人間の裸体それ自体の文化的価値は、たえて認められることがなかつた。明治時代に、裸体彫刻が
猿股を穿かされかかつた逸話は、数多く知られてゐる。
…しかし、この十数年間、ひそかにバーベルを相手に黙々と汗を流し、この写真集に見られるやうな、かつての
日本人が夢想もしなかつた逞しい均整のとれた体躯を育て上げてゐた一群の青年たちがゐたのである。
竹山道雄氏が随想の中で書いてゐるやうに、日本人の青年の肉体は、かうして見ると、古代ギリシャの美学的基準に
忠実な点では、おどろくべきものがあり、ラフカディオ・ハーンが、かつて、日本人を「東洋のギリシャ人」と
呼んだことも思ひ合せられる。

三島由紀夫
「序 矢頭保写真集『体道・日本のボディビルダーたち』」より

39 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 23:34:27 ID:???
日本文化の特徴は、外来の文化をまづ忠実に模倣して、その極点で転回して、日本化してしまふといふ過程に
見出される。ボディ・ビルディングの日本における戦後の普及は、もちろんアメリカの影響であり、その背後には、
あの広大な光りと富に溢れた国のローマ帝国的な古代異教文化の復活が感じられるが、日本のボディ・
ビルディングには、今や、それなりに、日本の過去に欠けてゐた肉体文化の補填といふ意味以上に、何か、
肉体における日本的精神的価値の復活といふ、今まで考へられなかつた異質の観念の結合の意味が、含まれて
ゐるやうに思はれる。もともと「葉隠」にもあるやうに、武士の倫理における外面性の重視は、武士の良心に
深く関はつてゐた。登城するときに、昨夜の二日酔がのこつて青白い顔をしてゐるよりも、元気よく見せるために、
頬に紅粉を引くことが奨励されてゐた。又、戦の門出に兜に香をたき込めたり、切腹の前に死化粧をしたり
することは、武士のたしなみとされてゐた。
三島由紀夫
「序 矢頭保写真集『体道・日本のボディビルダーたち』」より

40 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 23:39:16 ID:???
劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点で
もうおしまひである。かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家に
なり果て、「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では
見るもむざんな政治主義に堕してゐる。
一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「もーれつア太郎」の
スラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。ヤングベ平連の高校生と話したとき、
「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、
「あれは本当に心から笑へますね」
と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。大人はたとへ「ア太郎」を愛読してゐてもかうまで
含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。

三島由紀夫
「劇画における若者論」より

41 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 23:39:30 ID:???
(中略)世の中といふのは困つたもので、劇画に飽きた若者が、そろそろいはゆる「教養」がほしくなつてきたとき、
与へられる教養といふものが、又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつては
たまらないのに、さうなりがちなことである。それはすでに漫画の作家の一部の教養主義になつて現はれてをり、
折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮(ふる)ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(一九六五年)を
描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、
これらの与へたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。すなはち決して大衆社会へ
巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を。

三島由紀夫
「劇画における若者論」より

42 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 23:52:31 ID:???
最近ウェイドレーの「芸術の運命」といふ本を面白く読んだが、この本の要旨は、キリスト教的中世には
生活そのものに神の秩序が信じられてゐて、それが共通の様式感を芸術家に与へ、芸術家は鳥のやうに自由で、
毫も様式に心を労する必要がなかつたが、レオナルド・ダ・ヴィンチ以後、様式をうしなつた芸術家は方法論に
憂身をやつし、しかもその方法の基準は自分自身にしかないことになつて、近代芸術はどこまで行つても
告白の域を脱せず、孤独と苦悩が重く負ひかぶさり、ヴァレリーのやうな最高の知性は、かういふ模索の極致は
何ものをも生み出さないといふことを明察してしまふ、といふのである。著者はカソリック教徒であるから、
おしまひには、神の救済を持出して片づけてゐる。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

43 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 23:53:07 ID:???
道徳的感覚といふものは、一国民が永年にわたつて作り出す自然の芸術品のやうなものであらう。しつかりした
共通の生活様式が背後にあつて、その奥に信仰があつて、一人一人がほぼ共通の判断で、あれを善い、これを
悪い、あれは正しい、これは正しくない、といふ。それが感覚にまでしみ入つて、不正なものは直ちに不快感を
与へるから「美しい」行為といはれるものは、直ちに善行を意味するのである。もしそれが古代ギリシャの
やうな至純の段階に達すると、美と倫理は一致し、芸術と道徳的感覚は一つものになるであらう。
最近、汚職や各種の犯罪があばかれるにつれて、道徳のタイ廃がまたしても云々されてゐる。しかしこれは
今にはじまつたことではなく、ヨーロッパが神をうしなつたほどの事件ではないが、日本も敗戦によつて
古い神をうしなつた。どんなに逆コースがはなはだしくならうと、覆水は盆にかへらず、たとへ神が復活しても、
神が支配してゐた生活の様式感はもどつて来ない。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

44 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 23:53:34 ID:???
もつと大きな根本的な怖ろしい現象は、モラルの感覚が現にうしなはれてゐる、といふそのことではないのである。
今世紀の現象は、すべて様式を通じて感覚にぢかにうつたへる。ウェイドレーの示唆は偶然ではなく、彼は
様式の人工的、機械的な育成といふことに、政治が着目してきた時代の子なのである。コミュニズムに何故
芸術家が魅惑されるかといへば、それが自明の様式感を与へる保証をしてゐるやうに見えるからである。
いはゆるマス・コミュニケーションによつて、今世紀は様式の化学的合成の方法を知つた。かういふ方法で
政治が生活に介入して来ることは、政治が芸術の発生方法を模倣してきたことを意味する。我々は今日、自分の
モラルの感覚を云々することはたやすいが、どこまでが自分の感覚で、どこまでが他人から与へられた感覚か、
明言することはだれにもできず、しかも後者のはうが共通の様式らしきものを持つてゐるから、後者に
従ひがちになるのである。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

45 :名無しさん@また挑戦:2010/09/08(水) 23:54:00 ID:???
政治的統一以前における政治的統一の幻影を与へることが、今日ほど重んぜられたことはない。
文明のさまざまな末期的錯綜の中から生れたもつとも個性的な思想が非常な近道をたどつて、もつとも民族的な
未開な情熱に結びつく。ブルクハルトが「イタリー・ルネッサンスの文化」の中で書いてゐるやうに
「芸術品としての国家や戦争」が劣悪な形で再現してをり、神をうしなつた今世紀に、もし芸術としてなら
無害な天才的諸理念が、あらゆる有害な形で、政治化されてゐるのである。
芸術家の孤独の意味が、かういふ時代ではその個人主義の劇をこえて重要なものになつて来てをり、もし
モラルの感覚といふものが要請されるならば、劣悪な芸術の形をした政治に抗して、芸術家が己れの感覚の
誠実をうしなはないことが大切になるのである。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

46 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:00:03 ID:???
電熱器ばやりの今の人には火鉢と云つてもピンと来ないだらうが、むかしは炭火をカンカン起して、鉄の網を
五徳にのせて、東京人が「おかちん」と呼ぶところの餅を、火鉢で焼いて喰べるのが、冬の夜の家庭のたのしみの
一つであつた。その鉄の網目の模様がコンガリと焼けた餅にのこり、私たちは、熱い餅をフーフー吹きながら、
醤油をかけて、おいしく喰べたものだ。
さて、いくら早く焼きたいからと云つて、餅を炭火につつこんだのでは、たちまち黒焦げになつて、喰べられた
ものではない。餅網が適度に火との距離を保ち、しかも火熱を等分に伝達してくれるからこそ、餅は具合よく
焼けるのである。
さて、法律とはこの餅網なのだらうと思ふ。餅は、人間、人間の生活、人間の文化等を象徴し、炭火は、人間の
エネルギー源としての、超人間的なデモーニッシュな衝動のプールである潜在意識の世界を象徴してゐる。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

47 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:00:17 ID:???
人間といふものは、おだやかな理性だけで成立つてゐる存在ではないし、それだけではすぐ枯渇してしまふ、
ふしぎな、落着かない、活力と不安に充ちた存在である。
人間の活動は、すばらしい進歩と向上をもたらすと同時に、一歩あやまれば破滅をもたらす危険を内包してゐる。
ではその危険を排除して、安全で有益な活動だけを発展させようといふ試みは、むかしからさかんに行はれたが、
一度も成功しなかつた。
どんなに安全無害に見える人間活動も、たとへば慈善事業のやうなものでも、その事業を推進するエネルギーは、
あの怖ろしい炭火から得るほかはない。一例が、プロヒューモ氏は、例の醜聞事件以後、すばらしく有能な
慈善事業家として更生してゐるさうである。
人間の餅は、この危険な炭火の力によつて、喰へるもの、すなはち社会的に有益なものになる。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

48 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:01:04 ID:???
しかし、もし火に直接に触れれば、喰へないもの、すなはち社会的に無益有害なものになる。だから、餅と火の
あひだにあつて、その相干渉する力を適当に規制し、餅をほどよい焼き加減にするために、餅網が必要になるのである。
たとへば殺人を犯す人間は、黒焦げになつた餅である。そもそもさういふ人間を出さないやうに餅網が存在して
ゐるのだが、網のやぶれから、時として、餅が火に落ちるのはやむをえない。さういふときは、餅網は餅が
黒焦げになるに委(まか)せる他はない。すなはち彼を死刑に処する。餅網の論理にとつては、罪と罰は
一体をなしてゐるのであつて、殺人の罪と死刑の罰とは、いづれも餅網をとほさなかつたことの必然的結果であつて、
彼は人を殺した瞬間に、すでに地獄の火に焼かれてゐるのだ。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

49 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:01:20 ID:???
そして責任論はどこまで行つてもきりがなく、個人的責任と社会的責任との継目は永遠にはつきりしないが、
少くとも、殺人といふ罪が、人間性にとつて起るべからざることではなく、人間の文化が、あの怖ろしい炭火に
恩恵を蒙(かうむ)つてゐるかぎり、火は同時に殺人をそそのかす力にさへなりうるのである。かくて、終局的に、
責任は人間のものではないとする仏教的罪の思想も、人間には原罪があるとするキリスト教的罪の思想も
生れてくるわけであるが、餅網の論理は、そこまで面倒を見るわけには行かない。
ただ、餅網にとつていかにも厄介なのは、芸術といふ、妙な餅である。この餅だけは全く始末がわるい。
この餅はたしかに網の上にゐるのであるが、どうも、網目をぬすんで、あの怖ろしい火と火遊びをしたがる。
そして、けしからんことには、餅網の上で焼かれて、ふつくらした適度のおいしい焼き方になつてゐながら、
同時に、ちらと、黒焦げの餅の、妙な、忘れられない味はひを人に教へる。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

50 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:01:37 ID:???
殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり文化財となる。
それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。古典的名作はそのやうな意味での完全犯罪であつて、
不完全犯罪のはうはまだしもつかまへやすい。黒焦げのあとがあちこちにちらと残つてゐて、さういふところを
公然猥褻物陳列罪だの何だのでつかまへればいいからである。
それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、火がおそろしくて、白くふつくら焼けることだけを
目的として、おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに引上げてしまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の
偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な傑作になる機会を逸してしまふといふことである。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

51 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:07:11 ID:???
言ひ古されたことだが、一歩日本の外に出ると、多かれ少かれ、日本人は愛国者になる。
先ごろハンブルクの港見物をしてゐたら、灰色にかすむ港口から、巨大な黒い貨物船が、
船尾に日の丸の旗をひるがへして、威風堂々と入つて来るのを見た。
私は感激措くあたはず、夢中でハンカチをふりまはしたが、日本船からは別に応答もなく、
まはりのドイツ人からうろんな目でながめられるにとどまつた。
これは実に単純な感情で、とやかう分析できるものではない。
もちろん貨物船が巨大であつたことも大いに私を満足させたのであつて、それがちつぽけな
貧相な船であつたとしたら、私のハンカチのふり方も、多少内輪になつたことであらう。
また、北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、日の丸の鮮かさは無類であつて、日本人の素朴な
明るい心情が、そこから光りを放つてゐるやうだつた。

三島由紀夫
「日本人の誇り」より

52 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:07:27 ID:???
それでは私もその「素朴な明るい」日本人の一人かといふと、はなはだ疑はしい。
私はひねくれ者のヘソ曲りであるし、私の心情は時折明るさから程遠い。
それは私が好んでひねくれてゐるのであり、好んで心情を暗くしてゐるのである。
これにもいろいろ複雑な事情があるが、小説家が外部世界の鏡にならうとすれば、そんなにいつも
「素朴で明るい」人間であるわけには行かない。しかし異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、
「ああ、おれもいざとなればあそこへ帰れるのだな」といふ安心感を持つことができる。
いくらインテリぶつたつて、いくら芸術家ぶつたつて、いくら世界苦(ヴエルトシユメルツ)に
さいなまれてゐるふりをしたつて、結局、いつかは、あの明るさ、単純さ、素朴さと清明へ
帰ることができるんだな、と考へる。

三島由紀夫
「日本人の誇り」より

53 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:07:43 ID:???
いざとなればそこへ帰れるといふ安心感は、私の思想から徹底性を失はせてゐるかもしれない。
しかしそんなことはどうでもよいことだ。
私は巣を持たない鳥であるよりも、巣を持つた鳥であるはうがよい。第一、どうあがいたところで、
小説家として私の使つてゐる言葉は、日本語といふ歴然たる「巣鳥の言葉」である。
「いざとなればそこへ帰れる」といふことは、同時に、帰らない自由をも意味する。
ここが大切なところだ。帰る時期は各人の自由なのであつて、「いざとなれば帰れる」といふ
安心感があればこそ、一生帰らない日本人がゐるのもふしぎはない。
私はこの安心感を大切にするのと同じぐらゐに、帰る時期と、帰る意思の自由とを大切にする。
人に言はれて帰るのはイヤだし、まして人のマネをして帰つたり、人に気兼ねして帰るのもイヤだ。
すべての「日本へ帰れ」といふ叫びは、余計なお節介といふべきであり、私はあらゆる
文化政策的な見地を嫌悪する。日本人が「ドイツへ帰れ」と言はれたつて、はじめから無理なのであつて、
どうせ帰るところは日本しかないのである。

三島由紀夫
「日本人の誇り」より

54 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:08:00 ID:???
私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。
中世の能楽を誇りに思ふ。それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。
日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の特攻隊を誇りに思ふ。
すべての日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。
この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。……
しかし、右のやうな選択は、あくまで私個人の選択であつて、日本人の誇りの内容が命令され、
統一され、押しつけられることを私は好まない。実のところ、一国の文化の特質といふものは、
最善の部分にも最悪の部分にも、同じ割合であらはれるものであつて、犯罪その他の暗黒面においてすら、
この繊細な感受性と勇敢な気性との結合が、往々にして見られるのだ。

三島由紀夫
「日本人の誇り」より

55 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:08:14 ID:???
われわれの誇りとするところのものの構成要素は、しばしば、われわれの恥とするところのものの
構成要素と同じなのである。きはめて自意識の強い国民である日本人が、恥と誇りとの間を
ヒステリックに往復するのは、理由のないことではない。
だからまた、私は、日本人の感情に溺れやすい気質、熱狂的な気質を誇りに思ふ。
決して自己に満足しないたえざる焦燥と、その焦燥に負けない楽天性とを誇りに思ふ。
日本人がノイローゼにかかりにくいことを誇りに思ふ。
どこかになほ、ノーブル・サベッジ(高貴なる野蛮人)の面影を残してゐることを誇りに思ふ。
そして、たえず劣等感に責められるほどに鋭敏なその自意識を誇りに思ふ。
そしてこれらことごとくを日本人の恥と思ふ日本人がゐても、そんなことは一向に構はないのである。

三島由紀夫
「日本人の誇り」より

56 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:12:45 ID:???
このごろでは先生が鞭を鳴らしながら授業でもしたら、「サーカスぢやあるまいし」と、忽ちPTAに
いびり出される始末になるが、むかしは先生は、ちやんと「教鞭」を持つてゐたものであつた。
私自身の小学校時代をかへりみるに、賞罰は実にはつきりしてゐた。
しかし、そこには先生の人徳といふもので、同じひどい目に会はされても、カラッとした人柄の先生には
いつまでもなつかしさが残り、陰気な固物の先生にはやはり面白くない記憶が残る。
(中略)
そのうちに怖いのは先生よりも上級生といふ時代がはじまる。
そのころ鬼よりも怖かつたA先輩など、今会つても頭が上がらない。
私の母校は敬礼のやかましい学校で、一級上の上級生にでも挙手の礼を忘れたら、どやしつけられた。
…小説を書く奴なんか軟派だと言つて目をつけられてゐたから、運動部の猛者は殊に怖ろしかつた。
私は旧制高校の最上級生のとき、総務委員といふものになつて、運動部の予算をもすつかり握る権力を得てから、
はじめて彼らに復讐する快感を満喫したのである。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ

57 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:13:21 ID:???
…文学者としての自分を考へると、一般的に「文学を否定する」雰囲気があつたといふことは、自分の文学を
育てる上で、大へんなプラスになつたことはたしかである。
私は天才教育などといふアホなものを信じない。「何クソ」といふ気持を養はせるだけの力がなければ、
何事も育ちはしない。
現在の学校教育の実態にうとい私だが、ほぼ確実だと思はれることは、そこには軟派と硬派の区別もなくなり、
文学芸術を否定する空気もなければ、一方、スポーツ万能を否定する空気もないことだ。
むりやり右へ行けと言はれるから、あへて左へ行く勇気も生まれるので、西も東もわからぬ子どもに、
「どつちへ行つてもいいよ」と言へば、迷ひ児がふえるだけのことである。
その意味で、丹頂鶴の日教組の極端な左翼教育も、私には、失ふに惜しいもののやうな気がする。
この行き方をもつと徹底させれば、反骨ある愛国少年を、却つて沢山輩出させることになるのではないか。
もつとも、そのための極左教育は反抗期の中学生時代からやつてもらひたいが。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

58 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:14:26 ID:???
…自分の我意に対して、それを否定する力のあることを実感するほど、自我形成に役立つものはない。
猿蟹合戦ぢやあるまいし、「伸びろよ、伸びろよ、柿の種」と言つてみたところで、柿は伸びないのである。
万人向きのバランスのとれた教育、四方八方へ円満に能力をのばしてゆく教育、などといふものは、単なる
抽象的な夢であつて、子どもはそれぞれ未完成で、偏頗(へんぱ)な存在である。
個性などといふものは、はじめは醜い、ぶざまな恰好をしてゐるものだ。
美しい個性を持つた子どもなどどこにも存在しないのである。
それが一度たわめられなければ真の個性にならないことも見易い道理で、そのためには、文学書ばかり
耽読してゐる子からはむりやりに本をとりあげて、尻を引つぱたいてスポーツをやらせ、スポーツにばかり
熱中してゐる子は、襟髪をつかんで図書館へぶち込み、強制的に本を読ませるやうにすべきである。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

59 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:14:40 ID:???
かういふ強制力は、こまかい校則によつて規定することはもちろん、罰則のない法規もないのであるから、
妥当な罰則を設け、かつこの規則を実施する能力としては、先生にも、生徒を心服させるだけの腕力が要求される。
生徒の闇討ちをおそれて屈服するやうな先生には、先生の資格がないので、生徒はめつたに先生の知力なんかには
心服しないものである。さういふのは新制大学のころから、学生に知的虚栄心が目ざめて来てからの問題であつて、
大学教育といふものは、もつぱら知識の授受に尽き、もはや教育と呼ぶ必要はない。
ネリカン上がりが尊敬されるといふのも、少年の歪められた英雄主義であるが、ネリカンの生活が
苛酷だといふ伝説乃至事実が、どれだけこの英雄化を助けてゐるかわからない。
どこの学校もネリカン並みになれば、とりたててネリカン上がりが尊敬される理由もなくなるので、
少年不良化の防止になるにちがひない。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

60 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:15:23 ID:???
暗い陰惨で辛い生活をとほりぬけて来たといふ自信と誇りを、今の子どもは与へられなさすぎる。
「学園」といふ花園みたいな名称も偽善的だが、学校といふところを明るく楽しく、痴呆の天国みたいな
イメージに作り変へたのは、大きな失敗であつた。学校といふものには暗いイメージが多少必要なのである。
学校の建物も質素で汚ならしいことが必要で、何だつてこのごろの学校は、高級アパートみたいな外見を
とりたがるのかわからない。
冷暖房装置などは以てのほかで、少なくとも中学校以上は、暖房装置も撤去すべきである。かじかんだ手で
ノートをとるといふあのストイックな向学心の思ひ出を、これからの子どもはもう持たなくなるのではないか。
…何事にも感覚的享受しかできない少年期には、「精神」に接するにも感覚的実感が要るのだ。
その「精神」の感覚的実感とは、要するに「非物質的感覚」であつて、寒さであり、オンボロ校舎であり、
風の音であり、たよるもののない感じであり、すべて眠たくなるやうな「生活の快適さ」と反対なものである。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」

61 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:19:31 ID:???
私は、一流商社のやうなツルツルした校舎へ毎朝吸込まれてゆく学生たちが、数年後サラリーマンとして又もや
ツルツルした大ビルディングへ毎朝吸込まれていくことを考へると、その一生が気の毒になる。
オンボロ校舎の精神的風格などを一生知らずに、ツルツルした表紙の週刊誌ばかり読み、団地生活をつづけてゆく
人間がかうして出来上がる。政府は政令を発して、学校建築に制約を加へるべきではないか。
(中略)
こんなことを言つてゐるうちに、すべてはノスタルジアに彩られ、日清戦争の思ひ出話みたいになつて来たから、
ここらで筆を擱くことにする。
最後に、まじめな私見を言ふと、硬教育の復活もさることながら、現代の教育で絶対にまちがつてゐることが
一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。
古典の暗誦は、決して捨ててはならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。
ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。
これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

62 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:20:39 ID:???
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。
日本のあらゆる新聞がこの青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。
(中略)
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど
口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を持つたのである。
左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。
かういふヒステリー症状は、ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、
かれらは何を隠さうとしたのであらうか。
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、
もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると
宣伝してゐればよかつた。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

63 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:21:16 ID:???
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。
浅沼氏は右翼の十七歳の少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。
このとき丁度パリのムーラン・ルージュではRevue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、
その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。
在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。
私がいつも思ひ出すのは、今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな
非合理な事件としてインテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

64 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:23:04 ID:???
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、
明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。
…あらゆる西欧化に反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでに
その地方に配置された西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の
小銃で撃ち倒され、敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。
正にその通りで、一つの例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を
作つたが、その際起つたもつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。
他の叛乱は、もつと政治的色彩が濃厚であり、このやうに純思想的文化的叛乱ではない。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

65 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:25:48 ID:???
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。
それについて探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を
固執するはうを選ぶだらう。
しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついてゐるのである。
エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の歩みと共に、
いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。
そして日本の近代ほど、光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

66 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:26:06 ID:???
私の四十年の歴史の中でも、前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、
戦後の二十年は、平和主義の下で、あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。そして、
失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、気づかれない。
反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した事例であつた。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

67 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 00:26:50 ID:???
それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、ヴィエトナムが
どこにあるかさへ知らなかつたのである。
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。
九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、そのやうな
無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐたのである。
これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、最初の
過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中に
あつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

68 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:34:57 ID:???
剣道は柔道とともに、体力が必要であることはむろんであるが、柔道は一見強さうな人は実際に強いけれど、
剣道は見ただけでは分らず、合せてみてはじめて非常に強かつたりする“技のおもしろさ”がある。
それにスピードと鋭さがあるので僕の性にあつてゐる。また剣道は、男性的なスポーツで、そのなかには
日本人の闘争本能をうまく洗練させた一見美的なかたちがある。
西洋にもフェンシングといふ闘争本能を美化した格技があるが、本来、人間はこの闘争本能を抑圧したりすると
ねちつこくいぢわるになるが、闘争本能は闘争本能、美的なものに対する感受性はさういふものと、それぞれ
二つながら自己のなかで伸したいといふ気持があるものです。

三島由紀夫
「文武両道」より

69 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:35:13 ID:???
さらに剣道には伝統といふものがある。稽古着にしたつて、いまわれわれが着てるものは、幕末の頃から
すこしも変つてゐない。また独特の礼儀作法があつて、スポーツといふよりか、何か祖先の記憶につながる――
たとへば相手の面をポーンと打つとき、その瞬間にさういふ記憶がよみがへるやうな感じがする。
これがテニスなんかだと、自分の祖先のスポーツといふ気はしない。
だから剣道ほど精神的に外来思想とうまく合はない格技はないでせう。
たとへば、共産主義とか、あるひはほかの思想でもいいが、西洋思想と剣道をうまくくつつけようとしても
うまくくつつかない。共産党員で剣道をやつてゐる者があるかも知れないが、その人は自分の中ですごい
“ギャップ”を感じることでせう。
僕は自分なりに小さい頃から日本の古典文学が非常に好きでしたし、さういふ意味で、剣道をやつてゐても
自分の思想との矛盾は感じない。

三島由紀夫
「文武両道」より

70 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:35:26 ID:???
戦後、インテリ層の中で、「これで新らしい時代がきたんだ、これからはなんでも頭の勝負でやるんだ……」
といふ時代があつた。その頃僕は、僕を可愛がつてくれた故岸田国士先生に「これから文武両道の時代だ……」
といつてまはりの人に笑はれたことがある。当時、先生のまはりにゐた人達にしてみれば、新らしい時代が
きたといふのに、なんで古めかしいことをいふと思つたのでせう。
元来、男は女よりバランスのくづれやすいものだと僕は思つてゐる。女は身体の真中に子宮があつて、
そのまはりにいろんな内蔵が安定してゐて、そのバランスは大地にしつかりと結びついてゐる。
男は、いつもバランスをとつてゐないと壊れやすく極めて危険な動物です。したがつてバランスをとるといふ
考へからいけば、いつも自分と反対のものを自分の中にとり入れなければいけない。(私はさういふ意味で
文武両道といふ言葉をもち出した)。
さうすると、軍人は文学を知らなければならないし、文士は武道も、といふやうになる。
実はそれが全人間的といふ姿の一つの理想である。

三島由紀夫
「文武両道」より

71 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:35:38 ID:???
その点、むかしの軍人は漢学の教養もあり、語学などのレベルも高かつた。私はいま二・二六事件の将校のことを
研究してゐますが、当時の将校は実に高い教養の持主が多かつたと思ふ。
末松太平といふ方の「私の昭和史」(みすず書房刊)なんかみると、実にすばらしい文章で、いまどきの
かけ出しの作家などはちよつと足元にも及ばない。
ああいふ立派な文章を書くには、よほどの教養が身につかなければ書けないものです。
また、文士も、漢学を学び武道に励むといつた工合で、全人間的ないろいろな教養を身につけてゐた。
ところが大正に入り昭和になつてくると、この傾向はだんだんやせ細つてきてバランスが崩れ片輪になつてきた。
そして大東亜戦争の頃の日本人の人間像といふものは、一見非常に立派なやうですが、実際はバラバラであつた。
近代社会の毒を受けたかたちの人間が多かつた時代です。
つまり先にいつた文武両道的な――自分に欠けたものをいつも補ひたい気持、さういふ気持がなくなつてゐたのです。
最近はさらにかういふ考へ方がなくなつてゐる。また余裕もないだらう。

三島由紀夫
「文武両道」より

72 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:36:12 ID:???
…しかし、僕は思ふのだが本を読むにしても本当に読む気があれば必ず読めるものだ。
とかくいまは無理をするといふことを一般に避けるやうになつてきてゐる。
そこで、またバランスのことにもどるが、一般に美といふ観点からも“バランス”は大事である。
古いギリシャ人の考へは、人間といふものは、神様がその言動や価値といふものをハカリでちやんと計つてゐて、
一人一人の人間の中の特性が、あまりきはだちすぎてゐると、神の領域にせまつてくる、として神様はピシャつと
押へる。すべての面で、このやうに一人一人の人間を神様はじつとみてゐるといふのですね。
…このやうな考へ方は、当時ポリス(都市国家)といふ小さな社会で均衡を保つた政治生活をおくる必要から
生れたものと思ふが、なかなかおもしろい考へ方です。
人間が知育偏重になれば知識だけが上がり、体育偏重になれば体力だけがぐつと上がる。――これはバランスが
くづれるもとで、神様はこのことを、蔭でみてゐて罰する。だから理想的に美しい人間像といふのは、あくまで
精神と肉体のバランスのとれた、文武両道にひいでたものでなければないといふわけです。

三島由紀夫「文武両道」より

73 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:41:41 ID:???
戦後日本の歴史が一つとぎれてしまつた。そのとぎれたところに自衛隊の問題があり、警察の問題があり、
またいろいろ複雑な言ふにいはれない、日本人として誠に情けない状態があらゆる面に発生してきました。
(中略)
大体戦後の民主主義といふものは、アメリカといふ成金の新しい国から来たものでありますから、アメリカは
アメリカとしての歴史はもちろん持つてはをりますが、彼らが大切にしてゐる古い歴史といふのはせいぜい
十八世紀です。アメリカに行くと、これは非常に古い家である、十八世紀だなどとよくいはれる。
彼らはどんなにさぐつて見ても十八世紀以前に遡つてアメリカの歴史を語ることができない。
それより古い頃にはインディアンがゐたんで、インディアンの方がよつぽど歴史上における誇りもあるし、
自信もあるはずです。これが白人に駆逐されてしまつた。
白人であるアメリカ人といふものは、人の家にどかどか入つて来て、平和に暮らしてゐた人間を追ひ散らして、
新しい国を建てた。それが移民の国アメリカです。

三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より

74 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:41:54 ID:???
さういふ国の人に、日本のやうな古い歴史、文化を持つた国の伝統と連続性の力といふものは判らない。
彼らにどう説明して聞かしても判らない。それは無理はないです。何となれば彼らの感覚にはそんな古い
歴史といふものがないのですから……古いといふと十八世紀を思つてゐる人間にいくらいつても判らない。
判つて貰はうとすることが所詮無理なんでせう。
まあ、日本がアメリカに占領されたといふことは国の運命で仕方がないかも知れませんけれども、一番
根本なところが彼らに判らなかつたことは日本にとつても不幸だつたのでせう。それはわれわれだけが
判つてゐるのであつて、国といふものは、永遠に連続性がなければ本当の国ではないと思ひます。
そしてとに角今は空間といふものがここに広がつてゐる。この空間に対して時間があるわけです。

三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より

75 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:42:08 ID:???
今のこの世界の情勢といふものはハッキリいひますと「空間と時間」との戦ひだと思ひます。
(中略)
しかしながらその国際的な争ひは、あくまで空間をとり合つてゐるわけです。
ところがこの地球上の空間を占めてゐる国の中にも一方では反戦、自由、平和といつてゐる人達がをります。
この人達は歴史や伝統などといふものはいらんのだ。歴史や伝統があるから、この空間の方々に国といふものが
出来て、その国同士が喧嘩をしなければならんのだ。われわれは世界中一つの人類としての一員ではないか。
われわれは国などといふものは全部やめて、「自由とフリーセックスと、そして楽しい平和の時代を造るんだ」
と叫んでゐる。彼らには時間といふ観念がない。
空間でもつて完全に空間をとらうといふ考へ方においては、彼らもまた彼らの敵と同じなのです。
それでは、今日の人類を一体何が繋いできたのかといふことを論議し、つきつめてゆくと、結局最後には
「時間」の問題に突き当たらざるを得ない。

三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より

76 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:42:37 ID:???
(中略)
今ソビエトで一番の悪口は何だと思ひますか。ソビエトで人を罵倒する一番きたない言葉、それをいはれただけで
人が怒り心頭に発する言葉は何だと思ひますか……私はロシア語を知りませんから、ロシア語ではいへませんが、
「非愛国者だ」といふことださうです。さうすると一体これはどういふことなのかと不思議になります。
その伝統を破壊し、連続性を破壊してゐる共産圏においてすら、現在は歴史の連続性といふものを信じなければ
「愛国」といふ観念は出て来てないことに気付き、その観念のないところには共産国家といへどもその存立は
危ぶまれるといふことを気付いたに違ひない。
ですからこの「縦の軸」すなはち「時間」はその中にかくされてゐるんで、如何に人類が現在の平和を
かち得たとしても、このかくされてゐる「縦の軸」がなければ平和は維持できない。
それが現在の国家像であると考へられていいんです。

三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より

77 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:42:51 ID:???
ことに日本では敗戦の結果、この「縦の軸」といふのが非常に軽んじられてきてしまつた。
日本は、この縦の軸などはどうでもいいんだが、経済が繁栄すればよろしい、そして未来社会に向つて、
日本といふ国なんか無くなつても良い。みんな楽しくのんびり暮して戦争もやらず、外国が入つて来たら、
手を挙げて降参すればいいんだ。日本の連続なんかどうなつてもいいんではないか、歴史や文化などは
いらんではないか、滅びるものは全部滅びても良いではないか、と考へる向きが非常に強い。
さういふ考へでは将来日本人の幸せといふものは、全く考へられないといふことを、この一事をもつてしても、
共産国家が既に明白に証明してゐると私は思ひます。
(中略)
共産主義国家が、国家意思を持つてゐて、日本のやうな、佐藤首相が自らの手で国家を守るといつてゐるこの国に、
国家意思がないとは一体どういふことだらうか。
さういふことになるのは今の日本の根本が危ふくなつてゐるからです。根本はここにあるのです。

三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より

78 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:50:15 ID:???
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮で
あつても少しも構はない。これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少
野蛮なところがなければ、衰亡してしまう。子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口の
PTA精神や、青少年保護を名目にした家畜道徳に乗ぜられてはならない。
ところで、私はこの元旦、わが家の一等高いところから、家々を眺めて、日の丸を掲げる家が少ないことに
一驚を喫した。こんな美しい国旗はめづらしいと思ふが、グッド・デザインばやりの現在、むづかしいことは
言はずに、せめてグッド・デザインなるが故に、門毎に国旗をかかげることがどうしてできないのか?

三島由紀夫
「お茶漬ナショナリズム」より

79 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:50:36 ID:???
去秋の旅で、私は二度鮮明な日の丸の思ひ出を持つた。(中略)
もう一つは、他にも書いたが、ハムブルグの港見物をしてゐたとき、入港してきた巨大な貨物船の船尾に、
へんぽんとひるがへつてゐた日の丸である。私は感激おくあたはず、その場にゐたただ一人の日本人として、
胸のハンカチをひろげて、ふりまはした。
かういふことを、私は別に自慢たらしく言ふのではない。私にとつては、ごく自然な、理屈の要らない、日本人の
感情として、外地にひるがへる日の丸に感激したわけだが、旗なんてものは、もともとロマンティックな心情を
鼓吹するやうにできてゐて、あれが一枚板なら風情がないが、ちぎれんばかりに風にはためくから、胸を搏つのである。
ところが、こんな話をすると、みんなニヤリとして、なかには私をあはれむやうな目付をする奴がゐる。
厄介なことに日本のインテリは、一切単純な心情を人に見せてはならぬことになつてゐる。しかし…(中略)
自分の国の国旗に感動する性質は、どこの国の人間だつてもつてゐる筈の心情である…

三島由紀夫
「お茶漬ナショナリズム」より

80 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:53:26 ID:???
何を守るかといふことを突き詰めると、どうしても文化論にふれなければならなくなるのだが、ただ文化を
守れといふことでは非常にわかりにくい。文化云々といふと、おまへは文化に携つてゐるから文化文化といふ、
それがおまへ自身の金儲けにつながつてゐるからだらう――といはれるかもしれない。あるひは文化なんか
守る必要はない、パチンコやつて女を抱いてゐればいいんだといふ考へ方の人もゐるだらう。文化といつても、
特殊な才能をもつた人間が特殊な文化を作り出してゐるんだから、われわれには関係がない。必要があれば
金で買へばいい、守る必要なんかない――と考へる者もゐるだらう。しかし文化とはさういふものではない。
昔流に表現すれば、一人一人の心の中にある日本精神を守るといふことだ。太古以来純粋を保つてきた一つの
文化伝統、一言語伝統を守つてきた精神を守るといふことだ。しかし、その純粋な日本精神は、目には
見えないものであり、形として示すことができないので、これを守れといつても非常に難しい。またいはゆる
日本精神といふものを日本主義と解釈して危険視する者が多いが、それはあまりにも純粋化して考へ、
精神化し過ぎてゐる。

三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

81 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:54:12 ID:???
…だから私は、文化といふものを、そのやうには考へない。文化といふものは、目に見える、形になつた結果から
判断していいのではないかと思ふ。従つて日本精神といふものを知るためには目に見えない、形のない古くさいものと
考へずに、形あるもの、目にふれるもので、日本の精神の現れであると思へるものを並べてみろ、そしてそれを
端から端まで目を通してみろ、さうすれば自ら明らかとなる。そしてそれをどうしたら守れるか、どうやつて
守ればいいかを考へろ、といふのである。
歌舞伎、文楽なら守つてもいいが、サイケデリックや「おれは死んぢまつただ」などといふ退廃的な文化は
弾圧しなければならない――といふのは政治家の考へることだ。
私はさうは考へない。古いもの必ずしも良いものではなく、新しいもの必ずしも悪いものではない。
江戸末期の歌舞伎狂言などには、現代よりももつと退廃的なものがたくさんある。それらを引つくるめたものが
日本の文化であり、日本人の特性がよく表はれてゐるのである。
日本精神といふものの基準はここにある。しかしこれからはづれたものは違ふんだといふ基準はない。



82 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:54:28 ID:???
良いも悪いも、あるひは古からうが新しからうが、そこに現はれてゐるものが日本精神なのである。
従つてどんなに文化と関係ないと思つてゐる人でも、文化と関係ない人間はゐない。
歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが退廃的であつても、そこには日本人の魂が入つてゐるのである。
私は文化といふものをそのやうに考へるので、文化は形をとればいいと思ふ。形といふことは行動であることもある。
特攻隊の行動をみてわれわれは立派だなと思ふ。現代青年は「カッコいい」と表現するが、アメリカ人には
「バカ・ボム」といはれるだらう。
日本人のいろいろな行動を、日本人が考へることと、西洋人の評価とはかなり違つてゐる。
彼らからみればいかにばか気たことであらうとも、日本人が立派だと思ひ、美しいと思ふことがたくさんある。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

83 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:58:19 ID:???
西洋人からみてばからしいものは一切やめよう、西洋人からみて蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、
不道徳なものは全部やめようぢやないか――といふのが文明開化主義である。
西洋人からみて浪花節は下品であり、特攻隊はばからしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、と、
さういふものを全部否定していつたら、日本には何が残るか――何も残るものはない。
日本文化といふものは西洋人の目からみて進んでゐるとかおくれてゐるとか判断できるものではないのである。
従つてわれわれは明治維新以来、日本文化に進歩も何もなかつたことを知らなければならない。
西洋の後に追ひつくことが文化だと思つてきた誤りが、もうわかつてもいい頃だと思ふ。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

84 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:58:35 ID:???
再び防衛問題に戻るが、この文化論から出発して“何を守るか”といふことを考へなければならない。
私はどうしても第一に、天皇陛下のことを考へる。天皇陛下のことをいふとすぐ右翼だとか何だとかいふ人が
多いが、憲法第一条に揚げてありながら、なぜ天皇陛下のことを云々してはいけないのかと反論したい。
天皇陛下を政治権力とくつ付けたところに弊害があつたのであるが、それも形として政治権力として
くつ付けたことは過去の歴史の中で何度かあつた。
しかし、天皇陛下が独裁者であつたことは一度もないのである。
それをどうして、われわれは陛下を守つてはいけないのか、陛下に忠誠を誓つてはいけないのか、私には
その点がどうしても理解できない。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

85 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:58:49 ID:???
ところが陛下に忠誠を尽くすことが、民主主義を裏切り、われわれ国民が主権をもつてゐる国家を裏切るのだといふ
左翼的な考への人が多い。
しかし天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきてゐる文化の象徴である。
さういふものに忠誠を尽くすことと同意のものであると私は考へてゐる。
なぜなら、日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである。
日本文化を守ることは、天皇を守ることに帰着するのであるが、この文化の全体性をのこりなく救出し、
政治的偏見にまどはされずに、「菊と刀」の文化をすべて統一体として守るには、言論の自由を保障する政体が
必要で、共産主義政体が言論の自由を最終的に保障しないのは自明のことである。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

86 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:59:11 ID:???
(中略)
間接侵略においては日本人一人一人の魂がしつかりしてゐたら、日本刀で立ち向つても負けることはないと思ふ。
もちろん小銃、機関銃、無反動砲など、普通科の近代兵器は自衛隊に整備させてゐても、私はやはり
市民武装といふ形で日本人が日本刀を一本づつ持つことが必要だと思ふ。
勿論、ほんたうに日本を守らうと思つてゐない者には持たせられないことはいふまでもないが……。
私は現在日本刀が美術品として、趣味的に扱はれてゐることに対して、甚だ残念に思つてゐる。
日本刀を美術品とか文化財として珍重するのはをかしなことで、これは人斬り包丁だ――と私は刀屋に
冗談話をするのだが、日本刀のやうに魂であると同時に殺人道具であるといふのは、世界でも稀れなものであらう。
日本刀を持ち出したのは一種の比喩であるが、私は自衛隊の武器は通常兵器でいいが、その筒先をどこに
向けるべきか、といふことこそ問題だと思ふ。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

87 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 10:59:24 ID:???
…これに関して、一説によるとある創価学会の自衛隊員は、「私はいざといふときには上官の命令で弾は撃たない、
池田さんのおつしやつた方に向けて撃つ」といつたといふ。こんな軍隊は珍らしい軍隊で、このやうに、
いざといふときにどつちへ弾が行くのかわからないといふのでは全く困る。
再び魂の問題に戻るが、自衛隊に対しては決して偽善やきれい事であつてはならない。
自衛隊は、平和主義の軍隊であり、平和を守るための軍隊であることに違ひはないが、もつと現実に目覚めて、
一人一人高度の思想教育を行なはなければならない。
さうでなければ毛沢東の行なつてゐるあの思想教育に勝てないと思ふ。さうでなければ、日本の隣にある、
このぎりぎりの思想教育を受けた軍隊に勝つことの不可能なことを、私は痛感するのである。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

88 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 11:01:58 ID:???
ドナルド・キーンといふアメリカ人がおもしろいことをいつてゐる。幕末に来日した外国人旅行記を読むと
「維新前の日本人はアジアでは珍しく正直で勤勉で、清潔好きで非常にいい国民である。ただ一つだけ欠点がある。
それは臆病だ」と書いてゐる。ところがそれから五、六千年後は、臆病な国民どころか大変な国民であることを
世界中に知られたわけだが、それがまたいまでは、再び臆病な日本人に完全に戻つてしまつてゐる――といふのである。
しかし鯖田豊之氏にいはせると、日本人は死を恐れる国民だといつてゐる。これはおもしろい考へ方だと思ふ。
確かにアメリカはベトナム戦争であれだけの死者を出してゐる。日本人だつたら大変な騒ぎだと思ふが、
羽田空港などで戦地に赴くアメリカ兵士の別れの場面を見てゐても、けろりとしてゐるが、日本人だつたら
とてもそんな具合に淡々として戦場に行けるものではない。まづ千人針がつくられる。日の丸のたすきを掛け、
涙と歌がついて、悲壮感に溢れてくる。そのほかいろいろなものが入つてくる。それらが死のジャンプ台に
ならなければ、どうにも死ねない国民なのだ。



89 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 11:02:27 ID:???
私はインドへ行つて死の問題を考へさせられたのだが、ベナレスといふ所はヒンズー教の聖地だが、そこでは
人間が植物のやうに死んでいく。死骸がそこらにごろごろあつて、そばでそれを焼いてゐるのに平気でゐる。
これは死ねば生まれ変ると信じてゐるためで、未亡人など、自分も死んだら死んだ亭主に会へるといつて、
病気になるとお経を読んで死を待つてゐる。
このインド人のやうな植物的な死に方は、日本人にはとても真似できないだらう。
日本においては死は穢れだとされてゐることもあるが、日本人といふものは非常に死の価値を高く評価してゐる。
だから、たやすく死んでたまるかといふことで、従つて切腹で責任を果たすといふことにもなるわけだ。
私たちは、さういふ死生観にもとづいて、文化概念としての栄誉大権的な天皇の復活をはからなければ
ならないと思ふ。繰返へすやうだが、それが日本人の守るべき絶対的主体であるからだ。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

90 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:05:32 ID:???
実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。
何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、
一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。
ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に
対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。

三島由紀夫
「愛国心」より

91 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:05:46 ID:???
もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、それともセーブル焼の
花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」といふものである。
また、愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。
日本語としては「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。
もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限低無条件でなければならない。従つて、「人類愛」といふのなら
多少筋が通るが、「愛国心」といふのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。
だから恋のはうが愛よりせまい、といふのはキリスト教徒の言ひ草で、恋のはうは限定性個別性具体性の
裡にしか、理想と普遍を発見しない特殊な感情であるが、「愛」とはそれが逆様になつた形をしてゐるだけである。

三島由紀夫
「愛国心」より

92 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:05:58 ID:???
ふたたび愛国心の問題にかへると、愛国心は国境を以て閉ざされた愛が、「愛」といふ言葉で普遍的な擬装を
してゐて、それがただちに人類愛につながつたり、アメリカ人もフランス人も日本人も愛国心においては
変りがない、といふ風に大ざつぱに普遍化されたりする。
これはどうもをかしい。もし愛国心が国境のところで終るものならば、それぞれの国の愛国心は、人類普遍の
感情に基づくものではなくて、辛うじて類推で結びつくものだと言はなくてはならぬ。アメリカ人の愛国心と
日本人の愛国心が全く同種のものならば、何だつて日米戦争が起つたのであらう。「愛国心」といふ言葉は、
この種の陥穽を含んでゐる。(中略)
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、
「大和魂」で十分ではないか。

三島由紀夫
「愛国心」より

93 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:06:10 ID:???
アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、
移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、
合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。
国はまづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。
アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、
かつ限定的個別的具体的である。観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。
そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。われわれはとにかく
日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。(本当は「対する」といふ言葉さへ、
使はないはうがより正確なのだが)しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。

三島由紀夫
「愛国心」より

94 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:06:24 ID:???
われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間に
この心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。
かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本を
より的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、
恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。
一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、
あまりにも支配的なことである。さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、
彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた考へだと言へるであらう。

三島由紀夫
「愛国心」より

95 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:55:14 ID:???
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。
スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。
「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。
当人は否応なしに、「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、
「彼は女たらしではあるが、几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、
親孝行であつた」とか、さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。(中略)
マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、十分、村八分を成立させるやうになつた。

三島由紀夫「社会料理三島亭」より

96 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:55:29 ID:???
遊び、娯楽、といふものは、むやみと新らしい刺戟を求めることでもなく、阿片常習者のやうな中毒症状を
呈することでもなく、お金を湯水のやうに使ふことでもなく、日なたぼつこでも、昼寝でも、昼飯でも、散歩でも、現在自分の
やつてゐることを最高に享楽する精神であり才能であらう。(略)プロ野球見物と庭の水まきと、どつちが現在の自分にとつてもつともたのしいか、といふことに、自分の本当の
判断を働らかすことが、遊び上手の秘訣であらう。世間の流行におくれまいとか、話題をのがさぬやうにとか、
「お隣りが行くから家も」とか、「人が面白いと言つたから」とか、……さういふ理由で遊びを追求するのは、
人のための遊びであつて、自分のための娯楽ではないのである。

三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より

97 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:55:43 ID:???
世の女性方は、たとへイギリス製の生地の背広を着こなした紳士の中にも、「ガーン!」「ガバッ!」
「ガシーン!」「バシーン!」などの擬音詞に充ちた低俗なアクションへの興味が息をひそめてゐることを、
知つておいて損はなからう。
男にとつては、いくつになつても、そんなに「バカバカしい」ことといふものはありえない。
「バカバカしい」といふ落着いた冷笑は、いつも本質的に女性的なものである。

三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より

98 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:58:27 ID:???
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈な
もてなしはない。人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力が
ある。みんなこれにだまされてゐるのである。ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど
血湧き肉をどる面白さにちがひない。しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい
椅子が誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、面白い写真といふものは、誰が見ても
面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。(略)
大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふ
ものは映してくれない。ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。
「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、その点では、われわれ文士の
用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。

三島由紀夫「社

99 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:58:40 ID:???
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。
他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんな
さう思つてゐるのだから世話はない。
公園で乳母車を押した母親同士が出会つて、
「まあ、可愛い赤ちゃん」「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」などとお世辞を言ひ合ふが、
どちらも肚の中では、『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの
赤ん坊の可愛らしいこと!…(略)』さう思つてゐる。
カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、
みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の
手がかりを提供する。(略)かへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に
見せるものではない、といふことである。

三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より

100 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:58:53 ID:???
私はこの世に生をうけてより、只の一度も赤い羽根を買つたことがない。そのシーズンの盛期に、大都会で、
赤い羽根をつけないで暮すといふ絶大のスリルが忘れられないからだ。赤い羽根をつけないで歩いてごらんなさい。
いたるところの街角で、諸君は、何ものかにつけ狙われてゐる不気味な眼差を感じ、交番の前をよけて通る
おたづね者の心境にひたることができる。自分は狙われてゐるのだといふ、こそばゆい、誇らしい気持に
陶然とすることができる。もし赤い羽根をつけて歩いてごらんなさい。誰もふりむいてもくれやしないから。
冗談はさておき、私は強制された慈善といふものがきらひなのである。(略)
駅の切符売場の前に女学生のセイラー服の垣根が出来てゐて、カミつくやうな、もつとも快適ならざるコーラスが、
「おねがひいたします。おねがひいたします」と連呼する。
私がその前を素通りすると、きこえよがしに、「あの人、ケチね」などといふ。
「アラ、心臓ね」「図々しいわね」と言はれたこともある。

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

101 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:59:05 ID:???
これは尤も、通るときの私の態度も悪いので、なるべく悪びれずに堂々とその前をとほるのが、よほど鉄面皮に
見えるらしい。しかし、ただ胸を張つてその前を通るだけのことで、鉄面皮に見えるなら、それだけのことが
できない人は、単なる弱気から、あるひは恥かしさから、醵金箱(きよきんばこ)に十円玉を投じてゐるものと
思はれる。一体、弱気や恥かしさからの慈善行為といふものがあるものだらうか?それなら、人に弱気や
羞恥心を起させることを、この運動が目的にしてゐると云はれても、仕方がないぢやないか?
大体、弱気や恥かしさで、醵金箱にお金を入れる人種といふものは、善良なる市民である。電車で通勤する
人たちがその大半であつて、安サラリーの上に重税で苦しめられてゐる人たちである。さういふ人たちの善良な
やさしい魂を脅迫して、お金をとつて、赤い羽根をおしつける、といふやり方は、どこかまちがつてゐる。

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

102 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 12:59:19 ID:???
もつと弱気でない、もつと羞恥心の欠如した連中ほど、お金を持つてゐるに決つてゐるのだから、おんなじ
脅迫するなら、そつちからいただく方法を講じたらどうだらう。大体、私のやうに、赤い羽根諸嬢の前を
素通りすることで鉄面皮ぶつてゐる男などは甘いもので、もつと本当の鉄面皮は、ひよこひよこそんなところを
歩いてゐるひまなんぞなく、車からビルへ、ビルから車へと、ひたすら金儲けにいそがしいにちがひない。(中略)
本来なら、慈善事業とは、罪ほろぼしのお金で運営すべきものである。さんざん市民の膏血をしぼつて大儲けを
した実業家が、あんまり儲かつておそろしくなり、まさか夜中に貧乏人の家を一軒一軒たづねて、玄関口へ
コッソリお金を置いて逃げるのも大変だから、一括して、せめて今度は罪ほろぼしに、困つてゐる人を助けよう
といふ気で金を出す。これが慈善といふものだ。ところが日本の金持は、政治家にあげるお金はいくらでも
あるのに、社会事業や育英事業に出す金は一文もないといふ顔をしてゐる。(略)

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

103 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 13:01:41 ID:???
ちつとも世間に迷惑をかけず、自分の労働で几帳面に仕入れたお金なんかは、世間へ返す必要は全然ないのである。
無意味な税金を沢山とられてゐる上に、たとへ十円でも、世間へ捨てる金があるべきではない。その上、赤い
羽根なんかもらつて、良心を休める必要もないので、そんな羽根をもらはなくても、ちやんと働らいてちやんと
獲得した金は、十分自分のたのしみに使つて、それで良心が休まつてゐる筈である。
さんざんアクドイことをして儲けた金こそ、不浄な金であるから、世間へ返さなければ、バチが当るといふ
ものである。(中略)
社会保障は、憲法上、国家の責務であつて、国が全責任を負ふべきであり、次にこれを補つて、大金持が金を
ふんだんに醵出すべきであり、あくまでこれが本筋である。しかし一筋縄では行かないのが世間で、(略)
助けられる立場にゐながら、人を助けたい人もある。赤い羽根も無用の強制をやめて、さういふ人たちを
対象に、静かに上品にやつたらいいと思ふ。

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

104 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 13:57:53 ID:???
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。
スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。
「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。
当人は否応なしに、「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、
「彼は女たらしではあるが、几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、
親孝行であつた」とか、さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。(中略)
マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、十分、村八分を成立させるやうになつた。

三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より

105 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 13:58:07 ID:???
大体私は現在のオウナー・ドライヴァー全盛時代に背を向けて、絶対に自分の車を持たぬといふ主義を堅持して
ゐる。何のために車を持つか?一刻も早く目的地へ到達するためだらう。ところが私の家から都心までは、
ラッシュ・アワーでも、バスと国電を使つて三十五分で確実に行くのに、車を利用すれば早くて四十五分はかかる。
これでもなほ車に乗るのは、どうかしてゐる。(中略)
電車なら、推理小説だのスポーツ新聞だのに読み耽つてゐるうちに、あつといふ間に目的地へ着いてしまふ。
一切あなたまかせだからイライラすることもないのである。
都会生活の真髄は能率とスピードだらう。車を持つこと、いやただタクシーに乗ることさへ、今や能率と
スピードに背馳しつつある。あとにのこる車の御利益と言つたら見栄だけだが、かう猫も杓子も車を持つやうに
なつたら、一向見栄にもならない。見栄にも実用にもならぬことに、どうしてお金を使はなければならないのだらう。

三島由紀夫「社会料理三島亭 クヮンヅメ料理『自動車ラッシュ』」より

106 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:03:59 ID:???
一体、「日本人が何をクリスマスなんて大さわぎをするんだ」といふ議論ほど、月並で言ひ古された議論はなく、
かういふ風にケチをつければ、日本へ輸入された外国の風習で、ケチをつけられないものはあるまい。もともと
クリスマスは宗教の風習化で、宗教のはうは有難く御遠慮申し上げて、何か遊ぶ口実になるたのしさうな
ハイカラな風習のはうだけいただかうといふところに、日本人の伝来の知恵がある。識者の言ふやうに、
日本人が外国人なみ(と云つてもごく少数の信心ぶかい外国人なみ)に、敬虔なるクリスマスをすごすやうな
国民なら、とつくの昔に一億あげてキリスト教に改宗してゐたであらう。ところが日本人の宗教に対する
抵抗精神はなかなかのもので、占領中マッカーサーがあれほど日本のキリスト教化を意図したにもかかはらず、
今以てキリスト教徒は人口の二パーセントに充たぬ実情である。そして肝腎のクリスマスは、商業主義の
ありつたけをつくした酒池肉林の無礼講、あたかも魔宴(サバト)の如きものになつてゐる。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

107 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:04:14 ID:???
私は日本のクリスマスといふのは、日本にすつかり土着した、宗教臭のない、しかもハイカラなお祭なのだと
思つてゐる。オミコシをかついであばれまはる町内のお祭は、今日ではもう、ごく一部の人のたのしみになつて
しまつた。ミコシをかつぐ若い衆も年々少なくなり、しかもどこの町内でも、ミコシかつぎが愚連隊に占領
されるおそれがあるので、折角のオミコシを出さないところもふえて来た。
こんな町内のお祭以外には、紀元節も天長節も失つた民衆は、文化の日だのコドモの日だのといふ官製の
舌足らずの祭日を祝ふ気にはなれない。そこで全然官製臭のない唯一のお祭であるクリスマスをたのしむやうに
なつたのはもつともである。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

108 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:04:28 ID:???
半可通の「文化人」がにやけたベレーをかぶつて、パリの貧乏生活の思ひ出をたのしむ巴里祭などより、
どれほどクリスマスのはうが威勢がよいかわからない。それに例の「ジングル・ベル」の音楽も、今では、
「ソーラン節」や「おてもやん」程度には普及してきたのである。(中略)
一昨々年は、ニューヨークで、三軒ほどの私宅によばれて、清教徒的クリスマス、インテリ的クリスマス、
デカダン的クリスマス、と三様のクリスマス・パーティーを味はつたが、清教徒的家庭的健康的クリスマスの
つまらなさはお話にならず、いい年をした大人が、合唱したり、遊戯をしたり、安物のプレゼントをもらつて
よろこんだりする、田舎教会的雰囲気は、とても私ごとき人間には堪へられるところではなかつた。よく外国へ
行つたら家庭に招かれて、家庭のクリスマスを味はふべきだ、などと言ふ人があるが、そんな話はマユツバ物である。
クリスマスを口実に、淡々と呑んだり踊つたりといふのが、世界共通の大人のクリスマスといふのだらう。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

109 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:04:53 ID:???
…クリスマスは、キリスト教においても、本当は異教起源のお祭で、ローマの冬至の祭、サトゥルヌス祭の
馬鹿さわぎに端を発し、収納祭の農業的行事であつた。それを考へると、日本人がクリスマスを、その正しい
起源においてとらへて、ただのバカさわぎに還元してしまつたといふ点では、日本人の直観力は大したものである。
しかも、誠心誠意、このバカさわぎ行事に身を捧げて、有楽町駅の階段に醜骸をさらすほど、古代ローマの神事に
忠実な例は、あんまり世界にも類例を見ないのである。これもキリスト教に毒されなかつた御利益といふべきか。
ところが私には、妙な気取りがあつて、祭のオミコシをかついだ経験から言ふのだからまちがひないが、日本の
祭のミコシなら、ねぢり鉢巻でかつぎまはつて、恥も外聞もかまはずにゐられるのに、クリスマスといふ
ハイカラなお祭には、そのハイカラが邪魔をして、どうもそこまで羽目を外す気にはならないのである。
日本にゐて外国の祭にウツツを抜かすといふことに、何となく抵抗を感じる。「クリスマス、クリスマス」と
喜ぶのが何だか気恥かしいのである。(略)

三島由紀夫

110 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:05:06 ID:???
ところで文化人知識人といふヤカラは、安保デモではプラカードをかつぎ、巴里祭にはベレーをかぶり、
クリスマスには銀座のバア歩きもやるくせに、どうして、日本のオミコシをかつがうとしないのであらう。
そこのところが、どうしても私にはわからない。
多分ハイカラ知識人は肉体的に非力で、オミコシなんか重くてかつげないものだから、軽いプラカードを
かついでゐるのではなからうか。あれなら子供ミコシほどの目方もありはしない。
クリスマスも、日本の神事祭事に比べて、ただ目方が軽いから、ここまで普及したのではあるまいか。日本の
祭には、たのしいだけでなく、若い衆に苦行を強制する性格があるからである。お祭といふのは、本当はもつと
苦しいものである。苦しいからあばれるのである。もつとも、年末は丁度借金取の横行するシーズンで、
形のある重いオミコシよりも、無形の借金の重さを肩にかついで、やけつぱちで呑みまはりさわぎまはる
「苦シマス」が、日本的クリスマスの本質なのかもしれない。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

111 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:09:10 ID:???
近代日本が西洋文明をとりいれた以上、アリの穴から堤防はくづれたのである。しかも、文明の継ぎ木が
奇妙な醜悪な和洋折衷をはやらせ、一例が応接間といふものを作り、西洋では引つ越しや旅行の留守にしか
使はない白麻のカバーをソファーにかける。私はさういふことがきらひだから、いすが西洋伝来のものである以上、
西洋の様式どほり、高価な西洋こつとうのいすにも、家ではカバーをかけない。
昔の日本には様式といふものがあり、西洋にも様式といふものがあつた。それは一つの文化が全生活を、
すみずみまでおほひつくす態様であり、そこでは、窓の形、食器の形、生活のどんな細かいものにも名前がついてゐた。
日本でも西洋でも窓の名称一つ一つが、その時代の文化の様式の色に染まつてゐた。さういふぐあひになつて、
はじめて文化の名に値するのであり、文化とは生活のすみずみまで潔癖に様式でおほひつくす力であるから、
すきや造りの一間にテレビがあつたりすることは許されないのである。

三島由紀夫
「日本への信条」より

112 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:09:25 ID:???
私はただ、畳にすわるよりいすにかけるはうが足が楽だからいすにかけ、さうすれば、テーブルも、じゆうたんも、
窓も、天井も、何から何まで西洋式でなければ、様式の統一感に欠けるから、今のやうな生活様式を選んだのである。
それといふのも、もし、私が純日本式生活様式を選ばうとしても、十八世紀に生きてゐれば楽にできたであらうが、
二十世紀の今では、様式の不統一のぶざまさに結局は悩まされることになるからである。
私にとつては、そのやうな、折衷主義の様式的混乱をつづける日本が日本だとはどうしても思へない。
また、一例が、能やカブキのやうなあれほどみごとな様式的美学を完成した日本人が、たんぜんでいすにかけて
テレビを見て平気でゐる日本人と、同じ人種だとはどうしても思へない。
こんなことをいふと、永井荷風流の現実逃避だと思はれようが、私の心の中では、過去のみならず、未来においても、
敏感で、潔癖で、生活の細目にいたるまで様式的統一を重んじ、ことばを精錬し、しかも新しさをしりぞけない
日本および日本人のイメージがあるのである。

三島由紀夫
「日本への信条」より

113 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:09:42 ID:???
そのためには、中途はんぱな、折衷的日本主義なんかは真つ平で、生つ粋の西洋か、生つ粋の日本を選ぶほかはないが、
生活上において、いくら生つ粋の西洋を選んでも安心な点は、肉体までは裏切れず、私はまぎれもない
日本人の顔をしてをり、まぎれもない日本語を使つてゐるのだ。つまり、私の西洋式生活は見かけであつて、
文士としての私の本質的な生活は、書斎で毎夜扱つてゐる「日本語」といふこの「生つ粋の日本」にあり、
これに比べたら、あとはみんな屁のやうなものなのである。
今さら、日本を愛するの、日本人を愛するの、といふのはキザにきこえ、愛するまでもなくことばを通じて、
われわれは日本につかまれてゐる。だから私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことに
なるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである。

三島由紀夫
「日本への信条」より

114 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:09:59 ID:???
低開発国の貧しい国の愛国心は、自国をむりやり世界の大国と信じ込みたがるところに生れるが、かういふ
劣等感から生れた不自然な自己過信は、個人でもよく見られる例だ。私は日本および日本人は、すでにそれを
卒業してゐると考へてゐる。ただ無言の自信をもつて、偉ぶりもしないで、ドスンと構へてゐればいいのである。
さうすれば、向うからあいさつにやつてくる。貫禄といふものは、からゐばりでつくるものではない。
そして、この文化的混乱の果てに、いつか日本は、独特の繊細鋭敏な美的感覚を働かせて、様式的統一ある文化を
造り出し、すべて美の視点から、道徳、教育、芸術、武技、競技、作法、その他をみがき上げるにちがひない。
できぬことはない。かつて日本人は一度さういふものを持つてゐたのである。

三島由紀夫
「日本への信条」より

115 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:13:32 ID:???
このごろ世間でよく言はれることは、「あれほど苦しんだことを忘れて、軍国主義の過去を美化する風潮が
危険である」といふ、判コで捺したやうな、したりげな非難である。
しかし人間性に、忘却と、それに伴ふ過去の美化がなかつたとしたら、人間はどうして生に耐へることができるであらう。
忘却と美化とは、いはば、相矛盾する関係にある。
完全に忘却したら、過去そのものがなくなり、記憶喪失症にかかることになるのだから、従つて過去の美化も
ないわけであり、過去の美化がありうることは、忘却が完全でないことにもなる。
人間は大体、辛いことは忘れ、楽しいことは思ひ出すやうにできてゐる。この点からは、忘却と美化は
相互補償関係にある。美化できるやうな要素だけをおぼえてゐるわけで、美化できない部分だけをしつかり
おぼえてゐることは反生理的である。人の耐へうるところではない。

三島由紀夫
「忘却と美化」より

116 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:13:47 ID:???
私は、この非難に答へるのに、二つの答を用意してゐる。
一つは、忘れるどころか、「忘れねばこそ思ひ出さず候」で、人は二十年間、自分なりの戦争体験の中にある
栄光と美の要素を、人に言はずに守りつづけてきたのが、今やつと発言の機会を得たのに、邪魔をするな、
といふ答である。
この答の裏には、いひしれぬ永い悲しみが秘し隠されてゐるが、この答の表は、むやみとラディカルである。
従つて、この答を敢てせぬ人のためには、第二の答がある。
すなはち、現代の世相のすべての欠陥が、いやでも応でも、過去の諸価値の再認識を要求してゐるのであつて、
その欠陥が今や大きく露出してきたからこそ、過去の諸価値の再認識の必要も増大してきたのであつて、
それこそ未来への批評的建設なのである、と。

三島由紀夫
「忘却と美化」より

117 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:20:09 ID:???
桜田門外の変は、徳川幕府の権威失墜の一大転機であつた。十八列士のうち、ただ一人の薩摩藩士として
これに加はり、自ら井伊大老の首級をあげ、重傷を負うて自刃した有村次左衛門は、そのとき二十三歳だつた。
(中略)
維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、
国家変革の情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。
そこへ行くと、国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。
かれらの言葉づかひは、全然大和言葉ではない。又、あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、
コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである。あんなものをカッコイイと思つてゐる青年は、
すでに日本人らしい美意識を失つてゐる。いはゆる「解放区」の中は、紙屑だらけで、不潔をきはめ、神州清潔の民は
とてもあんな解放区に住めたものではないから、きつと外国人を住まはせるための地域を解放区といふのであらう。

三島由紀夫
「維新の若者」よ

118 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:20:57 ID:???
私は、ごく簡単に言つて、青年に求められるものは「高い道義性」の一語に尽きると思ふ。
さう言ふと、バカに古めかしいやうだが、道義といふのは、青年の愚直な盲目的な純粋性なしにば、この世に
姿を現はすことはないのである。老人の道義性などといふのは大抵真っ赤なニセモノである。
私がいつも思ひ出すのは、二・二六事件で処刑された青年将校の一人、栗原中尉のことである。(中略)
中尉の部下だつた人から直接きいた話であるが、あるとき演習があつて、小休止の際、中尉の部下の一上等兵が、
一種のアルコール中毒で、耐へられずに酒屋へとび込んでコップ酒をあふつてゐた。そこへ通りかかつた大隊長に
詰問され、所属と姓名を名乗らされたが、その晩帰営すると、大隊長は一言も講評を言はず、全員の前で、
その兵の名をあげて、いきなり重営倉三日を宣告した。
中尉は部下に、その兵の演習の汗に濡れたシャツを取り換へさせるやう、営倉は寒いから暖かい衣類を持つて
行かせるやうに命じた。それからなほ三日つづいた演習のあひだ、部下たちは中尉の顔色の悪いのを気づかつた。
存分の働きはしてゐたが、いかにも顔がすぐれなかつた。

三島由紀夫「現代青年論」より

119 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:21:13 ID:???
あとで従兵の口から真相がわかつたが、上等兵の重営倉の三晩のあひだ、中尉は一睡もせず、軍服のまま、
香を焚いて、板の間に端座して、夜を徹してゐたのださうである。
釈放後この話をきいた兵は、涙を流して、栗原中尉のためなら命をささげようと誓ひ、事実、この兵は
二・二六事件に欣然と参加したさうだ。
青年のみが実現できる高い道義性とは、かういふことを言ふのである。第一、老人では、いくらその気があつても、
三日も完全徹夜をした上で走り回つてゐたら、引つくりかへつてしまふであらう。
二・二六事件が右寄りの話で面白くないといふのなら、左翼の革命運動も、青年がこれに携はる以上、高い
道義性の実現なしには、本当に人心を把握できないと私は信ずる。
チェ・ゲバラは革命家の禁欲主義を唱へ、強姦の罪を犯した愛する部下を涙をのんで射殺したが、これはゲバラが
革命の道義性をいかに重んじたかの証左であつて、毛沢東の「軍事六篇」もこの点をやかましく言つてゐる。

三島由紀夫
「現代青年論」より

120 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:21:28 ID:???
…一学生の万引き事件、日大紛争における暴力団はだしの残虐なリンチ事件、……これらは学生による政治活動から、
道義性が崩壊してゆくいちじるしい事例である。あとには目的のためには手段をえらばない革命戦術が
残つてゐるだけである。一見、平和戦術をとつてゐる一派も、それ自体が戦術であることが見えすいてゐて、
何ら高い道義性を感じさせることはない。
ここまで青年を荒廃させたのは、大人の罪、大人の責任だ、といふのが、今通りのいい議論だが、私はさう考へない。
青年の荒廃は青年自身の責任であつて、それを自らの責任として引き受ける青年の態度だけが、道義性の
源泉になるのである。

三島由紀夫
「現代青年論」より

121 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:25:56 ID:???
>>118
顔 → 顔色

122 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:26:10 ID:???
松陰はやはり、日本の根本的な問題、そして忙しい人たちが気がつかない問題、しかし、これをはづれたら
日本が日本でなくなるやうな問題、それだけを考へつめてゐたんだと思ふんです。
わたくしは、精神といふものは、いますぐ役に立たんもんだといふことを申し上げました。
わたくしは、自分の書いたものや、いつたものが、いますぐ役に立つたら、かへつてはづかしいといふふうに
考へてをります。ですから、たとへばけふ申し上げたことが、あるひはみなさんのお心のどつかにとまつて、
それが十年後、二十年後に役に立つていただければ、それはありがたいけれども、あつ、三島のいつたことは
おもしろい、ぢや、けふ会社で利用して、つかつてみようかといふやうなことは、わたくしは申し上げたくもないし、
申し上げる立場にもゐないと思ふんです。わたくしは、その、ぢや日本の精神ていふのはなんだ。日本が日本である
ものはなんだ。これをはづれたら、もう日本でなくなつちやふもんはなんだと。それだけを考へていきたいです。

三島由紀夫
「現代日本の思想と行動」より

123 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:26:22 ID:???
(中略)
そして、いま非常な情報化社会がありますから、精神といふものはテレビに写らない。そしてテレビに写るのは
ノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。そして人間はみんなステートメント
やることによつて、なにかしたやうな気持になつてゐるんです。わたくしは、そこまでいけば、どんなことを
やつたところで、目に見えない精神にかなはないんぢやないかといふふうに思つてゐるんです。
昔のやうに爆弾三勇士、あるひは特攻隊、ああいふやうなものがあつたときに、はじめてこれはすごい、
これはテレビにも写らなかつた、なにも出なかつたが、これはすごいといふ一点があると思ふんですが、
いまテレビに写つてるものは、どんなものが出てこようが、結局、情報化社会のなかでとかし込まれて、また
忘れられ、笑はれ、そして人間の精神体系になにものも加へないままで消えていくんぢやないか。

三島由紀夫
「現代日本の思想と行動」より

124 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 14:26:37 ID:???
わたくしは、政治自体も非常にさういふ点で危険な場所にゐると思ひますのは、政治もあらゆる場合に
ステートメントだけになつていく。そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、
ちやうどあたかも塵埃処理のやうに、早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうづまつてしまふ。
紙くずでうづまつてしまふ。それで情報化社会といふものは過剰な情報をどんどん処理してゐるんです。
この東京といふもの、日本といふものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになつてくる。
そのなかで人間はなにをすべきかといふことについて、わたくしはなんとか考へていきたいと思ふんです…

三島由紀夫
「現代日本の思想と行動」より

125 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:10:05 ID:???
電気の世の中が蛍光電灯の世の中になつて、人間は影を失なひ、血色を失なつた。
蛍光灯の下では美人も幽霊のやうに見える。近代生活のビジネスに疲れ果てた幽霊の男女が、蛍光灯の下で、
あまり美味しくもなささうな色の料理を食べてゐるのは、文明の劇画である。
そこで、はうばうのレストランでは、蝋燭が用ひられだした。磨硝子(すりガラス)の円筒形のなかに蝋燭を
点したのが卓上に置かれる。すると、白い卓布の上にアット・ホームな円光がゑがかれ、そこに顔をさし出した
女は、周囲の暗い喧騒のなかから静かに浮彫のやうに浮き出して見え、ほんの一寸した微笑、ほんの一寸した
目の煌めきまでがいきいきと見える。情緒生活の照明では、今日も蝋燭に如くものはないらしい。
そこで今度は古来の提灯(ちやうちん)がかへり見られる番であらう。

三島由紀夫「蝋燭の灯」より

126 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:10:19 ID:???
…私の幼年時代はむろん電気の時代だつたが、提灯はまだ生活の一部に生きてゐた。内玄関の鴨居には、家紋を
つけた大小長短の提灯が埃まみれの箱に納められてかかつてゐた。火事や変事の場合は、それらが一家の
避難所の目じるしになるのであつた。
提灯行列は軍国主義花やかなりし時代の唯一の俳句的景物であつたが、岐阜提灯のさびしさが今日では、生活の中の
季節感に残された唯一のものであらう。盆のころには、地方によつては、まだ盆灯籠が用ひられてゐるだらうが、
都会では灯籠といへば、石灯籠か回はり灯籠で、提灯との縁はうすくなつた。
「大塔宮曦鎧」といふ芝居があつて、その身替り音頭の場面には、たしか美しい抒情的な切子(きりこ)灯籠が
一役買つてゐた。切子灯籠は、歳時記を見ると、切子とも言ひ、灯籠の枠を四角の角を落とした切子形に作り、
薄い白紙で張り、灯籠の下の四辺には模様などを透し切りにした長い白紙を下げたもの、と書いてある。
江戸時代の庶民の発明した紙のシャンデリアである。

三島由紀夫「蝋燭の灯」より

127 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:10:35 ID:???
私は別にかつての軍隊の讚美者でもなく、軍隊生活の経験も持たない身は、それについて論じる資格もないが、
大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない反感を感じたおぼえがある。
たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、
戦死した彼らのかたはらには、ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふ
シーンがあつた。甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。
日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが
論理的であり、人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死をジャスティファイする権利をもつてゐる。

三島由紀夫
「『青春監獄』の序」より

128 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:10:48 ID:???
絶対的に受身の抵抗のうちに、戦死しても犬のやうに殺されたといふ実感を自ら抱いて、死んでゆける人間は、
稀に見る聖人にちがひない。私はすべてこの種の特殊すぎる物語に疑ひの目を向ける。兵隊であつて文学者で
あつた人の書くものも、一般人を納得させるかもしれないが、私のやうな疑ぐり深い文士を納得させない。
私の読みたいのは、動物学者の書いた狼の物語ではなく、狼自身の書いた狼の物語なのである。狼がどんなに
嘘を並べても、狼の目に映つた事実であり嘘であれば、私は信じる。私は何も礼を失して、宮崎氏を狼呼ばはり
するのではない。しかし氏の著書は、或る見地から見て、実に貴重なのである。(中略)
軍隊そのものも、決して日本および日本人にとつて、突然変異的な発生物ではなかつた。その社会的必然、
経済学的必然は自明であり、兵隊のもつてゐた平均的情緒、平均的悲哀は、日本人の内に深く根ざし、今日
おもてむき軍隊をもたない日本にも、この種の感性は、依然普遍的に潜在してゐる。

三島由紀夫
「『青春監獄』の序」より

129 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:12:41 ID:???
一九五九年の、月の裏側の写真は、人間の歴史の一つのメドになり、一つの宿命になつた。
それにしても、或る国の、或る人間の、単一の人間意志が、そのまま人間全体の宿命になつてしまふといふのは、
薄気味のわるいことである。広島の原爆もまた、かうして一人の科学者の脳裡に生れて、つひには人間全体の
宿命になつた。
こんなふうに、人間の意志と宿命とは、歴史において、喰ふか喰はれるかのドラマをいつも演じてゐる。
今まで数千年つづいて来たやうに、(略)人間のこのドラマがつづくことだけは確実であらう。
ただわれわれ一人一人は、宿命をおそれるあまり自分の意志を捨てる必要はないので、とにかく前へ向つて
歩きだせはよいに決つてゐる。

三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)」より

130 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:17:19 ID:???
よく明治時代の小説にありますが、胸の悪い女の人は美人に見えて、白い頬つぺたにポッと赤みがさしてて
きれいである。堀(辰雄)さんの小説を見ると、いかにも胸の悪い美人といふ感じがするんです。
私は小説と肉体との関係といふものを、これもずいぶん考へました。私も実は昔胃弱で、大蔵省にゐた頃は
非常な胃弱でした。当時から、小説の締め切りが近づくと胃が痛んでしやうがないんで、壁に足をのせて
逆立ちして、しばらく我慢したりしてた。こんなことを続けてゐたら今に肉体的破産である、さう思ひまして
私は、自分の身体を鍛へ直さうと思つたわけです。
(中略)
私は、文士といふものは肉体のもうひとつ奥底にあるもので書くんだが、肉体といふものはそれを媒体にして
出てくる大事な媒体だといふふうに考へるんです。

三島由紀夫
「日本とは何か」より

131 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:17:31 ID:???
小説を書くときには、自分の幼時記憶やら、あるひはもつと生まれる前の記憶もあるかもしれません、人類の
いろんな記憶がわれわれの精神のなかに堆積されてゐる。自分の無意識のなかへ手を突つ込めば、どこまで
ズルズル入りこむか分からない。しかしその奥そこに何かがあつて、それが自分に芸術作品を書くやうに
そそのかしてゐる。多少神秘的な考へですけれども、ユンクの言ふやうな集合的無意識、その集合的無意識が
ある人間に技術を与へて小説を書くやうに促してゐるんだといふふうに私は考へるわけです。
(中略)書くといふ行為にも肉体が媒体になつてゐるのがはつきりしてゐるんですから、したがつてその媒体に
何かの故障があれば、もつと基にあるものが出てくるときにどこかでひつかかるに違ひない。これは、フィルターで
濾されるやうなものであります。私は、小説家としてなるたけ濾されないで、途中で何かにひつかからないで
出てくるやうに自分の身体をこしらへようと思つたのが、私が体育に精を出した端緒でありました。

三島由紀夫
「日本とは何か」より

132 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:17:59 ID:???
と申しますのは、前にお話ししたやうに、堀辰雄さんの小説といふものは非常にいいけれども、堀辰雄はどうしても
旋盤工の話は書けない。どんなに頑張つても新宿デモの話を書けない。堀さんの小説の世界といふものは、完全に
限られてゐる。それからまた川端康成さんは、これは非常な胃弱といひますか不眠症の方でありまして、やはり
この方の小説は非常に優雅な美しい小説でありますけれども、川端さんがストライキの小説を書いたといふものは
ひとつもない。さういふ具合に、作家といふものはかなり肉体によつて掣肘されてゐるやうな感じがする。
人間の問題全部に興味を持つのが作家であるとすれば、その媒体でもつてひつかかるものをとらなきやならない。
媒体をなるたけ自由に、透明に自在にしておいて、さうすることによつて媒体の力をフルに使つて媒体以前のもの、
自分のもつとも源泉的なものを表に出さなきやいかんといふふうに考へてきたわけです。

三島由紀夫
「日本とは何か」より

133 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:18:12 ID:???
(中略)日本といふ国が非常に特徴的だと思ふのは、私が日本のことを考へると日本も日本のことを考へて
ゐるんだといふ神秘的な共感を感じるんです。
(中略)私はやはり、安保反対か賛成かで分けられないものが日本人のなかにある。
(中略)来年の六月の安保は自動延長になるでせうが、さういふ時期を経過して日本が揺れ動いていくときには、
表面上のかたちは安保賛成か反対かといふことで非常な衝突が起こるでありませう。しかし私は、安保賛成か
反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がするんです。
…私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成と
いふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。
そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。

三島由紀夫
「日本とは何か」より

134 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:18:43 ID:???
私はこの安保問題が一応方がついたあとに初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ
鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。そのときには、いはゆる国家超克といふ思想も出てくるでありませうし、
アナーキストも出てくるでありませうし、われわれは日本人ぢやないんだといふ人も出てくるでありませう。
しかし、われわれは最終的にその問ひかけに直面するんぢやないかと思ふんです。
(中略)
「戸籍はあるけど無国籍だ。俺は日本人なんてもんぢやない。人間だ」
…かういふ人たちがこれから増えてくる、「あくまで私は日本人だ」「オレは日本人ぢやない」――さういふ
二種類の人種がこれから日本に出てくる。そのときに向かつて私は自分の文学を用意し、思想を用意し、あるひは
行動を用意する。さういふことしか自分には出来ないんだ。これを覚悟にしたい、さう思つてゐるわけであります。

三島由紀夫
「日本とは何か」より

135 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:22:24 ID:???
…戦後の変節の早さ、かりにも「一国一城の主」が、女みたいに「私はだまされてゐた」と言ひ出すのを見ては、
私はいはゆる文化人知識人の性根を見たやうな気がしたのである。
大体、文化人や知識人と名乗るだけの人間が「だまされてゐた」では通るまい。この種の人たちは、十中八九、
口ほどにもないお人よしで、実際にだまされてゐたのかもしれないが、それを言はないで、だまされてゐたままの
自分の形を押し通すだけの自負がなかつたのか。思想的弾圧のはげしさは言語を絶してゐたかもしれないが、
いくら割り引いてみても、知識人文化人のたよりなさの印象はのこるのである。
変節防止のために相互監視をやつたらどうか。言論の自由を守るとは、結局自分を守ることだといふのでは情けない。

三島由紀夫
「フィルターのすす払ひ」より

136 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:22:38 ID:???
「われわれの考へる言論の自由」といふものを本当に信じ、それを守り抜くためには、一人一人ばらばらでは、
はなはだたよりなかつた前歴があるから、今度は二度と引き返せぬやうに、相互監視でもやつて変節を
防止しなければ、第一、われわれの言論を信じてくれる読者各位に対して申し訳ないではないか。
十年もつといふ宣伝で買つた洗濯機が、三日でこはれてしまつては、商業道徳に反するではないか。
大体、文化人知識人などといふものは、弱い立場なのである。社会的地位もあいまいで、非常の場合に力で
押して来られたら一トたまりもない。
幸ひ今は平和な時代で、大きな顔をしてゐられるが、われわれが大きい顔をしてゐられるから、平和がありがたい、
といふのでは、材木が売れるから地震がありがたい、といふ材木屋の考へと同じである。

三島由紀夫
「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より

137 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:22:52 ID:???
(中略)
世論なるものの作られ方自体にも、相当怪しいところがあるのである。子供にだつて、シュークリームと
あんころもちの二つを選ばせれば、どちらがうまいか、自分の意見を決めることができるが、シュークリームだけを
与へつづければ、世界中でシュークリームほどうまいものはないと思ふやうになる。
今、日教組がとなへてゐる「教育の自由」とは、シュークリームだけを与へる教育の自由なのである。
ジャーナリズムの有力な傾向も、公正に見せかけた「選択の自由の排除」であつて、われわれは言論を通じて、
公正な選択の場を何とか確保しようと努めてゐるにすぎない。

三島由紀夫
「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より

138 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:23:06 ID:???
現代政治の特徴は何事も世論のフィルターを濾過されねばならぬことであらうが、そのフィルターにくつついた
煤の煤払ひをしなければ世論自体が意味をなさぬ。
かくも強力なフィルターが、煤のおかげで、ひたすら被害者、被圧迫者を装つて、フィルターの濾過を拒んで
ゐるやうな状況は、不健全であるのみならず、フィルターの権威を落すものであると考へる。
かくてわれわれは、手に手に帚を持つて、煤払ひの戦ひに乗り出したといふわけなのである。

三島由紀夫
「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より

139 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:23:20 ID:???
テレビをみんなで眺めながら黙つて食事をするこのごろの悪習慣は、私のもつとも嫌悪するところであるので、
どんな面白い番組があつても、食事中はテレビを消させる。
私は一週一回は必ず子供たちと夕食をとるが、多忙な生活で、それ以上食事を共にすることができない。
子供たちの就寝時間は厳格に言ひ、大人の都合で遅寝をさせるやうなことも決してせず、まして子供のわがままで
時間をおくらせることもしない。休日といへども、同様である。
子供を連れて出れば、必ず、就寝時間三十分前には帰宅する。
子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるやうなウソを除いては、大目に見る。
子供のウソは、子供の夢と結びついてゐるからである。

三島由紀夫
「わが育児論」より

140 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:28:41 ID:???
――二・二六事件に関してどう考へてゐるか。
三島:十一歳のとき起きたあの事件は、私にたいへん大きな精神的影響を与へた。私がいまも持つてゐる英雄崇拝と
ざせつ感は、すべてあの事件に由来するものです。いふまでもなく私は反乱軍といはれた青年将校の味方で、
のちに反乱軍として糾弾した本がたくさん出たが、さういふたぐひの本を読むと、ハラがたつて破つて捨てたほどですよ。
その後の軍閥政治であの挙兵が逆用され、すつかり汚されてしまつたが、青年将校たちの行動は、いはば
昭和維新になりうる可能性を持つたものであり、救国の信念に基づく純粋なものでした。
それが反乱軍の汚名を冠せられたのは、陛下を取り巻く卑怯で臆病でずる賢い老臣どもの策謀であり、ひいては
それを受け入れられた陛下ご自身の責任です。

三島由紀夫
「“人間宣言”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より

141 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:28:53 ID:???
――戦前の「天皇制国家」を唯一の国体と考へるのか。
三島:さうです。天皇が自ら人間宣言をなされてから、日本の国体は崩壊してしまつた。戦後のあらゆる
モラルの混乱はそれが原因です。なぜ、天皇が人間であつてはならぬのか。少なくともわれわれ日本人にとつて
神の存在でなければならないのか。このことをわかりやすく説明すれば、結局「愛」の問題になるのです。
近代国家はかつての農本主義から資本主義国家へ必然的に移行していく。これは避けられない。封建的制度は崩壊し、
近代的工業主義へ、そしていきつくところは、人生の絶望的状態である完全福祉国家とならざるをえないすう勢だ。
そして一方、国家が近代化すればするほど、個人と個人のつながりは希薄になり、冷たいものになるんですね。
かういふ近代的共同体のなかに生きる人間にとつては、愛は不可能になつてしまふ。

三島由紀夫
「“人間宣言”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より

142 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:29:05 ID:???
たとへばAがBを愛したと信じても、かういふ社会では、確かめるすべをもたない。逆にBのAに対する愛にしても
さうです。つまり、近代的社会における愛は相互間だけでは成立しないといふことなのです。
愛し合ふ二人の他に、二人が共通にいだいてゐる第三者(媒体)のイメージ――いはば三角形の頂点がなければ、
愛は永遠の懐疑に終はり、ローレンスのいふ永遠に不可知論になつてしまふ。これはキリスト教の考へ方でもあるが、
昔からわれわれ日本人には、農本主義から生まれた「天皇」といふ三角形の頂点(神)のイメージがあり、
一人々々が孤独に陥らない愛の原理を持つてゐた。天皇はわれわれ日本人にとつて絶対的な媒体だつたんです。
私は天皇制についてきかれるたびに、いつも“お祭りは必要なのだから大切にすべきだ”と一言いつてたのは、
さういふ意味です。

三島由紀夫
「“人間宣言”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より

143 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:34:58 ID:???
…この叫び(剣道のかけ声)には近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。
それはもつとも暗い記憶と結びつき、流された鮮血と結びつき、日本の過去のもつとも正直な記憶に源してゐる。
それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐるところの、民族の深層意識の叫びである。
このやうな怪物的日本は、鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰へ呻吟してゐるが、今なほ剣道の道場に
おいてだけ、われわれの口を借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。

三島由紀夫
「実感的スポーツ論」

144 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:35:10 ID:???
私は今ではこの叫びを切に愛する。
このやうな叫びに目をつぶつた日本の近代思想は、すべて浅薄なものだといふ感じがする。
それが私の口から出、人の口から出るのをきくとき、私は渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る
新しい高速道路を仰ぎ見ながら、あちらには「現象」が飛びすぎ、こちらには「本質」が叫んでゐる、といふ喜び、
……その叫びと一体化することのもつとも危険な喜びを感じずにゐられない。
そしてこれこそ、人々がなほ「剣道」といふ名をきくときに、胡散くさい目を向けるところの、あの悪名高い
「精神主義」の風味なのだ。私もこれから先も、剣道が、柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず、
あくまでその反時代性を失はないことを望む。

三島由紀夫
「実感的スポーツ論」より

145 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:38:40 ID:???
私は大体笑ふことが好きであり、子供のころから「この子を映画へ連れてゆくと、突拍子もないところで
ケタケタ笑ひ出して、きまりわるい」とおとなにいはれた。徳大寺公英氏の思ひ出話によると、中学時代も、
教室でキャッキャッと一きは高い笑ひ声がするので、私がゐることがわかる、と先生がいつてゐたさうである。
おとなになつても、福田恆存氏の「キティ颱風」の招待日などには、拍手役ならぬ、笑声のサクラに狩り出された。
うしろのはうの席に、宮田重雄氏はじめ、笑ひの猛者がそろつてゐて、セリフの一言半句ごとに、声をそろへて
ゲラゲラ笑ふのである。するとそれにつられて笑ひ出すお客がある。福田氏は、新劇の観客層のシンネリムッツリを、
よほどおそれてゐたのである。
俳優のT君が、「君の貧弱な体格からすると、笑ひ声だけが大きくて不自然だから、後天的に自分で育成これ
つとめたものだらう」といつたが、これはマトをそれてゐる。私の肺活量はこれでも四千七百五十もある。

三島由紀夫
「わが漫画」より

146 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:38:59 ID:???
漫画は、かくて、私の生理衛生上必要不可欠のものである。をかしくない漫画はごめんだ。何が何でもをかしく
なくてはならぬ。おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画を私は愛する。
悩殺する、とか、笑殺する、とかいふ言葉は、実存主義ふうに解すると、相手を「物」にしていまふことだと思はれる。
「人を食ふ」といふのもこれに等しい。われわれは他人の人格を食ふことはできぬ。相手を単なる物、単なる
肉だと思ふから、食ふことができる。
漫画はだから「食はれる状態」をうまく作りあげねばならぬ。「物」になつてゐなければならぬ。
知的な漫画ほどこの即物性がいちじるしく、低級な漫画ほど、笑ひ話の物語性だの、教訓性だの、によりかかつてゐる。
下手な落語家は「をかしいお話」を語るにすぎないが、名人の落語家ほど、笑はれるべき対象を綿密に造形して、
話の中に「笑はれるべき物」を創造してゐるのである。
何もいはゆる、サイレント漫画が知的だといふのではない。
言葉がない代りに、社会の良風美俗に逆によりかかつてわからせてゐるやうな、不心得な漫画も散見する。

三島由紀夫

147 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:39:23 ID:???
漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを
仕入れて来なければならないのだ。あらゆる倒錯は漫画的であり、あらゆる漫画は幾分か倒錯的である。
そして倒錯的な漫画が、人を安心して笑はせるやうではまだ上等な漫画とはいへぬ。
日本の漫画がジャーナリズムにこびて、いはゆる社会的良識にドスンとあぐらをかいて、そこから風俗批評、
社会批評をやらかして、それを漫画家の使命だと思つてゐる人が少なくないのは、にがにがしいことである。
もつとも漫画的な状況とは、また永遠に漫画的状況とは、他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて
見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐる
といふ状況である。漫画は、この第二のダイナマイトを仕掛けるところに真の使命がある。

三島由紀夫
「わが漫画」より

148 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:39:37 ID:???
あんまりのんびりしてゐると、ほかならぬ漫画家自身が、右のやうな漫画を演じなければならぬことになりますぞ!
さて私も、かういふ商売をやつてゐて、何やかと漫画に描かれることが多い。この一文で、漫画家諸氏のお名前を
一つもあげなかつたのは、かかる職業上のおもんぱかりであるが、われわれ文士も「素人時評」といふやつは、
ほとほとにがにがしい、イヤ味なものだと思つてゐるのである。
小説書きでないやつに、小説なんてわかるものか!
漫画家でないやつに、漫画なんてわかつてたまるものか!
それでよろしい。
さて、一つの漫画は、小説家が、かういふ雑文をたのまれて、をかしくもない文章を、頭から湯気を立てて
書いてゐる、といふその状況である。

三島由紀夫
「わが漫画」より

149 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:43:28 ID:???
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるいものはない。
さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、ニグロに
対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局インディアンの
伝統的英雄に帰着するさうである。アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙のヨーロッパ人
としてよりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。開拓時代にインディアンと
戦ひながら、アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。(中略)
「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは
ないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。平和な市民生活に直接の身体的
危険が乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、
あるひは内攻してノイローゼに向ふことになる。西部劇はかういふ不満に対するいかにも安全な薬品になる。
三島由紀夫「西部劇礼讚」より

150 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:48:51 ID:???
われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、個性的なところはひとつもない。しかし死は厳密に個人的な
事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることはできないのだ。死がこんな風に個性を失つたのには、
近代生活の劃一化と劃一化された生活様式の世界的普及による世界像の単一化が原因してゐる。
ところで原子爆弾は数十万の人間を一瞬のうちに屠(ほふ)るが、この事実から来る終末感、世界滅亡の感覚は、
おそらく大砲が発明された時代に、大砲によつて数百の人間が滅ぼされるといふ新鮮な事実のもたらした感覚と
同等のものなのだ。(中略)
原爆の国連管理がやかましくいはれてゐるが、国連を生んだ思想は、同時に原子爆弾を生まざるをえず、
世界国家の理想と原爆に対する恐怖とは、互ひに力を貸し合つてゐるのである。

三島由紀夫「死の分量」より

151 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:49:02 ID:???
交通機関の発達と、わづか二つの政治勢力の世界的な対立とは、われわれの抱く世界像を拡大すると同時に
狭窄にする。原子爆弾の招来する死者の数は、われわれの時代の世界像に、皮肉なほどにしつくりしてゐる。
世界がはつきり二大勢力に二分されれば、世界の半分は一瞬に滅亡させる破壊力が発明されることは必至である。
しかし決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、個々人の死の分量は
同じなのである。原爆から新たなケンタウロスの神話を創造するやうな錯覚に狂奔せずに、自分の死の分量を
明確に見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。
まづ個人が復活しなければならないのだ。

三島由紀夫「死の分量」より

152 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:49:15 ID:???
現代の若い人たちの特徴として、欲望の充足そのものをあまり重要なものとしてゐないのではないかと僕は思ふ。
それは欲望を充足してから後に、いつも「たしかこれだけではないはずだ」といふやうな飢餓の気持に襲はれて、
その感じの方が欲望の充足といふことよりも強く来てしまふんです。女の人に関しては、まだまだ欲望の
充足といふことは大問題かもしれないけれども、若い男にとつては欲望の充足だけが人生の大問題であるなんて
ことは、ほとんどないんぢやないかと思ふ。(中略)
今はさういふもの(性欲の満足)に対して、あまりにも近道が発達してゐるものだから、人間のかなり大事な
一つの仕事である生殖作用が、だんだん軽くなつてゐる。その一つの現はれがペッティングなどといふことに
なるんだけれども、これからますますかういふ傾向がひどくなるんぢやないかと思ふ。その結果、若い人たちの
性欲以外のいろいろな欲望に対する追求も、だんだんとねばりがなくなり、非常にニヒリスティックになる
といふことは言へると思ふ。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

153 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:49:29 ID:???
たとへば明治時代の立身出世主義のやうに一つの公認されてゐる社会的欲望が、大多数の人たちを動かして
ゐた時代もあるわけです。さうすると、社会的欲望の充足が、だれが見ても間違ひのない社会における完全な
勝利になる。さういふ時代には、あらゆる条件がそれに伴つて動いてゐたと思ふんです。たとへば上昇期の
資本主義の時代、さうして日本が近代国家として統一されて、まだ間もない時代、しかも恋愛の自由がまだ
完全にない時代――もちろんプロスティチュートはたくさんゐたし、さういふことの満足は幾らでも得られた
けれども、普通の恋愛がまだ非常に困難であつた時代、従つてたとひ男がプロスティチュートを買つても、
精神的に非常にストイックだつた時代、さういふ頃には、欲望の充足といふことは、みんな一つの大きな方向に
向つた大事業だつたといつていいと思ふ。だからさういふ立身出世主義みたいな世俗的なものの裏返しとしては、
あの時代は理想主義の時代だつたとも言へるかもしれない。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

154 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:50:03 ID:???
けれども今の時代は、普通の若い人たちの間で、必ずしもプロスティチュートでなくても、欲望の充足が非常に
簡単になつて来てゐる。その簡単になつて来たといふ背後には、逆にどうやつてもいろいろな社会的な欲望の
充足が困難になつて来たといふ事情も入つてゐると思ふ。たとへば今学校で子供たちに、将来何になりたいかと
聞いたならば、大臣になりたいなどといふ子供はあまりゐないだらうし、大将などはなくなつてしまつた
やうなものだし、みんなのなりたいものは、プロ野球の選手だとか映画俳優くらゐしかなくなつてしまつた。
さうして社会が一種の袋小路に入つてゐて、未来の日本の希望といふものもあまり見られないし、社会そのものが
今発展期にないといふことが、非常に概念的な言ひ方だけれども、簡単に欲望が満足させられてしまふ悲しさ、
空虚感に、ますます拍車をかけてゐるといふ感じがする。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

155 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:53:07 ID:???
そこで欲望の充足といふことは、ほかの項目にある刺激飢餓といふことに、すぐ引つかかつて来る。
ヒロポンとかパチンコとか麻雀とかに対する狂熱的な欲望も、みんなさういふところに入つて来ると思ふのです。
だから性欲なら性欲といふことを一つ考へても、それにいろいろな条件がからんで来るので、もし性欲が非常に
簡単に満足されるとすれば、何も性欲である必要はないんです。それはある場合においては賭事であつてもいいし、
目先の小さな刺激であつてもいいし、何でもいいわけです。つまり一つの欲望が非常に大事であるといふことに
なれば、ほかの欲望もみんな大事であると言へると思ふ。もし性欲の満足が非常に大事な問題であれば、ほかの
欲望もそれぞれ人生の中での大問題になる。一つの欲望の充足がくだらぬことになつてしまへば、ほかもみんな
くだらなくなつてしまふ。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

156 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:53:19 ID:???
それが両方から鏡のやうに相投射してゐるから、何も女の子を追つかけなくても、ヒロポンを打つてゐれば
いいといふことになる。さうしてヒロポンがこはいといふ人は麻雀をやつてゐればいいといふことになる。
さういふ点から見てみると、案外今の若い人には――それは新聞や雑誌の言ふやうに性道徳が乱れて
めちやくちやになつてゐるといふ部分もあるでせうけれども、一部分には何だか全然何も考へないでパチンコ
ばかりやつてゐて女の子とつき合ふこともない。ヒロポンなんか少し甚だしいけれども、一方では女の子と
ちつともつき合はないで麻雀ばかりやつて、うたた青春を過してゐるのも多いんぢやないか。従つてすべてに
欲望がなくなつた時代とも言へるんぢやないかと思ふ。
(談)

三島由紀夫「欲望の充足について」より

157 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:53:32 ID:???
男のおしやれがはやつて、男性化粧品がよく売れ、床屋でマニキュアさせる男がふえた、といふことだが、
男が柔弱になるのは泰平の世の常であつて、大正時代にもポンペアン・クリームなどといふものを頬に塗つて、
薄化粧する男が多かつたし、江戸時代の春信の浮世絵なんかを見れば、男と女がまるで見分けがつかぬやうに
描かれてゐる。男が手や爪の美容に気をつかふのは、スペインの貴族の習慣で、そこでは手の美しい男で
なければ、女にもてなかつた。
私はこんな風潮一切がまちがつてゐると考へる人間である。男は粗衣によつてはじめて男性美を発揮できる。
ボロを着せてみて、はじめて男の値打がわかる、といふのが、男のおしやれの基本だと考へてゐる。

三島由紀夫「男のおしやれ」より

158 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 16:53:43 ID:???
といふのは、男の魅力はあくまで剛健素朴にあるのであつて、それを引立たせるおしやれは、ボロであつても、
華美であつても、あくまで同じ値打同じ効果をもたらさなければならぬ。指環ひとつをとつてみても、節くれ
立つた、毛むくぢやらの指をしてゐてこそ、男の指環も引立つのだが、東洋人特有のスンナリした指の男が、

指環をはめてゐれば、いやらしいだけだ。
多少我田引水だが、日本の男のもつとも美しい服装は、剣道着だと私は考へてゐる。これこそ、素朴であつて、
しかも華美を兼ねてゐる。学生服をイカさない、といふのも、一部デザイナーの柔弱な偏見であつて、学生服が
ピタリと似合ふ学生でなければ、学生の値打はない。あれも素朴にして華美なる服装である。背広なんか犬に
喰はれてしまへ。世の中にこんなにみにくい、あほらしい服はない。商人服をありがたがつて着てゐる情ない
世界的風潮よ。タキシードも犬に喰はれてしまへ。私はタキシードの似合ふ日本人といふものを、ただの一人も
見たことがないのである。

三島由紀夫「男のおしやれ」より

159 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:39:28 ID:???
日本人の明治以来の重要な文化的偏見と思はれるのは、男色に関する偏見である。
江戸時代までにはかういふ偏見はなかつた。西欧では、男色といふ文化体験に宗教が対立して、宗教が人為的に、
永きにわたつてこの偏見を作り上げたのである。しかるに日本では明治時代に輸入されたピューリタニズムの
影響によつて、簡単に、ただその偏見が偏見として伝播して、奇妙な社会常識になつてしまつた。そして
元禄時代のその種の文化体験を簡単に忘れてしまつた。
男色は、男色にとどまるものでなく、文化の原体験ともいふべきもので、あらゆる文化あらゆる芸術には、
男色的なものが本質的にひそんでゐるのである。
芸術におけるエローティッシュなものとは、男色的なものである。そして宗教と芸術・文化の、もつとも先鋭な
対立点がここにあるのに、それを忘れてしまつたのは、文化の衰弱を招来する重要な原因の一つであつた。

三島由紀夫「偏見について思ふこと」より

160 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:39:44 ID:???
私はショッピングが大きらひだ。店のなかをウロウロして、十軒も二十軒も東京中を歩いて、やつと一本の
ネクタイを買ふ人があるが、時間が惜しくてとてもあんな真似はできない。私の買物は即興詩みたいなものだ。
町を歩いてゐて、視界のはじつこのはうに、ちよつと気に入つたネクタイが目に入る。と間髪を入れずそれを
買ふのである。今のチャンスをのがしたら、その同じネクタイが気に入ることは二度とないだらうと感じるからだ。(中略)
本当のお洒落といふのは、下着から靴下から靴から、すみずみまでのお洒落であらう。私は到底お洒落の
資格はない。せいぜいカラーに汚れのない白いワイシャツをいつも着てゐるぐらゐが私のお洒落であらう。
靴下のことまで考へるのは面倒くさい。しかしもし下着から靴下まで考へることが本当のお洒落ならば、
もう一歩進んで、自分の頭の中味まで考へてみることが、おそらく本当のお洒落であらう。

三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より

161 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:39:59 ID:???
たとへば、いちばん崇高でもあり、つぎの瞬間にいちばん下劣でもあるのが人間なんですよ。
ぼくは、さういふ人間を考へる。崇高なだけであつてもウソに決まつてゐる。
また下劣なのが人間の本当の姿だ、といふ考へ方も大きらひなんですよ。
それは自然主義的な考へ方で、十九世紀に、ごく一部にできた迷信ですよ。
人間は崇高であると同時に下劣。だから、ぼくのことを下劣だと思ふ人があれば、それでもかまはない。
ぼくの中にだつて、「一寸の虫にも五分の魂」で、崇高なものもある。それを、ぼくは自分でぼくだと思ふ。
むりやりに結びつけて、論理的に統一しようつたつて、できるものではない。
ただ思想的には節操は大切だと思ひますけど、それと人間の行動の一つ一つ。
つまり節操の正しい人は、どんなクソの仕方をするのか。
いつもまつすぐなクソがでてくるかといふと、そんなものぢやない。節操の正しい人でも、トグロを巻いちやふ。
節操の曲がつた人でも、まつすぐなクソが出るかもしれない。そんなこと関係ないですよ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より

162 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:46:10 ID:???
チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。(中略)
中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに潜行して反乱軍に
参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は弱い者に味方しようといふ気概を失つて
しまつたやうだ。
世界中で一番自分が弱い者だと思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんでしまつたらしい。

三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より

163 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:46:31 ID:???
一九五九年の、月の裏側の写真は、人間の歴史の一つのメドになり、一つの宿命になつた。
それにしても、或る国の、或る人間の、単一の人間意志が、そのまま人間全体の宿命になつてしまふといふのは、
薄気味のわるいことである。広島の原爆もまた、かうして一人の科学者の脳裡に生れて、つひには人間全体の
宿命になつた。
こんなふうに、人間の意志と宿命とは、歴史において、喰ふか喰はれるかのドラマをいつも演じてゐる。
今まで数千年つづいて来たやうに、(略)人間のこのドラマがつづくことだけは確実であらう。
ただわれわれ一人一人は、宿命をおそれるあまり自分の意志を捨てる必要はないので、とにかく前へ向つて
歩きだせはよいに決つてゐる。

三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)」より

164 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:46:49 ID:???
現代におけるリリシズムがどんな形をとらねばならぬか、といふことが、現代芸術の一番おもしろい課題だと
私は考へてゐる。リリシズムは、現代において、否定された形、ねぢまげられた形、逆説的な形、敗北し流刑に
処された形、鼻つまみの形、……それらさまざまのネガティヴな形をとらざるをえず、そこから逆に清冽な
噴泉を投射する。もし現代において、リリシズムが一見いかにもこれらしい形をとつてゐたら、それは明らかに
ニセモノだと云つてよい。これが、私の「現代の抒情」の鑑定法である。
細江英公氏の作品が私に強く訴へるのは、氏がこのやうに「現代の抒情」を深くひそませた作品を作るからである。
そこには極度に人工的な制作意識と、やさしい傷つきやすい魂とが、いつも相争つてゐる。薔薇は元来薔薇の
置かれるべきでない場所に置かれて、はじめて現代における薔薇の王権を回復する。

三島由紀夫「細江英公氏のリリシズム――撮られた立場より」より

165 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:47:10 ID:???
歌には残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、血の比喩として
使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や、さういふものが明白な肉感的世界の象徴であり、
なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。ところで、言葉は、象徴の機能を通じて、互(かた)みに
観念を交換し、互みに呼び合ふものである。それならば血や肉感に属する残酷な言葉の使用は、失はれた抒情を、
やさしい桜や紅葉の抒情を逆に呼び戻す筈である。春日井氏の歌には、さういふ象徴言語の復活がふんだんに
見られるが、われわれはともあれ、少年の純潔な抒情が、かうした手続をとつてしか現はれない時代に生きてゐる。

三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より

166 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:47:26 ID:???
現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の実相は、時たま起る
酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、病院や葬儀屋の手で、手際よく片附けられる。
宗教にいたつては、息もたえだえである。……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、煙のやうに
消えてしまふ。(略)
現代の問題は、芸術の成立の困難にはなくて、そのふしぎな容易さにあることは、周知のとほりである。
それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、人間の死と腐敗の実相は、赤い血のりを
ふんだんに使つたインチキの残酷さでごまかされ、さらに宗教の代りに似非論理の未来信仰があり、といふ
具合に、三者の代理の贋物が、対立し激突するどころか、仲好く手をつなぐにいたる状況である。そこでは、
この贋物の三者のうち、少くとも二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、
文学らしきものが生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、悩まされることに
なつたのである。

三島由紀夫「変質した優雅」より

167 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:50:50 ID:???
この間伊豆の田舎の漁村へ取材に行つてゐて、その村のたつた一軒の宿に泊り、夕食に出された新鮮な魚が、
ほつぺたが落ちるほど美味しかつたが、一晩泊つてみてびつくりした。別に化物が出たといふ話ではない。
ここは昔ながらの旅籠屋で、襖一枚で隣室に接してゐるわけであるが、前の晩の寝不足を取り戻さうと思つて、
九時ごろ床についたのがいけなかつた。(中略)
又眠らうと寝返りを打つたとたん、隣りの部屋へドヤドヤと人が入つて来て、酒宴がはじまつた。と、それに
まじつてトランジスター・ラヂオの大音声の流行歌がはじまつたが、ラヂオをかけながらの酒宴といふのも
へんなものだと思ふうちに、それがもう一つ向うの部屋のものだとわかつた。
更に別の部屋からは、火のつくやうな赤ん坊の泣き声。……夜十時といふころ、宿全体が鷄小屋をつつついた
やうな騒ぎになつてしまつた。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

168 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:51:06 ID:???
やつと静まつたのが十二時すぎだつたが、それがピタリと静まるといふのではない。しばらく音がしないで、
寝静まつたかなと思ふと、連中は風呂へ行つてゐたので、風呂からかへると、又寝る前に一トさわぎがある。
西瓜の話ばかりなので、商売は何の人だらうと思つたらあとできいたら果して西瓜商人であつた。
一時すぎにやつと眠りについて、朝五時をまはつたころ、村中にひびきわたるラウド・スピーカアの一声に
眠りを破られた。
「第八〇〇丸の乗組員の皆様、朝食の仕度ができましたから、船までとりに来て下さい」
それから間もなく静かになつて、又眠りに落ちこむと、今度はラヂオ体操がスピーカアから村中に放たれた。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

169 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:51:36 ID:???
(中略)――かうして一日たち二日たつた。
最初の一夜は、「これは大変だ」と思つたのに、馴れといふものは怖ろしいものである。二日目にはもう隣室の
話し声は気にならず、トラックやバスの響きに眠りを破られることがなくなつた。三日目になると完全にコツを
おぼえ、宿中全員が寝静まらぬうちは眠らぬことにきめ、女中を呼ぶにも大音声を張りあげ、食事がおそい
ときは、「おそいぞ!」と怒鳴り、よその子供がバタバタ廊下をかけまはれば、「うるさいぞ!」と怒鳴つて、
夜寝不足ならば十分昼寝をし、ほぼ快適な生活を送れるやうになつた。
――それはさておき、かりにも都会で、プライヴァシィを重んずる「近代的」生活を、生活だと思ひ込んでゐる
人間には、人の迷惑などを考へずにのびのびと暮してゐるかういふ旧式の日本人の生活は、おどろくべきもので
あつた。都会なら、となりのうるさいラヂオを容赦しないが、ここではラヂオはすべて音の競争であつて、
隣りのラヂオがうるさかつたら、家のラヂオの音をもつと大きくすればそれですむのである。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

170 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:51:52 ID:???
みんながそれに馴れ、何の苦痛も感じないなら、人間の生活はそれで十分なので、何も西洋のプライヴァシィを
真似なくてもいい。西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない
孤独がひそんでゐるのである。(中略)
そこへ行くと、日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、
何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、免疫にしてしまつた
はうが賢明なのかもしれない。(略)
しかし、この昔風の旅籠屋が、襖一枚の生活を強制するのが、昔を偲ばせて奥床しいとは云ひながら、それが
そのまま昔風とは云ひがたい。何故なら、江戸時代には、人はもう少し小声で話したにちがひないし、怪音を
発するトランジスター・ラヂオなんか、持つてゐなかつたからである。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

171 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:55:09 ID:???
格の正しい、しかも自由な踊りを見るたびに、私は踊りといふもののふしぎな性質に思ひ及ぶ。無音舞踊といふ
のもないではないが、踊りはたいがい、音楽と振り付けに制約されてでき上がつてゐる。いかに自由に見える
踊りであつても、その一こま一こまは、厳重に音楽の時間的なワクと振り付けの空間的なワクに従つてゐる。
その点では、自由に生きて動いて喋つてゐるやうに見える人物が、実はすべて台本と演出の指定に従つてゐる
他の舞台芸術と同じことだが、踊りのその音楽への従属はことさら厳格であり、また踊りにおける肉体の動きの
自由と流露感は、ことさら本質的なのである。
よい踊りの与へる感銘は、観客席にすわつて、黙つて、口をあけて、感嘆してながめてゐるだけのわれわれの
肉体も、本来こんなものではなかつたかと感じさせるところにある。

三島由紀夫「踊り」より

172 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:55:21 ID:???
踊り手が瞬間々々に見せる、人間の肉体の形と動きの美しさ、その自由も、すべての人間が本来持つてゐて
失つてしまつたものではないかと思はせるとき、その踊りは成功してをり、生命の源流への郷愁と、人間存在の
ありのままの姿への憧憬を、観客に与へてゐるのである。
なぜ、われわれの肉体の動きや形は、踊り手に比べて、美、自由、柔軟性、感情表現、いやすべての自己表現の
能力を失つてしまつたのであらうか。なぜ、われわれは、踊り手のあらはす美と速度に比べて、かうも醜く、
のろいのであらうか。これは多分、といふよりも明らかに、われわれの信奉する自由意思といふもののため
なのである。自由意思が、われわれの肉体の本来持つてゐた律動を破壊し、その律動を忘却させたのだ。
それといふのも、踊り手は音楽と振り付けの指示に従つて、右へ左へ向く。しかしわれわれは自由意思に従つて、
右へ向き左へ向く。結果からいへば同じことだが、意思と目的意識の介入が、その瞬間に肉体の本源的な律動を
破壊し、われわれの動きをぎくしやくとしたものにしてしまふ。

三島由紀夫「踊り」より

173 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:55:34 ID:???
のみならず、何らかの制約のないところでは、無意識の力をいきいきとさせることができないのは、人間の
宿命であつて、自由意思の無制約は、人間を意識でみたして、皮肉にも、その存在自体の自由を奪つてしまふのだ。
踊りは人間の歴史のはじめから存在し、かういふ肉体と精神の機微をよくわきまへた芸術であつた。武道も
もともとは、戦ひの技術を会得するために、まづ肉体に厳重な制約を課して、無意識の力をいきいきとさせ、
訓練のたえざる反復によつて、その制約による技術を無意識の領域へしみわたらせ、いざといふ場合に、
無意識の力を自由に最高度に働かせるといふ方法論を持つてゐるが、踊りに比べれば、その目的意識が、
純粋な生命のよろこびを妨げてゐる。

三島由紀夫「踊り」より

174 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:56:00 ID:???
踊りはよろこびなのである。悲しみの表現であつても、その表現自体がよろこびなのである。踊りは人間の
肉体に音楽のきびしい制約を課し、その自由意思をまつ殺して、人間を本来の「存在の律動」へ引き戻すもの
だといへるだらう。ふしぎなことに、人間の肉体は、時間をこまごまと規則正しく細分し、それに音だけによる
別様の法則と秩序を課した、この音楽といふ反自然的な発明の力にたよるときだけ、いきいきと自由になる。
といふことは、音楽の法則性自体が、一見反自然的にみえながら、実は宇宙や物質の法則性と遠く相呼応して
ゐるかららしい。そこに成り立つコレスポンデンス(照応)が、おそらく踊りの本質であつて、われわれは
かういふコレスポンデンスの内部に肉体を置くときのほかは、本当の意味で自由でもなく、また、本当の生命の
よろこびも知らないのだ、としかいひやうがない。

三島由紀夫「踊り」より

175 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 19:59:34 ID:???
…ずいぶん話が飛んだやうだが、実は私は、新年といふ習慣も、この踊りの一種であるべきであり、新春の
よろこびも、この踊りのよろこびであるべきだといひたかつたのである。
新しい年の抱負などと考へだした途端に、われわれの自由意思は暗い不安な翼をひろげ、未来を恐怖の影で
みたしてしまふ。未来のことなどは考へずに踊らねばならぬ。たとへそれが噴火山上の踊りであらうと、
踊り抜かねばならぬ。いま踊らなければ、踊りはたちまちわれわれの手から抜け出し、われわれは永久に
よろこびを知る機会を失つてしまふかもしれないのである。

三島由紀夫「踊り」より

176 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:00:05 ID:???
子供のころの私は、寝床できく汽車の汽笛の音にいひしれぬ憧れを持ち、ほかの子供同様一度は鉄道の機関士に
なつてみたい夢を持つてゐたが、それ以上発展して、汽車きちがひになる機会には恵まれなかつた。今も昔も、
私がもつとも詩情を感じるのは、月並な話だが、船と港である。
このごろはピカピカの美しい電車が多くなつたが、汽車といふには、煤(すす)ぼけてガタガタしたところが
なければならない。さういふ真黒な、無味乾燥な、古い箪笥のやうなきしみを立てる列車が、われわれが眠つて
ゐるあひだも、大ぜいの旅客を載せて、窓々に明るい灯をともして、この日本のどこか知らない平野や峡谷や
海の近くなどいたるところを、一心に煙を吐いて、汽笛を長く引いて、走りまはつてゐる、といふのでなければ
ならない。なかんづくロマンチックなのは機関区である。夜明けの空の下の機関区の眺めほど、ふしぎに美しく
パセティックなものはない。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

177 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:00:31 ID:???
空に朝焼けの兆があれば、真黒な機関車や貨車の群が秘密の会合のやうに集ひ合ふ機関区の眺め、朝の最初の
冷たい光りに早くも敏感にしらじらと光り出す複雑な線路、そしてまだ灯つてゐる多くの灯火などは、一そう
悲劇的な美を帯びる。
かういふ美感、かういふ詩情は、一概に説き明すことがむづかしい。ともかくそこには古くなつた機械に対する
郷愁があることはまちがひがない。少くとも大正時代までは、人々は夜明けの機関区にも、今日のわれわれが
夜明けの空港に感じるやうな溌剌とした新らしい力の胎動を感じたにちがひない。(中略)
機械といふものが、すべて明るく軽くなる時代に、機関区に群れつどふ機関車の、甲虫のやうな黒い重々しさが、
又われわれの郷愁をそそるのである。頼もしくて、鈍重で、力持ちで、その代り何らスマートなところの
なかつた明治時代の偉傑の肖像画に似たものを、古い機関車は持つてゐる。もつと古い機関車は堂々と
シルクハットさへ冠つてゐた。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

178 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:00:44 ID:???
しかし夜明けの機関区の持つてゐる一種悲劇的な感じは、それのみによるものではない。産業革命以来、
近代機械文明の持つてゐたやみくもな進歩向上の精神と勤勉の精神を、それらの古ぼけた黒い機関車や貨車が、
未だにしつかりと肩に荷つてゐるといふ感じがするではないか。それはすでにそのままの形では、古くなつた
時代思潮ともいへるので、それを失つたと同時に、われわれはあの時代の無邪気な楽天主義も失つてしまつた。
しかし人間より機械は正直なもので、人間はそれを失つてゐるのに、シュッシュッ、ポッポッと煙をあげて
今にも走り出しさうな夜明けの機関車の姿には、いまだに古い勤勉と古い楽天主義がありありと生きてゐる。
それを見ることがわれわれの悲壮感をそそるともいへるだらう。そしてそこに、私は時代に取り残された無智な
しかし力強い逞ましい老人の、仕事の前に煙草に火をつけて一服してゐる、いかつい肩の影までも感じとるのである。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

179 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:00:59 ID:???
それは淋しい影である。しかしすべてが明るくなり、軽快になり、快適になり、スピードを増し、それで世の中が
よくなるかといへば、さうしたものでもあるまい。飛行機旅行の味気なさと金属的な疲労は、これを味はつた
人なら、誰もがよく知つてゐる。いつかは人々も、ただ早かれ、ただ便利であれ、といふやうな迷夢から、
さめる日が来るにちがひない。「早くて便利」といふ目標は、やはり同じ機械文明の進歩向上と勤勉の精神の
帰結であるが、そこにはもはや楽天主義はなく、機械が人間を圧服して勝利を占めてしまつた時代の影がある。
だからわれわれは蒸気機関車に、機械といふよりもむしろ、人間的な郷愁を持つのである。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

180 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:07:31 ID:???
三島:…少なくとも自民党が危ないときになって国民投票をやったとします。そうしてウイかノンかといのを
国民に問うたとします。できることは、安保賛成(ウイ)か安保反対(ノン)かどっちかしかない。
安保賛成というのは、はっきりアメリカですね。安保反対というのはソビエトか中共でしょう。日本人に向かって
おまえアメリカをとるか、ソビエトをとるか中共をとるかといったら、僕はほんとうの日本人だったら態度を
保留すると思うんですね。日本はどこにいるんだ。日本は選びたいんだ、どうやったら選べるんだ。
これはウイとノンの本質的意味をなさんと思うんですよ。
…まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況にいる。
これで安保騒動をとおり越しても、まだやれないんじゃないかという感じがしてしようがない。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

181 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:07:57 ID:???
三島:それで去年の夏、福田赳夫さんと会ったときに、
「自民党は安保条約と刺しちがえて下さいよ」と言ったんですよ。私が大きなことを言うようですが、
私の言う意味は、自民党はやはり歴史的にそういう役割を持っている、自民党は西欧派だと思うんです。
西欧派は西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい。
その次に日本か、あるいは日本でないかという選択を迫られるんであるというふうに言ったことがある。
いま右だ左だといいましても、安保賛成が右なのかということは、いえないと思うんです。
安保賛成も一種の西欧派ですよ。安保反対はもちろん外国派です。
そうすると国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には加担していないですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

182 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:08:11 ID:???
三島:ですからナショナリズムの問題が日本では非常にむずかしくなりまして、私が思うのに、
いま右翼というものが左翼に対して、ちょっと理論的に弱いところがあるのは、われわれ国粋派というのは、
ナショナリズムというものが、九割まで左翼に取られた。
だって米軍基地反対といったって、イデオロギー抜きにすれば、だれだってあまりいい気持ちではない。
それからアメリカは沖縄を出て行け、沖縄は日本のものであったほうがいい、なにを言ったところで、
左翼にとってみれば、どこかで多少ナショナリズムにひっかかっているから広くアピールする。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

183 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:08:25 ID:???
三島:そうして私は、ナショナリズムは左翼がどうしても取れないもの――九割まで取られちゃったけれども、
どうしても取れないもの、それにしがみつくほかないと信じている。だから天皇と言っているんです。
もちろん天皇は尊敬するが、それだけが理由じゃない。ナショナリズムの最後の拠点をぐっとにぎって
いなければ取られちゃいますよ。そうして日本中が右か左の西欧派(ナショナリズムの仮面をかぶった)になっちゃう。
林:(中略)僕は今の左翼の“ナショナリズム”は発生が外国指令だと思う。
いくら彼らに教えても反米はできるが反ソ、反中共はできない。したがって尊王ということは、彼らにとっては、
もってのほかです。(中略)
三島:(中略)やつらは天皇、天皇といえばのむわけないです。
のむわけないから、やつらから天皇制打倒というのを、もっと引出したいですよ。(中略)
これをもっとやつらから引出さなければならない。
やつらのいちばんの弱味を引き出してやるのが、私は手だと思っているんですがね。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

184 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:08:38 ID:???
僕は理論なんか根底的に必要じゃないと思うんです。根底的には誠だけでいいんですよ。
誠以外になにがいりますか。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

185 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:12:16 ID:???
最近感心したのは、大東塾の靖国神社問題に対する対処の仕方ですね。これには感心している。
つまり靖国の霊を国が神道の祭祀にしたがって顕彰し、弔うべきだというだけのことです。
彼の言いたいことは。それを政治家だとか、いろんな圧力団体がそうさせない。
遺族会すらそういう本旨を誤っているという場合に、だれがその思想をとおすのか。
その思想をとおすのに、言論だけでたりるのか。どの政治家のところへお百度詣りしたら、
それをとおしてくれるのか。人間がそういうことを考えたら、それをとおす方法といったら、
やっぱりぶんなぐるほかないでしょう。だからちょっとぶんなぐったでしょう。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

186 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:12:29 ID:???
政治家をぶんなぐることがいいかどうかわからない。ただ影山(正治)氏の塾の人が
やったことは、ある一つの思想をとおすには、どうしても法的にも、議会政治の上でも、
どうしてもとおらない。しかしそれが日本にとって本質的なものだと考えたら、
あの方法しかないんじゃないですか。その方法の良し悪しというよりも、あの方法しか
ないからやったんでしょう。そういうふうな、どうしてもやらなければならんことで、
ほかに方法がないということをやるために右翼団体というものはあるんだと思うし、
塾というものがあると思うんだ。それはその姿勢は守らなければならない。それを捨てたら
だめだと思うんですよね。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

187 :名無しさん@また挑戦:2010/09/09(木) 20:12:46 ID:???

日本人というのは自分の主義主張のためには体を張るものである、命を最終的に
惜しまないものであるという伝統的なメンタリティーがある。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

188 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:47:04 ID:???
私は事文化に関しては、あらゆる清掃、衛生といふ考へがきらひである。蠅のゐないところで、おいしい料理が
生まれるわけがない。アメリカ文化を貧しくさせたものは、清教徒主義と婦人団体であつて、日本精神は
もつともつと性に関して寛容なのである。日本文化の伝統は、性的な事柄に関する日本的寛容の下に
発展してきたものである。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

189 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:47:18 ID:???
(中略)
いくら「黒い雪」が穢らしくても、偽善よりはよほどマシである。映画も芸術の一種として、芸術のよいところは、
そこに呈示されてゐるものがすべてだといふことだ。芸術は、よかれあしかれ、露骨な顔をさらけ出してゐる。
それをつかまへて「お前は露骨だ」といふのはいけない。要するに、国家権力が人間の顔のよしあしを
判断することは遠慮すべきであるやうに、やはり芸術を判断するには遠慮がちであるべきである、といふのが
私の考へである。それが良識といふものであり、今度の判決はその良識を守つた。
この一線が守られないと、芸術に清潔なウットリするやうな美しさしか認めることのできない女性的暴力によつて、
いつかわが国の芸術は蹂躙されるにいたるであらう。われわれは、二度と西鶴や南北を生むことができなくなるであらう。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

190 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:54:30 ID:???
「木枯らし」

木が狂つてゐる。
ほら、あんなに体を
くねらして。
自分の大事な髪の毛を、
風に散らして。

まるで悪魔の手につかまれた、
娘のやうに。
木が。そしてどの木も
狂つてゐる。

平岡公威(三島由紀夫)11歳の詩

191 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:54:44 ID:???
「父親」

母の連れ子が、
インク瓶を引つくり返した。
インク瓶はころがりころがり
机から落ちて、
硝子の片が四方に飛び散つた。
子供は驚いた。
ペルシャ製だといふじゆうたんは、
真ッ黒に汚れた。
そして、破れた硝子は、くつ附かなかつた。

母の連れ子の
脳裡に恐ろしい
父の顔が浮び出た。

書斎のむち、
今にも
つぎはぎだらけのシャツを
脱がされて、
むちが……
喰ひ附くやうに、

母の連れ子の、目の下に、
黒いじゆうたんが、
わづかな光りに、ぼやけてゐる

平岡公威(三島由紀夫)
11歳の詩

192 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:55:00 ID:???
「蛾」

窓のふちに、
蛾がとまつてゐて、
ぶるぶると体を震わせてゐた。
私は、可哀さうになつて、
蛾を捕へようとした。
窓は、堅く、閉ざされてゐたので、
私は、窓を開けて、
放してやらうと思つた。
私は蛾にさはつて見た。
蛾は勢ひよく飛び出した。
私は、気が抜けた。
さつきの蛾と、
そして、
今の蛾と……。

平岡公威(三島由紀夫)
11歳の詩

193 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:55:26 ID:???
「凩」

凩よ、
速く止まぬと、
可愛さうな木々が眠れない。
毎日々々お前に体をもまれて、
休む暇さへないのだ。
凩よ、
お前は冬の気違ひ、
私の家へばかり、は入つて来ないで、
いつその事、雪を呼んでおいで。

平岡公威(三島由紀夫)
11歳の詩

194 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:55:39 ID:???
「斜陽」

紅い円盆のやうな陽が、
緑の木と木の間に
落ちかけてゐる。

今にも隠れて了ひさうで、
まだ出てゐる。

然し、
私が一寸後ろを向いて居たら、
いつの間にか、
燃え切つてゐて、
煙草の吸殻のやうに、
ぽつんと、
赤い色が残ってゐるだけだつた。

平岡公威(三島由紀夫)
12歳の詩

195 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:58:46 ID:???
「独楽」(こま)
(音楽独楽なりき。白銀なせる金属にておほはれる)

それは悲しい音を立てゝ廻つた。
そして白銀のなめらかな体を
落着きもなく狂ひ廻つた。
よひどれの様に、右によろけ、
左にたふれ。

それは悲しい酔漢の心。
踊るを厭ふその身を、一筋の縄に托されて。
唄ふを否み乍らも、廻る歯車のために。

それは悲しい音を立てゝ廻つた。

「静寂の谷」から、
「狂躁の頂」に引き上げられ、
心のみ、尚も渓間にしづむ。

それは悲しい酔漢の心。
そして白銀のなめらかな体を、
落着きもなく狂ひ廻つた。

平岡公威(三島由紀夫)
12歳の詩

196 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:58:58 ID:???
「三十人の兵隊達」

三十人の兵隊達。
赤と黒の階調。

三十人の兵隊達。
銀流しの拍車があらはす。
銀と白の光の交叉。

三十人の兵隊達。
硝子の目玉。
極細の毛糸は、
漆黒の頭髪。

けれども、
八つを迎へた女の子は、
この兵隊を捨て去つた。

そして、女の子は、
赤ん坊の人形に、
頬すりする。

芽生えた、母性愛の
興奮。

三十人の兵隊達。
母性愛の為に捨て去られた、
兵隊達。

三十人の兵隊達。
赤と黒の階調。

平岡公威(三島由紀夫)
12歳の詩

197 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:59:10 ID:???
「絵」

孤児院の片隅で、
幼い子が、大きな絵を眺めてる。
そこには、飴ん棒のやうな木が、
列を作つて並んで居、
木には、パン、草には、ビスケットが、
今を盛りになつてゐる。
口を開けて、夢中になる孤子に、
あたゝかい日差しがあたつてゐる。
しかし、入つてきた院長は、さつさ
と子供を引張つて外に出て来た。
「あんな絵は、目に毒ぢやてな」

平岡公威(三島由紀夫)
13歳の詩

198 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:59:25 ID:???
「誕生日の朝」

青と、白との光線の交錯のうちに、
身をよこたへつゝ、
その日のわたしは、生れたばかりの
雛鳥のやうだつた。

さて、細い一輪差まで
絶えいるやうな花の香に埋もれ、
太陽をとり巻く雲は、一片の花弁に見えた。

誕生日の贈り物がとゞいた。
美しい贈物の数々は、
石竹色の卓子の上に置かれた。

平岡公威(三島由紀夫)
14歳の詩

199 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 11:59:38 ID:???
「見知らぬ部屋での自殺者」

骨董屋の太陽のせゐで
カーテンの花模様も枯れ
家具は色褪せ 空気は
黄色くただれてゐたので
その空気に濡れた古鏡に
わが顔は扁たく黄いろに揺れた
……やがて死は蠅のやうに飛び立つた
うるさくかそけく部屋のそこかしこから

平岡公威(三島由紀夫)
14歳の詩

200 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:01:58 ID:???
「夜猫」

壁づたひに猫が歩む
影の匂ひをかぎながら

猫の背はなめらかゆゑ
光る夜を、辷らせる

ああ、蝋燭の蝋のしたたる音がする。
真鍮の燭台は
なやめる貧人のごとき詫びしい反射であつたから、
ふと、傾いた甃(いしだたみ)の一隅に
わたしは猫の毛をわたる風をきいた
影のなかに融けてゆく一つの、寂寞の姿をみた

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩

201 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:02:14 ID:???
「民謡」

夕ぐれの生垣から石蹴りの音がしてきた

微温湯をいれたコップの内側が、赤んぼの額のやうに汗ばんでゐた。
病気の子のオブラァトと粉薬が窗のあぢさゐの反射であをざめた
石竹色の植木鉢に、錆びた色ブリキの如露がよつかゝつてゐた

早い蚊帳がみえる離れで、小さな母は爪立つて電気を灯けた。
ねむつた子の横顔が 麻の海のなかに浮びあがつた

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩

202 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:02:38 ID:???
「夏の窗辺にくちずさめる」

雲の山脈の杳か上に
花火の残煙のやうなはかない雲が見えてゐた
サイダァのコップをすかしてみたら
やがて泡になつて融けて了つた

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩

203 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:03:14 ID:???
「幸福の胆汁」

きのふまで僕は幸福を追つてゐた
あやふくそれにとりすがり
僕は歓喜をにがしてゐた
今こそは幸福のうちにゐるのだと
心は僕にいひきかせる。
追はれないもの、追はないもの
幸福と僕とが停止する。
かなしい言葉をさゝやかうとし
しかも口はにぎやかな笑ひとなり
愁嘆も絵空事にすぎなくなり
疑ふことを知らなくなり
「他」をすべて贋と思ふやうに自分をする。
僕はあらゆる不幸を踏み
幸福さへのりこえる。
僕のうちに
幸福の胆汁が瀰漫して……

ああいつか心の突端に立つてゐることに涙する。

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩

204 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:03:28 ID:???
「アメリカニズム」 万愚節戯作

たるんだクッションのやうなスヰートピィ
もう十年代、流行おくれの色ですね
玉蜀黍の粕がくつついてる
赤きにすぎる口紅の唇。
ショォト・スカァトは空の色がみえすぎます。
歓楽は窓毎に明るく灯り、
スカイ・スクレェパァはお高くとまり、
鼻眼鏡で下界をお見下しとやら、
だが、ニッケルの縁ではね。
野蛮の裏に文化はあれど……
白ん坊の裡にも黒ン坊がゐる。
欧州向の船が出て、
髯なし共が御渡来だ、
カジノで札の束切つて
縄の御用もありますまい
レディ・メェドの洋服が船にのつておしよせる
あくどい洒落がおしよせる
自由とスマァトネスがおしよせる
「世界第一」がおしよせる
星のついた子供の旗をおし立てゝ。

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩

205 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:06:02 ID:???
「薔薇のなかに」

薔薇のなかにゐます。
わたしはばらのなかにゐます。
しつとりしたまくれ勝ちの花びらの
こまかい生毛のあひだに滲みてくる
ひかりの水をきいてゐます。
薔薇は光るでせう、
園の真央で。
あなたはエェテルのやうな
風の匂ひをかぐでせう。
大樫のぬれがての樹影に。
牧場の入口に。
大山木の花が匂ふ煉瓦色の戸口に。
わたしは薔薇のなかにゐます。
ばらのなかにゐます。
小指を高くあげると
虹の夕雲がそれを染め……
ばらはゆつくり、わたしのまはりで閉ざすのです。

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩

206 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:54:12 ID:???
なぜプラトンが、理想国家から詩人を追放したのか。それは自分に似ているからではないか。
理想国家の政治家にとっては詩人が自分たちに似すぎているからではないか。自分に似たものは、
ほかにはいらない。政治というのは、どうも人間の根元的な衝動に根ざしていると思う。
本来、政治と芸術というのは同じ泉から出ているのではないかと僕は思う。だから
排斥し合うのではないか。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


男というのはうぬぼれと、闘争本能以外にはないのではないかな。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

207 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:56:39 ID:???
世界を回ってみますと、現在日本のように無階級な国はないように思う。実に不思議な国で、
アメリカはもっともっと階級がありますね。ステータス・シンボルがそれぞれあって、
クラブでも上のクラブに入らないと、お嫁さんのいいのが来ないとか。それから
なんだかんだと言って、一つ一つの関係が非常にうるさいですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

208 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:56:53 ID:???
三島:…GHQと戦争裁判という問題はね、単なる思想問題として考えますと(いまや僕は、政治問題としての
意味よりも思想問題として影を落としていると思うのですが)GHQの理念、あるいは戦争裁判の理念というのは、
近代的普遍的諸価値のヒューマニズムがおもてだっているわけです。そうすると、戦後にそういう諸観念がもう一度
復活して、天下をまかり通って、同時にその欺瞞をあらわしたということで、僕はアメリカの影響というのは、
日本の戦後思想史には非常に強いというふうに考える。みんなが思っているよりも。というのは、アメリカという国は、
十八世紀の古典的な理念が、おもて向きいちばんのうのうと生きている国なんですね。アメリカはああいう
人種の雑種の国ですし、歴史は浅いし、インターナショナリズム的な観念でも、国内でじゅうぶん充足するわけです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

209 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:57:09 ID:???
たとえばここにフランス系アメリカ人と、ドイツ系アメリカ人と、オランダ系アメリカ人の三人の話を通じさせるのに、
結局先祖のもとまでもどって、十八世紀的な理念で伝達するほかない。だから彼らは、自由といい、平和といい、
人類というときに、それは信じていると思う。それは彼らの生活の根本にあって、そういうものでもって国家を
運用し、戦争を運用し、経済を運用してやっている。それが日本にきてみた場合に、日本人がそういうような、
ある意味で粗雑な、大ざっぱな観念で生きられるかどうかという、いい実験になったと思う。(中略)
たとえば川島武宣の民法学を僕は習いましたが、民法学のなかにおいて、彼のギリギリの近代主義民法学ですがね、
そんなものは絶対日本の社会構造には妥当しなかった。戦後になってやってみた結果、アメリカが与えたと同時に、
アメリカ人の考えている自由、アメリカ人の考えている人類、アメリカ人の考えている平和というものは、
ベトナム戦争もやれるものであるということがわかってきたということだ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

210 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:57:22 ID:???
これは大きな問題だと思う。そうすると、アメリカ人はベトナム戦争をやっても、やはり自由を信じ、平和を
信じていると思う。これは嘘ではないと思う。彼らはけっしてそんな欺瞞的国民ではありませんし、彼らは
戦争をやって自由のために戦っているというのは、嘘ではないですよ。彼らは心からそう信じている。
ただ日本人は、そんな粗雑な観念を信じられないだけなんです。というのは、日本で自由だの平和だのといっても、
そんな粗雑な観念でわれわれ生きているわけではありませんからね。そこに非常に微妙な文化的なニュアンスがあって、
そこのうえで近代的な観念が生きている。それが徐々にわかってきたというのが、いまの思想家全体の破綻の原因で、
それは結局アメリカのおかげだと思うのです。それを与えたのもアメリカなら、反省を促したのもアメリカですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

211 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 12:57:45 ID:???
林:アメリカニゼーションは、日本の戦後のはっきりした現象ですが、その初期にはアメリカ出先機関の
アメリカニゼーションだったな。日本弱化と精神的武装解除の軍人政治にすぎないものを、アメリカニゼーションと
思いこんだのが三等学者です。新憲法とともに登場して来た三等学者がたくさんいる。
彼らが新憲法を守れというのは当然です。…
三島:…しかも、丸山(真男)さんなどでも、ファシズムという概念規定を疑わないのは不思議ですね。
ファシズムというのは、ぜんぜん日本にありませんよ。
林:絶対ありません。どう考えてもね。
三島:そういう概念規定を日本にそのまま当てはめて、恬然と恥じない。
今度彼らを分析していくと、別なものにぶつかるのですよ。丸山学派の日本ファシズムの三規定というのがありますね。
一つが天皇崇拝、一つが農本主義、もう一つは反資本主義か、たしかこの三つだったと思う。そうすると、
それはファシズムというヨーロッパ概念から、どれ一つ妥当しはしませんよ。
林:一つも妥当しない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

212 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:02:51 ID:???
三島:はじめナチスは資本家と結んだのですからね。日本のいわゆる愛国運動というのは、もちろん資本家と
いろいろ関係も生じたけれども、二・二六事件の根本は反資本主義で、当時二・二六事件もそうだが、
二・二六事件のあとで陸軍の統制派が、二・二六事件があまり評判が悪かったので、今度、やはり反資本主義的な
ポーズにおける声明書を発表したら、麻生久がとても感激したのですね。やはりわれわれの徒だということに
なって、それで賛成演説などをやったりしたことがあるけれども、そういうファシズム一つとってもそうだし……。
林:(中略)「ファシズム打倒」は連合国側の戦争スローガンで、日本もドイツ、イタリアなみのファシズム国家に
されてしまったのだが、最近ではご本家のアメリカ・ハーバード大学の教授グループが、日本にはファシズムは
なかったことを論証し始めている。丸山君とそのご学友諸君は何と申しますかね。…それから二・二六事件にしても、
進歩学派諸君は支配階級内部の対立だというふうにかたづけているが……。
三島:事実はぜんぜん違っている。
林:これは一つの革命勢力と支配勢力との闘いだということを認めないわけですね。


213 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:03:12 ID:???
三島:僕は、ああいうものは、ある意味で林さんのおっしゃる、文明開化というものからくる一つの事象であって、
日本の近代化の激しい運動の、ラジカルな運動がああいう形をとったと考えてもいいと思いますね。いつも日本では、
アイロニカルな形で社会現象が起こっている。いちばん先鋭な近代をめざすものが、いちばん保守的な、
反動的な形態をとったり、一見進歩的形態をとっているものが、いちばん反動的なものである場合もある。
政治学者などが日本の現象を見る場合には、ぜんぜん分析が皮相で浅薄だという感じがいつもするのだけれども。
林:(中略)丸山君にこだわるわけではないが、あの人をピークとする敗戦学者の学問はいかにも学問らしい顔を
していますけれども、読めば少しも学問ではないのです。学問というのは、読んでみて、「ああ、そうだったか」と
目からウロコの落ちるような気になるのが学問です。敗戦大学教授の仕事は読者の目にウロコをかぶせるようなものですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

214 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:03:27 ID:???
三島:ほんとうにそうですね。でも、近代主義者はとにかくだめだということは、二十年でよくわかった。
そうして日本の近代主義者の言うとおりにならなかったのは、インダストリアリゼーションをやっちゃった
ということで、これが歴史の非常なアイロニーですね。普通ならば、近代主義者の言うとおりに、思想精神が
完全に近代化することによって近代社会が成立し、そしてインダストリアリゼーションの結果、そういうものが
社会に実現されるという、じつは必ずしもコミュニズムであってもなくても、彼らの考えていることはそうですよ。
ところがなに一つわれわれのメンタリティーのなかには、近代主義が妥当しないにもかかわらず、工業化が進行し、
工業化の結果の精神的退廃、空白といってもいいが、そういうものが完全に成立した。
それと、日本人のなかにある古いメンタリティーとの衝突が、各個人のなかにずいぶん無秩序なかたちで
起こっているわけですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

215 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:03:39 ID:???
三島:僕が思想家がぜんぜん無力だというのは、経済現象その他に対してすらなんらの予見もしなければ、
その結果に対して責任ももってないというふうに感ずるからです。
第一、戦後の物質的繁栄というのは、経済学者は一人も寄与してないと思いますよ。僕が大蔵省にいたとき
大内兵衛が、インフレ必至説を唱えて、いまにも破局的インフレがくるとおどかした。ドッジ声明でなんとか
救われたでしょう。政治的予見もなければなんにもない。経済法則というものは、実にあいまいなもので、
こんなに学問のなかでもあいまいな法則はありませんよ。
それで戦後の経済復興は、結局戦争から帰ってきた奴が一生懸命やったようなもので、なんら法則性とか
経済学者の指導とか、ドイツのシャハトのような指導的な理論的な経済学者がいたわけではないし、まったく
めくらめっぽうでここまできた。これは経済学者の功績でも、思想家の功績でもない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

216 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:03:51 ID:???
三島:(中略)僕はたとえばね、どんな思想が起ころうが、彼ら(日本の近代主義者、知識人)はもう
弁ばくできないと思うのです。だって自分たちがやるべきときやらなかったのだから、あとに何が出ても
もうしょうがないですよ。
林:まず、現われたのがアメリカン・デモクラシー、おつぎはソ連礼賛論ですな。それを圧倒したのが中共絶対論。
……だが、それもどうやらしぼみ始めたようだ。
三島:とにかく僕が「喜びの琴」という芝居を書いたとき、共産主義は暴力革命は絶対やらないのだと、もう
そんなのは昔の古いテーゼで、いま絶対にそういうことはやらないのだと……あんな芝居を書く男は、頭が
三十年古いとみんな笑ったものです。そうしたらね、インドネシアの武力革命が起こりかけた。まあ、失敗しましたが。
ちょっと、五、六年さきのこともわからないのですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

217 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:08:18 ID:???
三島:やはり林さんの明治維新の根本テーマでも、開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、
攘夷論者がやった。あの歴史の皮肉ですね。
林:攘夷論者のみが真の開国論者だった。これが歴史のアイロニイだが、敗戦史家たちには、このアイロニイが
わからないのだな。いまにわかります。
三島:そういう大きな歴史の皮肉ですね、そういうあれがあったでしょうか、戦前、戦後を通じて、文学で……。
林:アイロニイだらけだ。内村鑑三も新渡戸稲造も日本精神について英語で書いた。ドイツ文学の鴎外と
英文学の漱石が乃木大将の殉死を最も正確に理解した。現在、日本回帰の論文を発表しはじめた若い学者たちは、
ほとんど西洋史家だ。東西文明の接点に立つ日本文化のアイロニイではないでしょうか。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

218 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:08:31 ID:???
林:(中略)若い高村光太郎は文明開化派で西洋派だったが、晩年はたいへんな日本主義者になる。
与謝野鉄幹、北原白秋をはじめ詩人たちの大部分は同じ道を歩いている。すべて内的な自己展開であって、
時流におし流されてものを言ったのではない。
三島:伊東静雄なんかも、戦争中のものは非常にいいですよ。ほんとうにいい詩ですね。
林:だから人間は戦争を避けて通ろうとしてはいけないのですよ。平和は結構だが、戦争は必ず起こると覚悟して
いなければ、一歩も進めない。平和が永久につづくなどと思っていたら、とんだ観測ちがいをおかすことになる。
地球国家ができましたら、こんどは宇宙船を飛ばして……。
三島:ほかの遊星を攻撃する……。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

219 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:08:47 ID:???
三島:文壇というものがあるかないか、そんなことはわからないけれども、やはり時代のどこかで風船の空気が
漏れているところというのは敏感ですよね。いまたしかに風船の空気が漏れている。風船が小さくなりつつあるのです。
それで、その風船の空気を、また充填するか、その穴をどうするかということは、それは左翼も右翼もありはしない。
(中略)一方では空白状態をそのまま出せば正直だと思う。僕はそんなものは正直だとは思わない。つまり現在の空白、
現在の堕落――堕落と言ったらちょっと政治的な面がこもりすぎるが――文学というのは、そういうものを
映す鏡ではない。文学というのは、いつも医者と薬とを兼ねたものです。あるいは医者と患者を兼ねたものだと
言ってもいい。われわれは最先端の患者なんです。同時に最先端の医者なんです。それが文学の使命でね。
そうして医者だって、使命だけにとらわれたものは社会改良家になっちゃう。それは文学者の逸脱で、患者だってカルテにとらわれたら
空白状態を模写するだけにすぎない。そうするとサナトリウムに入っちゃう。そうなると文学者じゃないのです。

三島由紀夫


220 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:09:15 ID:???
三島:文学者というのはいつでも、最先端の患者であり、最先端の医者である。おのずからそこに、医者と患者の間には、
いつも争いがあって、患者は癒りたくないと言うかもしれない。医者はおまえに効く薬はないと言うかもしれない。
それが文学状況の、いつも先鋭なところで、それをつかまえてないやつは、文学のほんとうの危機というものは
わかってないのではないかと考える。それが現在のナショナリズムの問題とかなんとかいう問題と、おのずから
照応してくるので……。
林:君のいう型の文学者――医者兼患者の文学者は、文学者の永遠のタイプだろうが、生きにくいね。
ローマ帝国でも、ヒトラー帝国でも、中共帝国でもソ連帝国でも、詩人や作家は追放されなければ自殺してしまう。
だが、敗戦二十年間の日本は国家でも帝国でもない。大平社会は文学の味方顔しているが、最悪の敵かもしれぬ。
野放しにされた物書きが文学者顔して、ひどい文章を書いている。
三島:いま文壇にいるのは、患者と医者だけですよ。患者兼医者というのはいない。それで医者が患者をほめていますね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論

221 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:09:27 ID:???
弱いから文学になる。神経衰弱に文学、蔦には壁と同じで。ですけれども、文学が
寄りかかって、それで文学と弱さとのあいだに馴れ合いが起こるというのが、いちばん
嫌いですね。というのは、それだけなら文学などやる意味がないと思う。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


ことばは絶対に克己心を教えますね。それでことばというものにぶつかったときに、
つまり文学というのは、己れの弱さをそのまま是認するものではない、文学の世界に
ことばがあって、われわれに克己心を要求するのだということを学んだような気がする。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

222 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:12:14 ID:???
常識的なことを言って、世間から紳士扱いにされて、一つご意見をうかがいたいと、
そうしてもっとも常識的な、良識的なことを言うのが作家じゃありません。
作家はそれぞれ狂気の代表なんですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


読書百ぺん、意おのずから通ず。中学生にもっと古典を読ませなければいかんな。
いやでもおうでも読ませたほうがいいですね。ただ現代語訳は絶対反対ですよ。
現代語訳の場合は、いまのやつは現代語訳を読んでああわかったと思っちゃうでしょう。
現代語訳を読んでから原文にあたってやろうというのは少ないと思う。だから現代語訳は
ないほうがいいと思う。「源氏」を読むのは原文しかないというほうが、ほんとうだと思いますよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

223 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:12:25 ID:???
ことばはどんなことしたって、インターナショナルではあり得ないですね。
僕らはことばに携わるのだから、世界がどんなにテクノロジーと生活水準の平均化によって
インターナショナルになっても、あるいは思想もインターナショナルになっても、
ことばだけはダメ。それだから、ことばに偏執する。ことばはプラクティカルな意味では
どうにもなることでも、そうでないところで、われわれは立派に偏執する。われわれの
ナショナリズムというのはことばですよ。僕は、言霊説ですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

224 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:12:37 ID:???
僕たちのことばが、外国語に翻訳される場合に、人情は通じると思うのですよ。
人情は通じると思いますが、ことばは通じない。(中略)
たとえばある橋を渡ったという場合に、その橋という観念のなかに、どういう橋が
イメージとして浮かんでくるか。そのイメージだけは、どんなことをしても伝えられない。
文学はそれでいいのではありませんか。
ゲーテの小説を日本語で読んで、橋(ブリユツケ)ということばが出てくるとき、
その橋がドイツのどこの橋がゲーテの頭のなかにあったか、そんなことがわれわれに
わかるわけがないですよね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

225 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:12:49 ID:???
僕は、アジア主義だけはちょっとわからない。政治的にはもちろんわかり得ると思うが。
まったく政治的なものですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


ヨーロッパ共同体というものは文化的には昔からあったのだから、それが伝統に帰ることであり、
そうして普遍的ヨーロッパに帰れということを、ゲーテは言いたかったわけですね。
しかし日本では、普遍的ヨーロッパというものは、日本にとってはぜんぜん別なものでしょう。
それから普遍的アジアというものは、文化的にはない。だから日本にとっていま
世界文学などというのは、ちゃんちゃらおかしいということになるわけです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

226 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:13:01 ID:???
ことばというものは一歩プラクティカルなことを考えたら、絶対こんな不合理なものはない。
ことばの性質というものは、そういうものです。ことばというのは、そもそも人間の意思を
疎通させるために、生まれたものであるにもかかわらず、もしプラクティカルな見地からしたら、
実に非合理に満ちているという。これはどこの国のことばでも、みなそうです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

227 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:15:44 ID:???
神風連のことを研究していて、おもしろく思ったのは、かれらは孝明天皇の攘夷の御志を、明治政府が完全に転倒させ、
廃刀令を出したことに対して怒り、「非先王之法服不敢服、非先王之法言不敢道、非先王之徳行不敢行」という
思想を抱いていた。万世一系ということと、「先帝への忠義」ということが、一つの矛盾のない精神的な中核として
総合されていた天皇観が、僕には興味が深いのです。
歴史学者の通説では、大体憲法発布の明治二十二年前後に、いわゆる天皇制国家機構が成立したと見られているが、それは
伊藤博文が、「昔の勤皇は宗教的の観念を以てしたが、今日の勤皇は政治的でなければならぬ」と考えた思想の実現です。
僕は、伊藤博文が、ヨーロッパのキリスト教の神の観念を欽定憲法の天皇の神聖不可侵のもとにしたという考えはむしろ
逆で、それ以前の宗教的精神的中心としての天皇を、近代政治理念へ導入して政治化したという考えが正しいと思います。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

228 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:15:57 ID:???
(中略)明治憲法の発布によって、近代国家としての天皇制国家機構が発足したわけですが、「天皇神聖不可侵」は、
天皇の無謬性の宣言でもあり、国学的な信仰的天皇の温存でもあって、僕はここに、九十九パーセントの西欧化に対する、
一パーセントの非西欧化のトリデが、「神聖」の名において宣言されていた、と見るわけです。神風連が電線に対して
かざした白扇が、この「天皇不可侵」の裏には生きていると思う。殊に、統師大権的天皇のイメージのうちに、
攘夷の志が、国務大権的天皇のイメージのうちに開国の志が、それぞれ活かされたと見るのです。これがさっきの
神風連の話ともつながるわけですが、天皇は一方で、西欧化を代表し、一方で純粋な日本の最後の拠点となられる
むずかしい使命を帯びられた。天皇は二つの相反する形の誠忠を、受け入れられることを使命とされた。
二・二六事件において、まことに残念なのは、あの事件が、西欧派の政治理念によって裁かれて、神風連の
二の舞になったということです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

229 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:16:16 ID:???
ところで僕は、日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、
西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない、という
アイロニカルな歴史意志を考えるのです。
福沢諭吉と神風連が実に対蹠的なのは、明治政府の新政策によって、前者は欣喜し、後者は幻滅した。僕は
幻滅によって生ずるパトスにしか興味がない。幻滅と敗北は、攘夷の志と、国粋主義の永遠の宿命なのであって、
西欧の歴史法則によって、その幻滅と敗北はいつも予定されている。日本の革新は、いつでもそういう道を辿ってきた。
唯一の成功した革新は、外国占領軍による戦後の革新です。
僕の天皇に対するイメージは、西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への
洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴です。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

230 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:16:27 ID:???
しかるに昭和の天皇制は、内面的にもどんどん西欧化に蝕まれて、ついに二・二六事件をさえ理解しなかったではないか。
そのもっとも醇乎たる悲劇意志への共感に達しなかったではないか。「何ものかを汲みとろう」なんて言うと
アイマイに思われるでしょうが、僕は維新ということを言っているのです。天皇が最終的に、維新を「承引き」
給うということを言っているのです。そのためには、天皇のもっとも重大なお仕事は祭祀であり、非西欧化の
最後のトリデとなりつづけることによって、西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点になり、革新の
原理になり給うことです。イギリスのまねなんかなさっては困るのです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

231 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:16:54 ID:???
僕は天皇無謬説なんです。
僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ。
革命家がある場合には旧支配の頂点によって肯定されるという妙なことが起こり得るのが、日本ではないのですか
というのです。
…つまり天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、
いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的
皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいというだけのことですよ。
天皇制のもう一つの側面というものが忘れられている、それがいかんということを僕は言いたい。
それだけのことです。天皇は実に不思議で、世界無比だというのは、その点ですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

232 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:20:42 ID:???
(中略)僕は大嘗祭というお祭りが、いちばん大事だと思うのですがね。あれはやはり、農本主義文化の一つの
精華ですね。あそこでもって、つまり昔の穀物神と同じことで、天皇が生まれ変わられるのですね。そうして
天皇というのは、いま見る天皇が、また大嘗祭のときに生まれ変わられて、そうして永久に、最初の天照大神に
かえられるのですね。そこからまた再生する。
…僕は、経済の発展的な段階というものを、ぜんぜん信じてないのですね。農耕文化なり、なに文化なり、
資本主義から社会主義になるというのは、まったく信じてない。だけれどもインダストリアゼーションは、土から、
みんな全部人間を引き離すでしょう。そしてわれわれのもっているものは、すべて土とか、植物とか、木の葉とか、
そういうものとはどんどん離れていく。それで土を代表するものはなにかとか、稲の葉っぱを代表するものは
なにかとか、自然というものと、われわれの生活とを最後に結ぶものはなにか。それは、たまたま、ことばは
農本主義と言っても、経済学上の用語としての農本主義とちょっと違いますが……。

三島由紀夫
林房雄との対談

233 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:20:59 ID:???
(中略)天皇制というのは、少しバタ臭い解釈になるが、あらゆる人間の愛を引き受け、あらゆる人間の愛による
不可知論を一身に引き受けるものが天皇だと考えます。普通の人間のあいだの恋でしょう……。
恋(れん)ですね。それは普通の人間とのあいだの愛情は、みなそれで足りるのですよ、全部。それがぼくは
日本の風土だというふうに思うのです。
(中略)
僕にとっては、芸術作品と、あるいは天皇と言ってもいい、神風連と言ってもいいが、いろいろなもののね、
その純粋性の象徴は、宿命離脱の自由の象徴なんですよ。つまりね、一つ自分が作品をつくると、その作品は
独得の秩序をもっていて、この宿命の輪やね、それから人間の歴史の必然性の輪からポンとはみ出す、ポンと。
これはだれがなんと言おうと、それ自体の秩序をもって、それ自体において自由なんですね。
その自由を生産するのが芸術家であって、芸術家というものは、一つの自由を生産する人間だけれども、自分が
自由である必要はない、ぜんぜん。そしてその芸術作品というのはある意味では、完全に輪から外れたものです。

三島由紀夫
林房雄との対談

234 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:21:26 ID:???
日本のように反体制的大政党を抱えた国が、シヴィリアン・コントロールをやるということは、
危険きわまる体制じゃありませんか。(中略)
昔は上官から天皇まで一貫していた。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


一度、僕は新聞に原爆のことを書いたことがある。そして、ナセルが「落とすなら
原爆を落としてもいいよ」とか、中共が「水爆を落としてもいいよ、われわれは人口
七億だから、半分なくなってもあと戦える」と言った、ああいうのはもっとも危険な
思想だろうと、そういうことを書いたら、没になったことがあるのです、だいぶ前に。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

235 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:21:39 ID:???
橋川文三なども言っているけれども、戦争中の特攻隊の連中でも、それから戦没学徒の心情でも、
死ななければ国家を批判はできない、死ぬことによってはじめて国家を批判できるという。
日本人の最高のものに対する批評の形式というのは、死しかないというあれは、かなり
切腹のみにとどまらず、いろいろな形であらわれているものだと思いますね。つまり、
批評と絶対との関係というものは、僕はおよばずながら「英霊の声」などを書いたときに、
ふっと、その問題をかいま見られたような感じがした。つまり絶対を批評するということが
できるか、できないか、これはだれもわからないことですね。だけれどもその批評形式としては、
死しかないということはありますね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

236 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:21:50 ID:???
日本人は、最高の批評の形式というのは、ことばのないものでしかないという考えが
どこかにある。それは、禅の不立文字からきたものばかりではないと思いますね。
体当りと言えばそれまでですが、なんか自己否定という形が批評になると、こっちに
主体があって、対象を分析したり、対象を論理的に解釈することが批評ではないのだと、
こっちが自分を根本的に否定して見せることが批評なんだというような、批評の根本形式が
あるように思う。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

237 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:23:35 ID:???
――それはそうと、この間江田島の参考館へ行って、特攻隊の遺書をたくさん見ました。遺書というのではないが、
ザラ紙に鉛筆の走り書きで、「俺は今とても元気だ。三時間後に確実に死ぬとは思えない……」などというのがあり、
この生々しさには実に心を打たれた。
九割九分までは類型的な天皇陛下万歳的な遺書で、活字にしたらその感動は薄まってしまう。もし出版するなら、
写真版で肉筆をそのまま写し、遺影や遺品の写真といっしょに出すように忠告しました。
それにしても、その、類型的な遺書は、みんな実に立派で、彼らが自分たちの人生を立派に完結させるという
叡智をもっていたとしか思えない。もちろん未練もあったろう。言いたいことの千万言もあったろう。
しかしそれを「言わなかった」ということが、遺書としての最高の文学表現のように思われる。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

238 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 13:23:46 ID:???
僕が「きけわだつみのこえ」の編集に疑問を呈してきたのはそのためです。
そして人間の本心などというものに、重きを置かないのはそのためです。もし人間が決定的行動を迫られるときは、
本心などは、まして本心の分析などは物の数ではない。それは泡沫のようなただの「心理」にすぎない。
そんな「心理」を一つも出していない遺書が結局一番立派なのです。
それにしても、「天皇陛下万歳」と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と
来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、
何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感は
いったい何だったんだろうか。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

239 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:27:07 ID:???
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく
今、四海必ずしも波穏やかならねど
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦ひのみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をなりはひの糧となし
偽善の茶の間の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に、
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ
快楽もその実を失ひ
信義もその力を喪ひ、魂は悉く腐蝕せられ、

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

240 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:27:20 ID:???
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し、
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
金を以てはからるる人の値打も、
金よりもはるかに卑しきものとなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰弱せる美学は天下を風靡し、
陋劣(ろうれつ)なる真実のみがもてはやされ、

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

241 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:27:33 ID:???
人ら四畳半を改造して
そのせまき心情をキッチンに磨き込み
車は繁殖し、無意味なる速力は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
窓々は欲球不満の蛍光灯にかがやき渡り、
人々レジャーへといそぎのがるれど
その生活の快楽には病菌つのり
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り、
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に温存せられ
ほとばしる清き血潮はすでになし。
天翔(あまが)けるもの、不滅の大義はいづくにもなし。
不朽への日常の日々の
たえざる研磨も忘れられ、
人みな不朽を信ぜざることもぐらの如し。かかる日に、
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

242 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:27:57 ID:???
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく。
かかる世に大君こそは唯御一人
人のつかさ、人の鑑(かがみ)にてましませり。
すでに敗戦の折軍将マッカーサーを、
その威丈高なる通常軍装の非礼をものともせず
訪れたまひしわが大君は、
よろづの責われにあり、われを罰せと
のたまひしなり。
この大御心(おほみこころ)、敵将を搏(う)ちその卑賤なる尊大を搏ち
洵(まこと)の高貴に触れし思ひは
さすがの傲岸をもまつろはせたり。
げに無力のきはみに於て人を高貴にて搏つ
その御けだかさはほめたたふべく、
わが大君は終始一貫、
暴力と威武とに屈したまはざりき。
和魂(にぎみたま)のきはみをおん身にそなへ
生物学の御研究にいそしまれ、
その御心は寛厚仁慈、
なべてを光被したまひしなり。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

243 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:28:10 ID:???
民の前にお姿をあらはしたまふときも
いささかのつくろひなく、
いささかの覇者のいやしき装飾もなく
すべて無私淡々の御心にて
あまねく人の心に触れ、
戦ひのをはりしのちに、
にせものの平和主義者ばつこせる折も
陛下は真の人の亀鑑、
静かなる御生活を愛され、
怒りも激情にもおん身を委(ゆだ)ねず、
静穏のうちに威大にましまし
御不自由のうちに自由にましまし
世の範となりぬべき真の美しき人間を、
世の小さき凹凸に拘泥なく
終始一貫示したまひき。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

244 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:31:12 ID:???
つねに陛下は自由と平和の友にましまし、
仁慈を垂れたまひ、諸人の愛敬を受けられ
もつとも下劣なる批判をも
春の雪の如くあはあはと融かしたまへり。
政治の中心ならず、経済の中心ならず、
文化の中心ならず、ただ人ごころの、
静止せる重心の如くおはし給へり。
かかる乱れし濁世(ぢよくせ)に陛下の
白菊の如き御人柄は、
まことに人間の鑑にして人間天皇の御名にそむきたまはず、
そこに真のうるはしき人間ありと感ぜらる。
されどこはすべて人の性(さが)の美なるもの、
人のきはみ、人の中の人、人の絶巓(ぜつてん)、
清き雪に包まれたる山頂なれど
なほ天には属したまはず。すべてこれ、
人の徳の最上なるものを身に具(そな)はせたまふ。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

245 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:31:27 ID:???
かへりみれば陛下はかの
人間宣言をあそばせしとき、
はじめて人とならせたまひしに非ず。
悪しき世に生(あ)れましつつ、
陛下は人としておはしませり。
陛下の御徳は終始一貫、人の徳の頂きに立たせたまひしが、
なほ人としてこの悪しき世をすぐさせ給ひ、
人の中の人として振舞ひたまへり。
陛下の善き御意志、陛下の御仁慈は、
御治世においていつも疑ふべからず。
逆臣侫臣(ねいしん)囲りにつどひ、
陛下をお退(さが)らせ申せしともいふべからず。
大事の時、大事の場合に、
人として最良の決断を下したまひ、
信義を貫ぬき、暴を憎みたまひ
世にたぐひなき明天子としてましましたり。
これなくて、何故にかの戦ひは
かくも一瞬に平静に止まりしか。
されどあへて臣は奏す。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

246 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:31:53 ID:???
陛下の大御代(おおみよ)はすでに二十年の平和、
明治以来かくも長き平和はあらず、
敗れてのちの栄えといへど、
近代日本にかほどの栄えはあらず。
されど陛下の大御代ほど
さはなる血が流されし御代もなかりしや。
その流血の記憶も癒え
民草の傷も癒えたる今、
臣今こそあへて奏すべき時と信ず。
かほどさはなる血の流されし
大御代もあらざりしと。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

247 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:32:07 ID:???
そは大八洲(おほやしま)のみにあらず
北溟(ほくめい)の果て南海の果て、
流されし若者の血は海を紅(くれな)ゐに染め
山脈を染め、大河を染め、平野を染め、
水漬(みづ)く屍は海をおほひ
草生(くさむ)す屍は原をおほへり。
血ぬられし死のまぎはに御名を呼びたる者
その霊は未だあらはれず。
いまだその霊は彼方此方(かなたこなた)に
むなしく見捨てられて鬼哭(きこく)をあぐ。
神なりし御代は血潮に充ち
人とまします御代は平和に充つ。
されば人となりませしこそ善き世といへど
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

248 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:32:22 ID:???
御代は血の色と、
安き心の淡き灰色とに、
鮮やかに二段に染め分けられたり。
今にして奏す、陛下が人間(ひと)にましまし、
人間として行ひたまひし時二度ありき、
そは昭和の歴史の転回点にて、
今もとに戻すすべもなけれど、
人間としてもつとも信実、
人間としてもつとも良識、
人間としてもつとも穏健、
自由と平和と人間性に則つて行ひたまひし
陛下の二くさの御行蔵あり。
(されどこの二度とも陛下は、
民草を見捨てたまへるなり)
一度はかの二、二六事件のとき、
青年将校ども蹶起(けつき)して
重臣を衂(ちぬ)りそののちひたすらに静まりて、
御聖旨御聖断を仰ぎしとき、
陛下ははじめよりこれを叛臣とみとめ
朕の股肱(ここう)の臣を衂りし者、
朕自ら馬を進めて討たんと仰せたまひき。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

249 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:35:57 ID:???
重臣は二三の者、民草は億とあり、
陛下はこの重臣らの深き忠誠と忠実を愛でたまひ
未だ顔も知らぬ若者どもの赤心のうしろに
ひろがり悩める民草のかげ、
かの暗澹たる広大な貧困と
青年士官らの愚かなる赤心を見捨て玉へり。
こは神としてのみ心ならず、
人として暴を憎みたまひしなり。
されど、陛下は賢者に囲まれ、
愚かなる者の血の叫びをききたまはず
自由と平和と人間性を重んぜられ、
その民草の血の叫びにこもる
神への呼びかけをききたまはず、
玉穂なすみづほの国の
荒れ果てし荒蕪(くわうぶ)の地より、
若き者、無名の者の肉身を貫きたりし
死の叫びをききたまはざりき。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

250 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:36:17 ID:???
かのとき、正に広大な御領の全てより、
死の顔は若々しく猛々(たけだけ)しき兵士の顔にて、
たぎり、あふれ、対面しまゐらせんとはかりしなり。
直接の対面、神への直面、神の理解、神の直観を待ちてあるに、
陛下は人の世界に住みたまへり。
かのときこそ日本の歴史において、
深き魂の底より出づるもの、
冥人の内よりうかみ出で、
明るき神に直面し、神人の対話をはかりし也。
死は遍満し、欺瞞をうちやぶり、
純潔と熱血のみ、若さのみ、青春のみをとほして
陛下に対晤(たいご)せんと求めたるなり。
されど陛下は賢き老人どもに囲まれてゐたまひし。
日本の古き歴史の底より、すさのをの尊(みこと)は
理解せられず、聖域に生皮を投げ込めど、
荒魂(あらみたま)は、大地の精の血の叫びを代表せり。
このもつとも醇乎たる荒魂より
陛下が面をそむけたまひしは
祭りを怠りたまひしに非ずや。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

251 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:36:33 ID:???
二度は特攻隊の攻撃ののち、
原爆の投下ののち終戦となり、
又も、人間宣言によりて、
陛下は赤子を見捨てたまへり。
若きいのちは人のために散らしたるに非ず。
神風(かみかぜ)とその名を誇り、
神国のため神のため死したるを、
又も顔知らぬ若きもの共を見捨てたまひ、
その若きおびただしき血潮を徒(あだ)にしたまへり。
今、陛下、人間(ひと)と仰せらるれば、
神のために死にしものの御霊(みたま)はいかに?
その霊は忽(たちま)ち名を糾明せられ、
祭らるべき社もなく
神の御名は貶(へん)せられ、
ただ人のために死せることになれり。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

252 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:36:47 ID:???
人なりと仰せらるるとき、
神なりと思ひし者共の迷蒙はさむべけれど、
神と人とのダブル・イメーヂのために生き
死にたる者の魂はいかにならん。
このおびただしき霊たちのため
このさはなる若き血潮のため
陛下はいかなる強制ありとも、
人なりと仰せらるべからざりし也。
して、のち、陛下は神として
宮中賢所(かしこどころ)の奥深く、
日夜祭りにいつき、霊をいつき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りておはしませば、
いかほどか尊かりしならん、
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

253 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:40:17 ID:???
陛下は帽を振りて全国を遊行しし玉ひ、
これ今日の皇室の安寧のもととなり
身に寸鉄を帯びず思想の戦ひに勝ちたまひし、
陛下の御勇気はほめたたふべけれど、
もし祭服に玉体を包み夜昼おぼろげなる
皇祖皇宗御霊の前にぬかづき、
神のために死せる者らをいつきたまへば、
何ほどか尊かりしならん。
今再軍備の声高けれど、
人の軍、人の兵(つはもの)は用ふべからず。
神の軍、神の兵士こそやがて神なるに、
――などてすめろぎは人間(ひと)となり玉ひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

254 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:41:26 ID:???
古代の雪を愛でし
君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに
われ近代に遺されて空しく
靉靆の雪を慕ひ
その身は漠々たる
塵土に埋れんとす

三島由紀夫
昭和21年11月、蓮田善明への追悼の文

255 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 15:41:40 ID:???
深き夜に暁告ぐるくたかけの若きを率てぞ越ゆる峯々 公威書

碑文
自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地、追悼碑

256 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 20:56:55 ID:???
私がお訪ねしたときにトーストと牛乳が出た。行儀のわるい癖で、トーストを牛乳に浸して
たべてゐた。すると川端さんがちらと横眼でこちらを見て、やがて御自分もトーストを
牛乳に浸して口へ運ばれだした。別段おいしさうな顔もなさらずに。

三島由紀夫「現代作家寸描集――川端康成」より

257 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 23:40:19 ID:???
川端康成はごく日本的な作家だと思はれてゐる。しかし本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけではない
ことは、本当の意味で西洋的な作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、明治以来の
西欧思潮の大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか見えないか
といふ色合の差にすぎない。(中略)
作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへあるやうに思ふはれ、
荷風はもつとも忠実にこれを実行した人である。なぜなら芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に
敏感であり、又これを裏目から支える風土の問題に敏感である。(中略)
悲しいことに、われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。西洋
イコール批評と云つても差支へない。(中略)
川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた。氏の最も
西欧的な、批評的な作品は「禽獣」であつて、これは横光氏の「機械」と同じ位置をもつといふのが私の意見である。

三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より

258 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 23:40:36 ID:???
…氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的
帰結を辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、
対象すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女に
とどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに
対する興味だと思はれる。
…しかし乱暴な要約を試みるなら、氏が生命を官能的なものとして讃仰する仕方には、それと反対の極の
知的なものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるやうに思はれる。生命は讃仰されるが、接触したが最後、
破壊的に働らくのである。そして一本の絹糸、一羽の蝶のやうな芸術作品は、知性と官能との、いづれにも
破壊されることなしに、太陽をうける月のやうに、ただその幸福な光りを浴びつつ、成立してゐるのである。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

259 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 23:40:50 ID:???
戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。
「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、
私の胸を搏つた。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

260 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 23:50:19 ID:???
川端さんへは又いつかの機会に御一緒にまゐりませう。
あの眼だけでも見ていたゞきたいと思ひます。酷薄さと温情がいりまじつた鋭い眼、あそこに川端さんの文学の
象徴があります。川端さんといふと、芸だの感覚だの抒情だのといふ言葉しか知らない批評家に憤慨して、
川端康成ノートを作つてゐますが、二、三年たつたら書けると思ひます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年7月25日、徳川義恭への書簡より

261 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 23:50:34 ID:???
この間川端さんが、睡眠薬の服用を急激にやめられたことから、禁断症状の発作を起され、東大病院に御入院中で、
面会謝絶と知りつゝ、強引に押し込んで御見舞をしましたところ、もう相当御元気で一安心しました。
「睡眠薬遊び」はもうお懲りになつたでせう、と諫言しましたら、苦虫を噛みつぶしておいででした。

三島由紀夫
昭和37年2月27日、中村光夫への書簡より

262 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 23:50:51 ID:???
「学習院の連中が、ジャズにこり、ダンスダンスでうかれてゐる、けしからん」と私が云つたら氏は笑つて、
「全くけしからんですね」と云はれた。それはそんなことをけしからがつてゐるやうぢやだめですよ、と
云つてゐるやうに思はれる。
川端氏のあのギョッとしたやうな表情は何なのか、殺人犯人の目を氏はもつてゐるのではないか。僕が
「羽仁五郎は雄略帝の残虐を引用して天皇を弾劾してゐるが、暴虐をした君主の後裔でなくて何で喜んで
天皇を戴くものか」と反語的な物言ひをしたらびつくりしたやうな困つたやうな迷惑さうな顔をした。
「近頃百貨店の本屋にもよく学生が来てゐますよ」と云はれるから、 「でも碌(ろく)な本はありますまい」
と云つたら、 「エエッ」とびつくりして顔色を変へられた。そんなに僕の物言ひが怖ろしいのだらうか。
雨のしげき道を鎌倉駅へかへりぬ。

三島由紀夫「川端康成印象記」より

263 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 23:55:12 ID:???
偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、
近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。
彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。口のはじにはおしろいでもかくれない薄いヒゲがやはりあつた。
…彼女は前のやうな重つくるしい丁寧すぎる言葉遣いはなくなつてゐた。
(中略)
「さよなら…お大事に」……云ひちがへて「お元気で」
「ええ」彼女は背を向けた。
…その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

264 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 23:55:28 ID:???
前日まで何故といふことなく僕は、「ゲエテとの対話」のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度も
よんでゐたのだつた。それは予感だ。
世の中にはまだふしぎがある。
そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか?書くなといふ暗示なのか?

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

265 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 23:55:46 ID:???
僕は婚約した彼女を一度誘い出して話したいという計画を抱いてゐた。
ところが突然別の僕がそれを気狂い沙汰だと叫び出す。向ふの家の父は吃驚して怒り出すだらう。
かりにも婚約した以上、ひとのものをと!
ところが「冷静な」僕がじつくりと別の僕をなだめてかゝる。一度位ゐそれも昼内一緒に出かけたつて
何の悪いことがあらう。まして昔は仲の好すぎた友達だつたのだもの。
向ふの家人も平気で彼女をだしてやるだらう。お前のやらうとしてゐることはひどく常識的なことにすぎないのだと。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

266 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 23:56:02 ID:???
彼女はレインコートさへ脱ぎたがらなかつた。まるでそれが下着ででもあるかのやうに。
だから僕の彼女の抱心地はゴワゴワした感触しか残らない。
それのみか彼女は、唇を吸ふにまかせて自ら吸おうとしなかった。
また抱かれるにまかせて抱かうとしなかつた。彼女はお人形のやうに強ばつてゐた。
そして戦争中の人目のうるさゝから殆どお化粧をしてゐなかつた。
そしていさゝか子供つぽすぎる横顔をますます子供つぽく見せてゐた。
――ところが彼女との間を第三者が隔てゝから彼女は急に美しくなり出した。
僕は彼女を真夏の薄着で、いささか厚化粧で抱きえなかつたことを後悔した。
彼女は今宵は頗る美しくみえた。彼女の白いレエスに包まれた胸のあたりに花房のやうに揺れるものを
今日ほど烈しく僕は欲したことがなかつた。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

267 :名無しさん@また挑戦:2010/09/10(金) 23:56:35 ID:???
人々は又しても責めるだらう、僕の作品には時代の苛烈さがないと。
しかし評家はもう少し炯眼であるべきだ。全く平和な時代に仮託したこの物語で、僕はまざまざと戦争と乱世の
心理をゑがくことに芸術的な喜びを感じてゐる。
戦争時と戦後の心理のそのすべての比喩をよむ人はこゝによむ筈だ。芸術とはさういふものだからだ。
――昔ばく徒は外出するときは必ず新らしい褌をはいて出た。さういふ生き方は実に我々には親しいものに
なつてゐたのである。それは近代文学特有の不安と衰弱の心理とは別の、もつと張のある活々した心理だつた。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

268 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 00:15:38 ID:???
川端氏は僕の吹く勝手な熱をしじゆう喜んでニコニコしてきいてくれた。おしまひには僕が悲しくなつて了つた。
僕の生意気な友人たちだつたら、フフンと鼻の先であしらひさうなこんなつまらない笑ひ話や、ユーモアのない又聞き話が、どういふ経緯で川端氏の口に微笑を誘ふのだらう。
しかしかうして一人で喋つてゐるうちに、だんだん僕が感知しだしたのは僕の孤独ではなくて、むしろ川端氏の孤独なのだつた。
ひろい家の中には夕闇がよどんで来た。ひろい家のさみしさが身にしみる時刻だ。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和22年の会計日記から

269 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 00:16:08 ID:???
川端氏とのさびしい夕食、川端氏のかへつてゆく一人の書斎、僕は僕の行方にあるものをまざまざと見る気がした。
名声とは何だらう。このひろい家によどんでくるどうにも逃げようもない夜のことなのか?否しかしなほ僕は名声を愛してゐる。
なぜなら名声でやつとたへられるものが僕の中にあるからだ。名声とは必要不可欠な人間にだけ来るものだ。
さうして名声があるために、ある人の慰めになる不幸があるものだ。こんな孤独の実質を名声は少しもかへえないが、名前と形容詞だけは支へてくれる。
文学の仕事、それが形容詞の創造であるとするなら、かうして形容詞の冷酷で花やかな報いをうけるのは当然だ。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和22年の会計日記から

270 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 00:32:13 ID:???
私は坂口安吾氏に、たうとう一度もお目にかかる機会を得なかつたが、その仕事にはいつも敬愛の念を寄せてゐた。
戦後の一時期に在つて、混乱を以て混乱を表現するといふ方法を、氏は作品の上にも、生き方の上にも貫ぬいた。
氏はニセモノの静安に断じて欺かれなかつた。言葉の真の意味においてイローニッシュな作家だつた。
氏が時代との間に結んだ関係は冷徹なものであつて、ジャーナリズムにおける氏の一時期の狂熱的人気などに
目をおほはれて、この点を見のがしてはならない。
些事にわたるが、氏の「風博士」その他におけるポオのファルスに対する親近は、私にもひそかな同好者の
喜びを与へた。ポオのファルスの理解者は今もなほ氏を措いて他にない。かつて「十三時」を訳した鴎外を除いては。

三島由紀夫
「私の敬愛する作家」より

271 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 00:32:33 ID:???
太宰治がもてはやされて、坂口安吾が忘れられるとは、石が浮んで、木の葉が沈むやうなものだ。
坂口安吾は、何もかも洞察してゐた。底の底まで見透かしてゐたから、明るくて、決してメソメソせず、
生活は生活で、立派に狂的だつた。
坂口安吾の文学を読むと、私はいつもトンネルを感じる。なぜだらう。余計なものがなく、ガランとしてゐて、
空つ風が吹きとほつて、しかもそれが一方から一方への単純な通路であることは明白で、向う側には、
夢のやうに明るい丸い遠景の光りが浮かんでゐる。この人は、未来を怖れもせず、愛しもしなかつた。
未来まで、この人はトンネルのやうな体ごと、スポンと抜けてゐたからだ。
太宰が甘口の酒とすれば、坂口はジンだ。ウォッカだ。純粋なアルコホル分はこちらのはうにあるのである。

三島由紀夫「坂口安吾全集 推薦文」より

272 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 00:36:30 ID:???
「友達」は、安部公房氏の傑作である。
この戯曲は、何といふ完全な布置、自然な呼吸、みごとなダイヤローグ、何といふ恐怖に充ちたユーモア、微笑にあふれた残酷さを持つてゐることだらう。
一つの主題の提示が、坂をころがる雪の玉のやうに累積して、のつぴきならない結末へ向つてゆく姿は、古典悲劇を思はせるが、
さういふ戯曲の形式上のきびしさを、氏は何と余裕を持つて、洒々落々と、観客の鼻面を引きずり廻しながら、自ら楽しんでゐることだらう。
まことに羨望に堪へぬ作品である。

三島由紀夫
「安部公房『友達』について」より

273 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 00:44:08 ID:???
西尾幹二氏は、西洋と日本との間に永遠にあこがれを以て漂泊する古い型の日本知識人を脱却して、西洋の魂を、その深みから、その泥沼から、その血みとまろの闇から、つかみ出すことに毫も躊躇しない、新らしい日本人の代表である。
西洋を知る、とはどういふことか、それこそは日本を知る捷径ではないか、……それは明治以来の日本知識人の問題意識の類型だつたが、
今こそ氏は「知る」といふ人間の機能の最深奥に疑惑の錘を垂らすことを怖れない勇気を以て、西洋へ乗り込んだのだつた。
これは精神の新鮮な冒険の書であり、日本人によつてはじめて正当に書かれた「ペルシア人の手紙」なのである。

三島由紀夫
「西尾幹二著『ヨーロッパ像の転換』推薦文」より

274 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 11:51:56 ID:???
ニ・ニ六事件を肯定するか否定するか、といふ質問をされたら、私は躊躇なく肯定する立場に立つ者であることは、
前々から明らかにしてゐるが、その判断は、日本の知識人においては、象徴的な意味を持つてゐる。すなはち、
自由主義者も社会民主主義者も社会主義者も、いや、国家社会主義者ですら、「ニ・ニ六事件の否定」といふところに、
自分たちの免罪符を求めてゐるからである。この事件を肯定したら、まことに厄介なことになるのだ。
現在只今の政治事象についてすら、孤立した判断を下しつづけなければならぬ役割を負ふからである。
もつとも通俗的普遍的なニ・ニ六事件観は、今にいたるまで、次のやうなジャーナリストの一行に要約される。
「ニ・ニ六事件によつて軍部ファッショへの道がひらかれ、日本は暗い谷間の時代に入りました」

三島由紀夫
「二・二六事件について」より

275 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 11:56:29 ID:???
二・二六事件は昭和史上最大の政治事件であるのみでない。昭和史上最大の「精神と政治の衝突」事件であつたのである。
そして精神が敗れ、政治理念が勝つた。幕末以来つづいてきた「政治における精神的なるもの」の底流は、
ここに最もラディカルな昂揚を示し、そして根絶やしにされたのである。
勝つたのは、一時的に西欧的立憲君主政体であり、つづいて、これを利用した国家社会主義(多くの転向者を含む
ところの)と軍国主義とのアマルガムであつた。私は皇道派と統制派の対立などといふ、言ひ古されたことを言つて
ゐるのではない。血みどろの日本主義の刀折れ矢尽きた最期が、私の目に映る二・二六事件の姿であり、北一輝の死は、
このつひにコミットしえなかつた絶対否定主義の思想家の、巻添へにされた、アイロニカルな死にすぎなかつた。

三島由紀夫
「二・二六事件について」より

276 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 11:59:53 ID:???
二・二六事件を非難する者は、怨み深い戦時軍閥への怒りを、二・二六事件なるスケイプ・ゴートへ向けてゐるのだ。
軍縮会議以来の軟弱な外交政策の責任者、英米崇拝者であり天皇の信頼を一身に受けてゐた腰抜け自由主義者
幣原喜重郎の罪過は忘れられてゐる。この人こそ、昭和史上最大の「弱者の悪」を演じた人である。
又、世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる。誰がその責任をとつたのか。
政党政治は腐敗し、選挙干渉は常態であり、農村は疲弊し、貧富の差は甚だしく、一人として、一死以て国を
救はうとする大勇の政治家はなかつた。
戦争に負けるまで、さういふ政治家が一人もあらはれなかつたことこそ、二・二六事件の正しさを裏書きしてゐる。
青年が正義感を爆発させなかつたらどうかしてゐる。

三島由紀夫
「二・二六事件について」より

277 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 12:03:40 ID:???
しかも、戦後に発掘された資料が明らかにしたところであるが、このやうな青年のやむにやまれぬ魂の奔騰、正義感の
爆発は、つひに、国の最高の正義の容認するところとならなかつた。魂の交流はむざんに絶たれた。もつとも
悲劇的なのは、この断絶が、死にいたるまで、青年将校たちに知られなかつたことである。そしてこの錯誤悲劇の
トラーギッシュ・イロニーは、奉勅命令下達問題において頂点に達する。奉勅命令は握りつぶされてゐたのだつた。
二・二六事件は、戦術的に幾多のあやまりを犯してゐる。その最大のあやまりは、宮城包囲を敢へてしなかつた
ことである。北一輝がもし参加してゐたら、あくまでこれを敢行させたであらうし、左翼の革命理論から云へば、
これはほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまりである。しかしここにこそ、女子供を一人も殺さなかつた義軍の、
もろい清純な美しさが溢れてゐる。この「あやまり」によつて、二・二六事件はいつまでも美しく、その精神的価値を
永遠に歴史に刻印してゐる。皮肉なことに、戦後二・二六事件の受刑者を大赦したのは、天皇ではなくて、
この事件を民主主義的改革と認めた米占領軍であつた。

三島由紀夫「二・二六事件について」より

278 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 12:07:24 ID:???
……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、
それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の
怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながつてゐるらしいのを感じた。
…それをニ・ニ六事件の陰画とすれば、少年時代から私のうちに育まれた陽画は、蹶起将校たちの英雄的形姿であつた。
その純粋無垢、その勇敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型に叶つてをり、かれらの挫折と死とが、
かれらを言葉の真の意味におけるヒーローにしてゐた。

三島由紀夫
「二・二六事件と私」より

279 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 12:12:38 ID:???
(中略)かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひは、
たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の「人間宣言」に
引つかからざるをえなかつた。
昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠と、
論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。これは文士たると否とを問はず、
生の自然な欲求と思はれる。そのとき、どうしても引つかかるのは、「象徴」として天皇を規定した新憲法よりも、
天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、一すぢの影を投げ、影を辿つて
「英霊の声」を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら「美学」と称するのも滑稽だが、私は
私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを知らねばならなかつた。
それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである。

三島由紀夫
「二・二六事件と

280 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 14:39:32 ID:???
「米人鏖殺」

米人よ地上を去れ。汝らの義務である。米人よ跡をも止めぬ者たれ。汝らの光栄ある使命は
それである。米人よ滅びよ。尽(ことごと)く死ね。もはや躊躇すな。汝の剣は汝自身の
血もてのみ衂(ちぬ)れ。米人よ残らず死ね。米人よ再びこの地上へ来るな。米人よ死ね。
……汝らの存在は私にとり不快である。目通り叶はぬ。死ね。日輪の前にもおびえぬ群盲よ。
死ね。私は日の方へ顔をむけるものゝ額に慎しみの代りに憎悪がある故踏む。汝の額を踏む。
いかなる大砂漠をも恐れげもなく蹴立てゝきた不遜な隊商が、懸橋なき断崖の上へ来て
何とした。墜落せよ。飛べ。寸時たりとも輝やける中空に在る光栄に喜死せよ。
臭い。涜らはしい。傍へ寄るな。退れ。汝の息が花園に近づく時花はみな剣をかざす。
汝の息は清流のうちなる魚をも腐らす。汝、蠅の母なる者よ。去れ。見苦しい。去れ。
犬の犬。豚の豚。汚物を食とする卑賎猥雑なバビロンの末よ。汝を鋤いて地を肥やし、
汝の屍に毒だみの花咲かせん。屍は毀(こぼ)たれて踏み躙(にじ)られし蟹の如けん。
青き脳髄を地へは垂らすな。

平岡公威(三島由紀夫)年月不詳(推定戦時中)

281 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 14:46:41 ID:???
私の言ひたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは
縁の切れない、さういふ中途半端な日本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の
若者にのぞむことは、ハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、
おのれの誇りとしてくれることである。

三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より

282 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 14:50:44 ID:???
今の日本の大威張りの根拠は、みんな西洋発明品のおかげである。
これはそもそも、大東亜戦争の航空機についてさえ言えることで、あの戦争が日本刀だけで戦ったのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦ったのである。
ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のように使って斬死した特攻隊だけである。

三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より

283 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 14:59:03 ID:???
近代日本文学史において、はじめて、「芸術としての批評」を定立した人。
批評を、真に自分の言葉、自分の文体、自分の肉感を以て創造した人。
もつとも繊細な事柄をもつとも雄々しく語り、もつとも強烈な行為をもつとも微妙に描いた人。
美を少しも信用しない美の最高の目きき。獲物のをののきを知悉した狩人。
あらゆるばかげた近代的先入観から自由である結果、近代精神の最奥の暗部へ、づかづかと素足で
踏み込むことのできた人物。
行為の精髄を言葉に、言葉の精髄を行動に転化できる接点に立ちつづけた人。
認識における魔的なものと、感覚における無垢なものとを兼ねそなへた人。
知性の向う側に肉感を発見し、肉感の向う側に精神を発見するX光線。
遅疑のない世界、後悔のない世界、もつとも感じ易く、しかも感じ易さから生ずるあらゆる病気を免かれた世界。
一個の野蛮人としての知性。
一人の大常識人としての天才。

三島由紀夫
「小林秀雄頌」より

284 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 15:03:49 ID:???
梶井基次郎の作品では、「城のある町にて」が一番好きだが、この蒼穹」も、捨て難い小品である。小説ではなくて、
一篇の散文詩であり、今日ではさう思つて読んだはうがいい。
この作者が、死の直前、本当の小説家にならうとして書いた「のんきな患者」をほめる人もあるが、私には、
氏は永久に小説家にならうなどと思はなかつたはうがよかつたと思はれる。この人は小説家になれるやうな
下司な人種ではなかつたのである。
「蒼穹」は、青春の憂鬱の何といふ明晰な知的表出であらう。何といふ清潔さ、何といふ的確さであらう。
白昼の只中に闇を見るその感覚は、少しも病的なものではなく、明晰さのきはまつた目が、当然見るべきものを
見てゐるのである。
健康な体で精神の病的な作家もゐれば、梶井基次郎のやうに病気でゐながら精神が健康で力強い作家もゐる。
同じ病気でも、梶井には堀辰雄にない雄々しさと力のあるところが好きである。

三島由紀夫
「捨て難い小品」より

285 :名無しさん@また挑戦:2010/09/11(土) 15:06:27 ID:???
梶井基次郎の文学は、デカダンスの詩と古典の端正との稀な結合、熱つぽい額と冷たい檸檬との絶妙な取り合はせであつて、
その肉感的な理智の結晶ともいふべき作品は、いつまでも新鮮さを保ち、おそらく現代の粗雑な小説の中に置いたら、
その新らしさと高貴によつて、ほかの現代文学を忽ち古ぼけた情ないものに見せるであらう。

三島由紀夫
「梶井基次郎全集 推薦文」より


286 :名無しさん@また挑戦:2010/09/13(月) 19:32:40 ID:???


287 :名無しさん@また挑戦:2010/09/13(月) 19:49:17 ID:???
あのヨーグルトを固めたやうな男が、男性の性的魅力の代表であるといふことについては、異論のある人が
多いと思ふ。(中略)
年増女の母性愛をくすぐる憂愁も、あどけなさも、少女の英雄崇拝にうつたへる体力も、不良つぽさも、
性的経験のある女に対する魅力も、それのない女からの憧れも……何もかも一身に具備して、歌の一ふし、
体の一ひねり、ことごとくセクシーならざるはないといふこの男。しかもそれを男の中の男と呼ぶには、
何か欠けてゐるやうな男。なまぐさい若さの、動物電気みたいなものを、存在すべてにしみこませて、それで
成功した男……。(略)
しかし、男といふものは、別にそんな存在になるために生まれてくるわけぢやない。プレースリーは、男性に
おける突然変異であり、ひどく自然に反したもので、一種の「性の神」になるやうに生まれついた男である。
ひよつとすると、彼がアメリカ人であるといふことは、女性の権力が強くなりすぎた社会における、男性の
側からの永い怨みと復讐のしるしかもしれない。

三島由紀夫「第一の性 各論エルヴィス・プレースリー」より

288 :名無しさん@また挑戦:2010/09/13(月) 19:50:07 ID:???
「ああ、女たちよ。威張れ。威張れ。いくらでも威張れ。お前たちのおのぞみの歌、大好きな歌をうたつて
やるからな。ほら、俺が歌ふと、どうしたんだい?今まで威張つてたお前たちが、急にしびれて、引つくり
かへるぢやないか。男の暴力を封じ、経済力をむしばみ、権力を弱めてきたお前たちが、
ハ、ハ、ハ、ハートブレーク・ホテル
だなんて、俺が下らない歌を、ふるへ声で歌ふと、とたんに降参して城を明け渡すぢやないか。なんて君らは
低俗な趣味なんだ。どうだい、腰を振つてやらうか。うれしいか。ざまあみろ。俺の前ぢや、みんな仮面を
はがれてしまふんだ。いくらとりすました顔をして、威張つてゐたつて、こんな下品な歌一つで一コロなんだ。
どうだ。男にはやつぱりかなはないといふことがわかつたろう。(略)」
――プレースリーの歌をきいてゐると、私は砂糖菓子みたいな歌詞のむかふがはで、彼がたえず右のやうに
歌つてゐる声をきくやうな気がします。

三島由紀夫「第一の性 各論エルヴィス・プレースリー」より

289 :名無しさん@また挑戦:2010/09/13(月) 19:53:26 ID:???
ゴンブローヴィッチはエロティックでない哲学なんて信用できないという。青年がなぜ
特権を持っているか。それはエロティックということです。学生新聞の文章を読んで
ごらんなさい。妙な観念的なことを書いていて、何を言わんとするのか全くわけがわからない。
だけど性欲が過剰だということだけはよくわかる。(中略)
西洋人を見ているとわかるでしょう。いい年をして脂っこいセックス。(中略)
ああいうものを持っているということは絶対肉体からくるので、日本人にはちょっと
わからないようなところがある。西洋の哲学でも思想でも、みなああいうものを
抜きにしては考えられない。宗教もそうでしょう。キリスト教で抑圧した性欲の激しさ
というものはすごい。だからバタイユとかクロソウスキーみたいな作家が出てくる。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

290 :名無しさん@また挑戦:2010/09/13(月) 19:54:40 ID:???
ぼくは自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、
太陽崇拝は母であり天照大神である。そこへ向かっていつも最後に飛んでいくのですが、
したがって、それを唆かすのはいつも母的なものなんです。…ずいぶん右翼のいろんな
手記を読んだりしたけど、おふくろがみんないいおふくろで、息子の行動を全部是認している。
…おふくろの力というのはとても大事なんです。右翼のあれを読むと、みなおふくろ好きなんです。
イタリアのギャングが帰着するところは全部おふくろなんです。(中略)
いくら女を締め出してもだめです。最終的におふくろが出てくる。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

291 :名無しさん@また挑戦:2010/09/13(月) 19:55:38 ID:???
三島:ぼくはいま安岡君の「幕が下りてから」を読んでいるのだけれども、あんなに
人間が背が高くなることを信じない人というのはつらいだろうな。
中村:それはおもしろい。そういう意味ではあの人は魅力がない。
三島:魅力がない。

中村:とても悧巧だからね。

三島:大江君は、少なくとも背が高くなるという可能性は信じているでしょう。自分は
絶対ならないけれども、誰かがなるだろうということを信じている。それが自意識と
結びついて変なことになっちゃうかもしれないけれども、少なくとも安岡君とちがうのはそこだ。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

292 :名無しさん@また挑戦:2010/09/13(月) 19:56:38 ID:???
三島:…作家がピエロというのは前提条件で、どこからどこまでピエロなんだから、
自分でピエロだといったらピエロでなくなっちゃう。つまりピエロが出てきて、
私はピエロですピエロですといったら絶対ピエロでなくなっちゃう。メドラノの曲馬、
あれは悲しそうだからいいので、私はクラウンですよといったらクラウンでなくなる。
日本の私小説というのはどうもそういう感じがする。(中略)
太宰は、私はクラウンですよと絶えずいっていた。だからおもしろくもおかしくもないし、
そんな当たりまえなことをいうなと言いたくなる。

中村:太宰はともかくとして、日本の私小説は大まじめで、大いに悲劇的な表情で
喜劇的なことをやってたんじゃないの。

三島:自分が気がつかないでね。自分が気がつかないというのはクラウンとはちがう。
クラウンは全部知っている。そして一生懸命やる。人は大笑い。それが芸術家だと思う。
日本の小説家は自分がクラウンだということを知らない。そして私はクラウンですよ
というのだけれど、腹の底でそう思っているかどうかはわかりません。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

293 :名無しさん@また挑戦:2010/09/13(月) 19:57:37 ID:???
三島:もし自分はクラウンだといえば、どこかの女が、冗談おっしゃってはいけません。
クラウンじゃありませんよと……。

中村:必ず言ってくれると思っている。

三島:あれは耐えられない臭味だな。

中村:とくに太宰はね。

三島:耐えられない。ぼくは安岡君のものを読んでも気に食わないのもそれなんです。
安岡君が、「私」は醜男だ、どうせ滑稽だ、女房にいじめられてばかりいるとか、
そんなことはちっともおもしろくもおかしくない。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

294 :名無しさん@また挑戦:2010/09/13(月) 20:01:45 ID:???
三島:…つまり、どこかでなあなあでなれ合いで、おれはこうやっていても、おれの
偉いということは人がわかってくれているのだぞ、ということがどこかに残っているからですよ。
そんな意識は捨てたればいい。
ぼくの理解者がどこかにいて、ぼくのことを偉いと思っていたら、ぼくは偉いというふうに
すればいいじゃないですか。人が偉いと思ったら偉いと思えばいいし、人が滑稽だと
思ったら滑稽であればいいので、それについて自分は偉いとか滑稽とかいう必要は毛頭ない。
安岡君はいつも自分はクラウンだというふうに自己規定する。あれは狡いと思う。
安岡君をまじめにとっている人がいくらでもいるだろう、そういう人間に対して失礼だと思う。
読者を考えた場合に、読者に対する礼儀というものは非常に大事だと思う。読者がもし
ぼくをある一点においてまともにとってくれているなら、ある一点でまともなんですよ。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

295 :名無しさん@また挑戦:2010/09/14(火) 11:39:15 ID:???
「長瀞遠足記」

朝起きて見ると東の空がほのかに紅くなつてゐる。
あゝ今日は遠足の日だ。
いつもなら、女中が、
「お坊ちやまお起き遊ばせ」
位云つてくれてもなかなか起きない僕が、今日は起してくれる前におきて了つた。
女中にきいたのだが、僕が十一、二時頃おきて、
「もう朝になつた?」
と、きいたさうだ。
      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
それから僕はお母さまと書生とで池袋駅へ急いだ。
いよいよ汽車にのつてあこがれの長瀞へ行くのだ。
汽車の中では僕が色々なものをもつて来たので相当面白かつた。
「かァみながァとろォ
かァみながァとろォ」
と叫ぶ駅夫の声に汽車が止つて、先づ宮様方がお下りになり、それから一年から順に汽車から下り、列を作つて、
神保博士の長瀞の石の『ちんれつくわん』へ行つた。
色々な見たこともない石があつた。
けれどもその内で一番僕の面白いとおもつたのは木の化石だつた。
太い木がそのまゝ石になつて居るのは、作つた物としか思へない。

平岡公威(三島由紀夫)9〜10歳の作文

296 :名無しさん@また挑戦:2010/09/14(火) 11:44:17 ID:???
たうとう河原についた。
こちらの河岸はまことに長瀞の名に応(ふさ)はしくトロトロと流れて居るが、向う岸は水が河底にある岩に
当つてドドドッとしぶきを上げて居る。
本当に『美しい天然』だ。
そこで少し休んで石畳でおべん当をたべた。ザアザアと流れる水の音をきゝながら御飯をたべるのは何とも云へない。
それから、遊園地を通つて、宝登山神社にお参りした。
そこで大へん面白い“獅子舞”を見せていただいた。
雄獅子が二匹と雌獅子が一匹とでピィヒャラピィヒャラとこつけいな踊りをした。
それがすんでから、神社に別れを告げ、この名ごり惜しい長瀞から東京へかへることになつた。
帰りに汽車の中で小松先生が俳句を一句作つて下さつた。その俳句はかうである。
長とろや
  とろりとろりと
     流れけり
      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今日の美しい日は夢のやうにすぎて了つた。
長瀞遠足は大へん為になつた。
ほんとにいゝ遠足だつた。

平岡公威(三島由紀夫)9〜10歳の作文

297 :名無しさん@また挑戦:2010/09/14(火) 15:35:32 ID:???
今度のこりの三篇を拝読、「白毛」のをはりの小さいお嬢さんの件りに妙に心を動かされ、
貴兄は小さい女の子のことを書かれると、(楡家の桃子以来)どうしてこんなに人の心をゆすぶるのか、とふしぎになりました。
「静謐」でも千花といふ子が妙に感動的なのです。これは決して私小説的批評ではありません。
貴兄と小生の間に、「小さい女の子の孤独」に対する妙に深い哀憐の情の共通性があるらしい。
小生の場合は、死んだ妹の記憶かもしれません。

三島由紀夫
昭和41年7月16日付、北杜夫への書簡から

298 :名無しさん@また挑戦:2010/09/15(水) 12:11:27 ID:???
サルヴァドル・ダリの「最後の晩餐」を見た人は、卓上に置かれたパンと、グラスを夕日に射抜かれた赤葡萄酒の紅玉のやうな煌めきとを、永く忘れぬにちがひない。
それは官能的なほどたしかな実在で、その葡萄酒は、カンヴァスを舐めれば酔ひさうなほどに実在的に描かれてゐる。
…吉田健一氏の或る小品を読むたびに、私はこのダリの葡萄酒を思ひ出す。
単に主題や思想のためだけなら、葡萄酒はこれほど官能的これほど実在的である必要がないのに、「文学は言葉である」がゆゑに、又、文学は言葉であることを証明するために、氏の文章は一盞の葡萄酒たりえてゐるのである。

三島由紀夫
「ダリの葡萄酒」より

299 :名無しさん@また挑戦:2010/09/15(水) 12:33:05 ID:???
(シニスム)が大抵のものを凡庸と滑稽に墜してしまふのは、十九世紀の科学的実証主義に
もとづく自然主義以来の習慣である。私は自意識の病ひを自然主義の亡霊だと考へてゐる。
すべてを見てしまつたと思ひ込んだ人間の迷蒙だと考へてゐる。あらゆる悲哀の裏に
滑稽の要素を剔出するのはこの迷蒙の作用である。いきほひ感情は無力なものになり、
情熱は衰へ、何かしらあいまいな不透明なものになり終つた。


悲劇は強引な形式への意慾を、悲哀そのものが近代性から継子扱ひをされるにつれてますます
強められ、おのづから近代性への反抗精神を内包するにいたる。それは近代性の奥底から
生み出された古典主義である。喜劇は近代をのりこえる力がない。


偉大な感情を、情熱を、復活せねばならぬ。それなしには諷刺は冷却の作用をしかもたないだらう。

三島由紀夫「悲劇の在処」より

300 :名無しさん@また挑戦:2010/09/15(水) 12:33:55 ID:???
使へない武器は恫喝にすぎませんから、恫喝によつて、どんな嘘も可能になる。例へば
膨大な核基地が何処かにあるといふことが、察知されますと、敵側からスパイを派遣して
これを察知するでせう。あらゆる方法で情報を集めてこの核基地の所在を発見しようと
するでせう。ところがこの核基地の所在が本当は無くてもいいんです。無くても絶対ここに
あると信じれば充分恫喝になるのですから、核兵器といふものは、最終的にいへば、
無くてもいいんです。あるぞといつてゐるだけで嚇かされるんです。あるぞといつてゐるだけで
嚇かされるんです。勿論昔の法科をお出になつた方は、秋刀魚をもつて強盗に入つた場合に、
強盗に入られた方がこれを凶器だと思つて間違へて金を出した場合、これはどうなるのだ
といふ問題を出されたと思ふのです。これは刑法上昔から錯誤の問題として出される
珍問題の一つですが、核とは秋刀魚と同じやうな形をもつてゐる。持たなくても持つてゐると
嚇かすだけで効果がある。

三島由紀夫「武士道と軍国主義」より

301 :名無しさん@また挑戦:2010/09/15(水) 12:36:14 ID:???
>>297続き
――それはさうと大江健三郎自殺未遂といふ噂をききましたが本当でせうか?
彼にはたしかに何か、精神病質の危険な兆候が感じられます。小生も躁病が極度に達し、つひにステージで
歌をうたひました。しかしカーテン・コールで出ると、女の子が一せいにキャーッと云つてくれたので感激しました。
あのキャーッといふ声を一度体に受けてみたいと思つてゐたので宿望を達しました。あの声は一体どこから
出るのでせうか。
貴兄の躁病の御文章をよんで、大笑ひ、といふのも、医者の病気ほど愉快なものはないからです。
御病気悪化の一助にもと、イヂワル・ヂヂイがこの手紙を書きました。

匆々

三島由紀夫
昭和41年7月16日付、北杜夫への書簡より

302 :名無しさん@また挑戦:2010/09/16(木) 10:29:03 ID:???
「夜のプール」

三時頃、林さんが来た。
僕はその前の日林さんの家へでんわをかけたのだ。そして、その時僕は、久しぶりで七時頃から夜のプールを
見にいかませうといつた。
果して林さんは来た。
ごはんをすませて三十分位たつた時の僕は、涼風吹くさはやかな外苑の夜道を足どりも軽くあるいて居た。

夜のプール。
物すごく明るい電気が左右から緑色のプールをくわうくわうと照らしてゐる。
ザブーン。
気持のよい音。五、六人一しよに飛びこんだ。サッサッ、水をかく音。ふとみると、夜空に日章旗が高く
ひらめいてゐた。

平岡公威(三島由紀夫)年月不詳(推定9歳)の作文

303 :名無しさん@また挑戦:2010/09/16(木) 10:55:52 ID:???
「東京市」

昔は、秋風の吹くごとに、波の如くすゝきのざわめく武蔵野が、今や華やかな都東京市になつた。
それでも明治初期は、東京市と云つても所々に野原があり、本所、深川あたりでは狐狸(こり)が出て人を化かす
といふ噺もあつたが、大正、昭和となつては、さすがそんな噂はなくなつた。けれども、淋しいと云へば淋しい。
その頃は新宿も市外で、今のかつしか、えばら区などと言ふ所は勿論かやぶき屋根の並んでゐる村であつた。
しかし、明治初期の頃の日本橋、銀座は、割合に発展してゐて、越後屋、高島屋、白木屋などの大商店が軒を
ならべて居たと云ふ。後に越後屋は三越と名を改め、外の大きな店々は三越と共に、豪壮なビルディングへ転居した。
昭和五、六年になると、東京市は実に偉大な発展を占め、旧市、新市合せて、何んと三十五区になつた。
おまけに、新宿が市内になり、銀座、日本橋、丸の内と合せて、東京市は東洋にほこる大都会となつた。
東京市は天をついて伸びてゆく、丁度若木のやうに。

平岡公威(三島由紀夫)10歳の作文

304 :名無しさん@また挑戦:2010/09/16(木) 12:05:29 ID:???
「三笠・長門見学」

船は横須賀の波止場へ着いた。ポーッと汽笛が鳴る。私達は桟橋を渡つた。薄曇りで、また酷い暑さの今日は、海迄だるさうだ。
併し、僕達は元気よく船から飛び出す。三笠の門の前に集合し、そして芝生の間の路に歩を運ぶ。艦前に来て
再び集まり、三笠保存会の方から、艦の歴史やエピソォドを伺つた。
お話が終ると私は始めて三笠を全望した。
見よ! 此の勲高き旗艦を。そしてマストにはZ信号がかゝげられてゐる。
時に、雲間を割つて出でた素晴らしき陽は、この海の館を愈々荘厳ならしめた。艦頭の国旗は、うすらな風に
ひるがへり、今にも三笠は、大波をけつて走り出さうだ。一昔前はどんな設備で戦つてゐたのか、早く見たくなつた。
やがて案内の人にともなはれて急な階段を上り、艦上に入る。よく磨かれた大砲が海に向つて突き出てゐる。
こゝで日本の大きな威力が世界に見せられたわけだ。伏見宮様の御負傷の御事どもをお聴きして、えりを正した。
其処此処に戦士者の写真が飾られてあるのも哀れだ。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文

305 :名無しさん@また挑戦:2010/09/16(木) 12:09:39 ID:???
「三笠・長門見学」

私達は最上の甲板に登つて東郷大将の英姿を想像してみた。手に望遠鏡、頭上には高くZ信号。……皇国の興廃
此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ……。とは単なる名文ではなくて、心の底から叫んだ愛国の声ではないか。
士官の室が大変立派なのにも驚いた。又会議室へ行つて此処でどんな戦略が考へられたかと思つた。艦の全体に
ペンキで戦痕が記されてある。こんなに沢山弾を受けたのに一つも艦の心臓部に命中しなかったのは畏い極み乍ら、
天皇の御稜威のいたす所であらう。艦を出て、暫時休憩し、昼食を摂る。休憩が済むと、再び海に沿うた道を歩く。
そここゝにZ信号記念品販売所等と看板があるのも横須賀らしい。さうする中に海軍工廠の門内へ入つた。
クレーンや、色々の機械の動く音と、金槌の音が、あたりを震はせてゐる。「今造つて居る戦艦は、十一月に
進水式をするのです」と案内の人が言つた。あちらでは古い旗艦を保存してゐるのに、こちらでは新しい軍艦が
どんどん生れて来てゐる。一寸面白く思つた。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文

306 :名無しさん@また挑戦:2010/09/16(木) 12:17:22 ID:???
「三笠・長門見学」

其の内にランチへ乗る。さうして五分も経たないで長門につく。先づ此れを望んで、さつきの三笠と較べて見ると、
余りにその設備の新式なのに驚いた。艦上には四十糎(サンチ)の素晴らしい大砲がある。其の太い砲口から
大きな大きな砲弾が出たらどうであらうと思ひ乍ら、案内の人にともなはれて下へ行く、水兵さんの頭を
刈つて居る所、色々な室、何も彼も物珍らしく面白い。時間が無かつたので、ゆつくり見学することが出来ず
残念であつたが、記念撮影をして再びランチに帰つた。あゝ日本の精鋭長門、こんな軍艦があつてこそ、
日本の海は安全なのであらう。ランチが着き菊丸まで歩いて、かうして今日の有益な見学を終つた。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文

307 :名無しさん@また挑戦:2010/09/16(木) 13:36:49 ID:???
「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の
自分の文化だと知つてゐる」(「大津皇子論」)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の
青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分が
そのやうにして「文化」を創る人間になり得なかつたといふ千年の憾(うら)みに拠る。
氏が二度目の応召で、事実上、小高根氏のいはゆる「賜死」の旅へ旅立つたとき、のこる私に何か大事なものを
託して行つた筈だが、不明な私は永いこと何を託されたかがわからなかつた。

三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より

308 :名無しさん@また挑戦:2010/09/16(木) 13:39:13 ID:???
(中略)
それがわかつてきたのは、四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれてである。私はまづ氏が何に対して
あんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する
怒りだつた。
戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、
その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、
その非行動性、その多弁、その食言、……それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのような腐敗を放ち、
どのように文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた
文化のために、憤りにかられてゐたのである。

三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より

309 :名無しさん@また挑戦:2010/09/17(金) 17:01:56 ID:???
少しでも自動車をころがしてみた人なら、白バイの存在を意識しなかつたといふ人はあるまい。それは、
ゐませんやうにと神に祈るほどの存在であり、しかも、どこかにゐてくれなくては物足らない存在である。だから
ますますそれは、小イキな服装と小イキな白いオートバイと共に、神秘化される。悪人の目から見たところの
鞍馬天狗のやうな存在、善良な市民にちよつぴり悪人の気持を味はせてくれる存在である。その威厳、その美しさ、
その神速、その権力、一つとして羨望の的ならざるはない。白バイを怖がつたことのある人なら、必ず一度は、
白バイになつてみたいと思ふだらう。

三島由紀夫「私はこれになりたかつた――それは白バイの警官です」より

310 :名無しさん@また挑戦:2010/09/18(土) 12:00:14 ID:???
「支那に於ける我が軍隊」

七月八日――其の日、東京はざわめいて居た。人々は号外を手にし、そして河北盧溝橋事件を論じ合つてゐた。
昭和十二年七月七日夜、支那軍の不法射撃に端を発して、遂に、我軍は膺懲の火ぶたを切つたのである。
続いて南口鎮八達鎮の日本アルプスをしのぐ崚嶮を登つて、壮烈な山岳戦が展開せられた。懐来より大同へと
我軍はその神聖なる軍をつゞけ、遂に、懐仁迄攻め入つたのである。我国としても出来得る限りは、事件不拡大を
旨として居たのであるが、盧溝橋事件、大山事件に至るに及び、第二の日清戦争、否! 第二の世界大戦を
想像させるが如き戦ひに遭遇した。
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文

311 :名無しさん@また挑戦:2010/09/18(土) 12:02:31 ID:???
「支那に於ける我が軍隊」

飲むは泥水、行くはことごとく山岳泥地、そして百二十度の炎熱酷暑、その中で我将兵は、苦戦に苦戦を重ねて
居るのである。その労苦を思ふべし、自ら我将士に脱帽したくなるではないか。たとへ東京に百二十度の炎暑が
襲はうとも、そこには清い水がある。平らかな道がある。それが並大抵のもので無いことは良く解るのである。
併し軍は、支那のみに止らぬ。オホーツク海の彼方に、赤い鷲の眼が光つてゐる。浦塩(ウラジホ)には、
東洋への銀の翼を持つ鵬が待機してゐる。我国は伊太利(イタリー)とも又防共協定を結んだ。
併しUNION JACK は、不可思議な態度をとつて陰険に笑つてゐる。
噫! 世界は既に動揺してゐるのだ!
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
支那在留の将士よ、私は郷らの健康と武運の長久を切に切に祈るものである。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文

312 :名無しさん@また挑戦:2010/09/18(土) 12:06:47 ID:???
「菊花」

渋い緑色の葉と巧みな色の配合を持つた、あの隠逸花ともよばれるつつましやかな花は、自然と園芸家によつて
造られた。
園芸家達の菊は、床の間に飾られるのを、五色の屋根の下に其の艶やかな容姿を競ふのを誇りとし、自然の
造つた菊は、巨きな石塊がころがつて痩せ衰へた老人の皮膚の様な土地に、長い睫毛の下から無邪気な瞳を
覗かせてゐる幼児のやうに咲き出づるのを誇つてゐる。
前者は人の目を娯ます為に相違ないが、野菊の持つエスプリはそれ以上のものである。
荒んだ人の心の柔かな温床。
荒くれ男どもを自然の美しさに導く糧。
それが野菊である。
《鬚むじやらの人夫などが、白と緑の清楚な姿に誘はれて、次々と野菊を摘んで行き、山の端に日が燃え切る頃、
大きな花束を抱へて嬉しげに家路に着く》それは美しい風景ではあるまいか。
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
時は霜月。
木々が着物を剥がされかけて寒さに震へる月であるが、彼の豪華な花弁が野分風も恐れずに微笑む時である。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文

313 :名無しさん@また挑戦:2010/09/19(日) 14:34:40 ID:???
刑事が被疑者を扱ふやうに、当初から冷たい猜疑の目で作家を扱ふ作家論が、いつも犀利な批評を成就するとは
限らない。義務的に読まされる場合は別として、私は虫の好かぬ作家のものは読まぬし、虫の好く作家のものは
読む。すでに虫が好いてゐるのであるから、作品のはうも温かい胸をひらいてくれる。そこへ一旦飛び込んで、
作家の案内に委せて、無私の態度で作中を散歩したあとでなければ、そもそも文学批評といふものは成立たぬ、
と私は信ずるものだ。ましてイデオロギー批評などは論外である。非政治主義を装つた、手のこんだ
政治主義的批評は数多いのである。
これが私の基本的態度であるから、はじめから気負ひ立つた否定などは、一度も企てたことがなかつた。
否定が逸するところのものを肯定が拾ふことがある。もしその拾つたものに批評の意味が発見されれば、
本書の目的は達せられたことにならう。

三島由紀夫「『作家論』あとがき」より

314 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 16:27:47 ID:???
竜灯祭へお招きをうけて、灯籠流しにもいろいろの趣きがあるのを知つた。今まで私がしばしば見たのは
熱海の灯籠流しであつたがこれはふつうの施餓鬼の行事で、ひろい海面の潮のまにまに灯籠が漂ふのは、淋しい
彼岸へ心を誘はれる心地がした。柳橋の竜灯祭は神事である上に、いかにもこの土地らしい華麗なものである。
川面いちめんに灯籠が流れ出す数分間はふだんはただ眺めてゐるだけの隅田川をわれとわが手で流した灯籠で、
占領してしまつたやうな快感を与へる。地上の豪奢を以て、水中の竜神の心を慰めるといふ趣きがある。それが
いかにも「竜灯祭」といふ名にふさはしいのである。
また、それから引き潮に乗つてあれほど夥しかつた灯籠が、数分間のうちにほとんど視界を没し去るのも、
いかにもいさぎよくて、江戸前の感じがする。執念が残らないで、さはやかなのである。

三島由紀夫「竜灯祭」より

315 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 16:30:44 ID:???
最後まで料亭の舟着場の下などにまつはりついて離れない少数の灯籠もあるが、これも執念といふものではなくて、
そのすぐ上方の座敷のさんざめき、美妓のたたずまひなどに心を残して、無邪気にそこに居据つてしまつた感じで
可愛らしい。あたかもその十いくつの灯籠だけが、そろつて首をもたげてうすく口をあけて、地上の遊楽の
美しさを讃美してゐるやうだ。
灯籠流しといふと、人はすぐ暗い仏教的イメーヂを持つが、私の発見したのは別のものだつた。このごろの
大キャバレエの遊びよりも昔の人はもつと豪奢な遊びを知つてゐた。そして消えない電気の光りよりも、
波のまにまに夜のなかへ馳け込んでゆく灯籠の光りのはうに、はるかに、遊楽に一等大切な「時間」の要素が、
いきいきとこめられてゐるのを知つた。一度花やかな頂点に達してそれが徐々に消えてゆく、そのゆるやかな
時間の経過の与へる快さは、快楽の法則に自然に則つてゐて、いづれにしても花火よりも「快楽的」であると
思はれるのだつた。

三島由紀夫「竜灯祭」より

316 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 16:41:55 ID:???
ひところ歴史小説と現代小説といふささやかな論争が起こり、私は「作家は現代を描くべきものだ」といふ
高見順氏の説におほむね賛同したが、この論争の困難は要するに時点の設定であつて、太平洋戦争を題材に
歴史小説を書くこともできれば、その前の左翼運動弾圧の時代を題材に、高見氏のいはゆる現代小説を書くことも
できるわけである。
少なくとも自分の体験し生きてきた時期だけを現代小説の取り扱ひうる時期だと考へると、そんな現代意識は
歴史から除外されてゐるかのやうで「現代」といふ観念そのものが、経験主義と、あの悪名高い私小説理念によつて
毒されることになるであらう。そのとき作家にとつての現代とは、きはめて主観的な日々の体験の累積に
ほかならず、もつと厳密にいへば、現在のこの瞬間の、感覚的純粋体験そのものになつてしまふ。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

317 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 16:47:49 ID:???
しかし高見氏はもとより、一般人も「現代」といふときに、そこにはおのづから、特殊の歴史意識を含ませてゐる。
歴史がなほ生成過程にあつて、歴史的創造の余地を残し、未決定の要素を含んでゐる場合に、これをわれわれは
通常「現代」と呼ぶのであつて、昭和初期から今までを現代と呼ぶか、安保闘争から今までを現代と呼ぶかは、
呼ぶ人の史観の相違にほかならない。一つづきの歴史を、どこまでを既済の箱に投げ入れ、どこまでを未済の
箱に残しておくかは、その人の考へ方によることである。といつても、平安朝から今までを一つづきの現代と
考へることは、常識上ありえないから、これも相対的な問題である。
が、私の考へるのに、現代小説か時代小説(あるひは歴史小説)か、といふ問題提起には、もう一つ「現代史」
といふものに関する特殊な思想が働いてゐるやうに思はれる。つまり現代史といふものは本当に未決定なのであるか、
本当にその中に住む人間の歴史的創造の余地があるものなのか、実際にわれわれの自由意志によつて選択される
可能性のあるものなのかといふ問題である。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

318 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 16:52:09 ID:???
ここまで来ると、小説といふジャンルは、現代史を前にして、一体、自由意志の味方なのか、それとも何らかの
決定論的思想の援用なしには成立しないものなのか、そのへんはまだよくわかつてゐないのである。
たとへば、豊臣秀吉なり真田幸村なりを拉し来たつて、彼らの伝記をよく調べ、時代考証も綿密にして、
その上で、つまりがんじがらめの既定の歴史的諸条件を課した上で、彼らに小説家の自由意志を吹き込んでやれば、
ある程度まで巧みに、彼らを「自由意志の傀儡」とすることができる。かういふ場合、(少なくとも表面上は)、
小説なるものは明らかに自由意志の味方であらう。なぜなら、小説家は何らかの決定論的思想などを援用する
必要はないので、それはすでに歴史が決めてくれたことであり、宿命が選んでくれたことだからである。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

319 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 16:57:35 ID:???
かうして書かれた人物は、(巧みに書かれさへすれば)、いかにも活々として見え、いかにも自由に見え、
しかも見事に完結してをり、小説として成功しやすいやうに思はれる。そして小説家の思想は、要するに既定の
歴史の解釈の問題であつて、たとへ作者の人間観が浅薄であつても、歴史そのものがこれを救つてくれる。
高見氏のきらつたのはおそらくこの点であらう。
これな反して、現代小説は成功がむづかしく、アラも見えやすい。第一われわれの耳目に親しい時代は、
読者自身が、目前の現象と作中の描写とを、居ながらにして比較することができるからである。作家はもちろん
むづかしいことへ進んで赴くべきである。この点でも私は高見氏に同意である。
(中略)あれほど意志を重んじたバルザックも、「人間喜劇」の総序に、「私はキリスト教と君主政体といふ
二つの永遠の真理に照らされて書く」と宣言してゐる。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

320 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 17:01:47 ID:???
歴史小説や時代小説における「歴史」の代用となるものが、現代小説をともかくも芸術として成り立たしめるに
必要な「形式」として使はれてきたことは、否定しがたい事実であつた。そして現代小説に於ける形式とは、
何らかの決定論的思想の援用でなければならなかつた。あるときにはカトリシズムであり、あるときには悲観的
宿命論であり、あるときには進化論と遺伝の問題であり、最後には社会主義リアリズムであつた。これらは
すべて時代々々の、最も流行した決定論のサンプルである。そして読者や文学史家はゆめさらこれを形式とは
思はず、作品の「思想」と呼んだのであつた。
かう考へてゆくと、高見氏の投げかけた問題は意外に大きいのであつて、ひよつとすると、小説家が本当に
現代史といふものに直面したのは、今世紀の意外な事件であり、しかも小説ジャンルの衰退に歩調を合はせて
起こつた悲劇的な事件かもしれないのである。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

321 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 17:07:00 ID:???
その例証としては、プルウストとサルトルの二人を挙げるだけで十分であらう。プルウストの書いた現代小説は、
まさに現代といふ時点が、プティット・マドレエヌといふお菓子を舌の上に味はふその瞬間に凝結してをり、
さまざまな現代の事象の大海の上に、彼が落とした一滴のオリーブ油のやうなその「現代」と、彼が失ひかつ
ふたたび見出した尨大な「時」とは、とてつもない対照を示してゐる。自由意志による未決定といふ現代史の
観念を、彼は、無意志的記憶といふ観念で、みごとに手袋を裏返すやうに裏返してみせたのであるあるが、
サルトルが「自由への道」でやつたこともプルウストと等しく(現代史を決定論で押し包んで、小説形式を
救ひ出さうといふやり方と反対の)決定論によらない思想で、現代小説を書かうとした果敢な試みであつたと
いつてよからう。
しかしまた皮肉なことに、かうして書かれた作品の人物たちは、自由意志の恩寵からも見放され、プルウストの
「私」は影のやうにさまよひ、サルトルの小説は自由への道半ばに中絶してしまひ、保守的な、幸福な、
大河小説の作者たちが持つてゐた作品の「形式」は崩壊し、いづれもただ小説ジャンルの形式上の衰退に、
みごとな寄与をもたらすことになつた。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

322 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 17:09:56 ID:???
歴史小説や時代小説における「歴史」の代用となるものが、現代小説をともかくも芸術として成り立たしめるに
必要な「形式」として使はれてきたことは、否定しがたい事実であつた。そして現代小説に於ける形式とは、
何らかの決定論的思想の援用でなければならなかつた。あるときにはカトリシズムであり、あるときには悲観的
宿命論であり、あるときには進化論と遺伝の問題であり、最後には社会主義リアリズムであつた。これらは
すべて時代々々の、最も流行した決定論のサンプルである。そして読者や文学史家はゆめさらこれを形式とは
思はず、作品の「思想」と呼んだのであつた。
かう考へてゆくと、高見氏の投げかけた問題は意外に大きいのであつて、ひよつとすると、小説家が本当に
現代史といふものに直面したのは、今世紀の意外な事件であり、しかも小説ジャンルの衰退に歩調を合はせて
起こつた悲劇的な事件かもしれないのである。
その例証としては、プルウストとサルトルの二人を挙げるだけで十分であらう。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

323 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 17:14:01 ID:???
プルウストの書いた現代小説は、まさに現代といふ時点が、プティット・マドレエヌといふお菓子を舌の上に
味はふその瞬間に凝結してをり、さまざまな現代の事象の大海の上に、彼が落とした一滴のオリーブ油のやうな
その「現代」と、彼が失ひかつふたたび見出した尨大な「時」とは、とてつもない対照を示してゐる。
自由意志による未決定といふ現代史の観念を、彼は、無意志的記憶といふ観念で、みごとに手袋を裏返すやうに
裏返してみせたのであるあるが、サルトルが「自由への道」でやつたこともプルウストと等しく(現代史を
決定論で押し包んで、小説形式を救ひ出さうといふやり方と反対の)決定論によらない思想で、現代小説を
書かうとした果敢な試みであつたといつてよからう。
しかしまた皮肉なことに、かうして書かれた作品の人物たちは、自由意志の恩寵からも見放され、プルウストの
「私」は影のやうにさまよひ、サルトルの小説は自由への道半ばに中絶してしまひ、保守的な、幸福な、
大河小説の作者たちが持つてゐた作品の「形式」は崩壊し、いづれもただ小説ジャンルの形式上の衰退に、
みごとな寄与をもたらすことになつた。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

324 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 17:17:52 ID:???
小説にとつての現代史といふ怪物は一体どこにどんなふうにして棲息しどんな相貌をしてゐるのであらう。
一体現代史は、果たして自由意志による歴史的創造の余地を残した未決定のものであるのか、あるひは
ひよつとすると、過去のいかなる時代ともちがつた、あらゆる意志が無効であり、あらゆる歴史的創造が
不可能なものであるのか? かういふ疑問が、ますます先鋭になり、小説と現代史の関係がますます困難になつた、
ことに第二次世界大戦後の状況であつて核戦争の危機がその根本原因であることはいふまでもあるまい。
もし偶発戦争によつて、世界が滅びるなら、現代は美しい夕映えの時代であらうが、その夕映えのやうな美しい
決定論も、古典的な自由意志も、ひとしく時代おくれになつた現代では、テレビが刻々とあらはれ消える
無意味な影像によつて、人の心をとらへつづけるのもふしぎではない。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

325 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 17:21:45 ID:???
(中略)
未決定の現代といふ観念が、もし怪しげになるならば、小説は無限に歴史に近づいてゆくか、あるひは一個の
架空の時点を設定するほかはない。そして後者への道には、抽象小説(寓話的な小説や風刺小説を含む)と、
戯曲との、二つしか残されてゐないのである。
カフカからアンチ・ロマンにいたる今世紀の異様な小説の系列は、現代小説を無限に歴史から遠ざけようとする
自己防衛の本能を暗示するものであらうし、小説を何とか純粋な自由意志の産物にするための困難な冒険で
あつたともいへよう。
一方、ピエエル・ルイスのいはゆる「煙草と小説を知らなかつた」古代ギリシャで、歴史文学は完全に歴史家の
手にこれをゆだねて、みごとな宿命論の枠組に押しこめられた劇文学のジャンルが、独立独歩してゐたやうに、
小説が決定論的思想に背反して、形式を失つた以上、ふたたび古代伝来の戯曲といふ純粋形式へ無限に近づく
ことが、もう一つ残された道であるかもしれない。しかしそれが小説の一種の自殺的行為であることには
かはりがないのである。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

326 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 17:23:52 ID:???
それからもう一つ、日本人だけにゆるされた現代小説の一方法に、冒頭に述べたやうな私小説の道があつて、
いかなる天変地異が起こらうが、世界が滅びようが、現在ただ今の自分の感覚上の純粋体験だけを信じ、これを
叙述するといふ行き方は、もしそれが梶井基次郎くらゐの詩的結晶を成就すれば、立派に現代小説の活路に
なりうると思はれるが、これにはさまざまな困難な条件があつて、それは私小説が身辺雑記にとどまることなく、
小説ジャンル全体の現代の運命を負うて、無限に「詩」へ近づくことでなければならない。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

327 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 23:56:40 ID:???
最初の特攻隊が比島に向つて出撃した。我々は近代的悲壮趣味の氾濫を巷に見、あるひは楽天的な神話引用の
讃美を街頭に聞いた。我々が逸早く直覚し祈つたものは何であつたか。我々には彼等の勲功を讃美する代りに、
彼等と共に祈願する術しか知らなかつた。彼等を対象とする代りに、彼等の傍に立たうとのみ努めた。
真の同時代人たるものゝ、それは権利であると思はれた。
特攻隊は一回にしては済まなかつた。それは二次、三次とくりかへされた。この時インテリゲンツの胸にのみ
真率な囁(ささや)きがあつたのを我々は知つてゐる。「一度ならよい。二度三度とつゞいては耐へられない。
もう止めてくれ」と。我々が久しくその乳臭から脱却すべく努力を続けて来た古風な幼拙なヒューマニズムが
こゝへ来て擡頭したのは何故であらうか。我々はこれを重要な瞬間と考へる。人間の本能的な好悪の感情に、
ヒューマニズムがある尤もらしい口実を与へるものにすぎないなら、それは倫理学の末裔と等しく、
無意味にして有害でさへあるであらう。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

328 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 23:56:53 ID:???
しかし一切の価値判断を超越して、人間性の峻烈な発作を促す動力因は正統に存在せねばならない。
誤解してはならない。国家の最高目的に対する客観的批判ではなく、その最高目的と人間性の発動に矛盾を
生ずる時、既に道義はなく、道徳は失はれることを云はんとするのである。人間性の発動は、戦争努力と同じ
強さを以て執拗に維持され、その外見上の「弱さ」を脱却せねばならない。この良き意思を欠く国民の前には
報いが落ちるであらう。即ち耐ふべきものを敢て耐ふることを止め、それと妥協し狎(な)れその深き義務より
卑怯に遁(のが)れんとする者には報いが到来するであらう。
我々が中世の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に
対して早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から
目を覆ひ、国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を
声高に叫び、彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒涜の語を放ち出した。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

329 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 23:57:07 ID:???
彼等は戦術と称して神の座と称号を奪つた。彼等は特攻隊の精神をジャアナリズムによつて様式化して安堵し、
その効能を疑ひ、恰(あた)かも将棋の駒を動かすやうに特攻隊数千を動かす処の新戦術を、いとも明朗に
謳歌したのである。沖縄死守を失敗に終らしめたのはこの種の道義的弛緩、人間性の義務の不履行であつた。
我々は自らに憤り、又世人に憤つたのである。しかしこの唯一無二の機会をすら真の根本的反省にまで
持ち来らすに至らなかつた。
軈(やが)て本土決戦が云々され、はじめて特攻隊は日常化されんとした。凡ての失望をありあまるほど
もちながら、自己への失望のみをもたない人々が、かゝる哀切な問題に直面したことには一片の皮肉がある。
我々は現在現存の刹那々々に我々をして態度決定せしめる生と死の問題に対して尚目覚むるところがなかつた。
もし我々に死が訪れたならそれは無生物の死であつたであらう。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

330 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 23:57:35 ID:???
(中略)
沖縄の失陥によつて、その後の末世の極限を思はしむる大空襲のさなかで、我々がはじめて身近く考へ
目賭(もくと)したのは「神国」の二字であつた。我々には神国といふ空前絶後の一理念が明確に把握され
つゝあるが如く直感されたのである。危機の意識がたゞその意識のみを意味するものなら、それは何者をも
招来せぬであらう。たゞ幸ひにも、人間の意識とは、その輪廓以外にあるものを朧ろげに知ることをも包含する
のである。意識内容はむしろネガティヴであり、意識なる作用そのものがポジティヴであると説明して
よからうと思はれる。それは又、人間性の本質的な霊的な叡智――神である。(中略)
我々が切なる祈願の裏に「神国」を意識しつゝあつた頃、戦争終結の交渉は進められてあり、人類史上その
惨禍たとふるものなき原子爆弾は広島市に投弾されソヴィエト政府は戦を宣するに至つた。かくて八月十五日
正午、異例なるかな、聖上御親(おんみづか)ら玉音をラヂオに響かし給うたのである。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

331 :名無しさん@また挑戦:2010/09/20(月) 23:57:49 ID:???
「五内(ごだい)為に裂く」と仰せられ、「爾(なんぢ)臣民と共に在り」と仰せらるゝ。我々は再び我々の
帰るべき唯一無二の道が拓(ひら)くるを見、我々が懐郷の歌を心の底より歌ひ上ぐるべき礎が成るのを見た。
我々はこの敗戦に対して、人間的な悲喜哀歓喜怒哀楽を超えたる感情を以てしか形容しえざるものを感ずる。
この至尊の玉音にこたへるべく、人間の絞り出す哭泣の声のいかに貧しくも小さいことか。人間の悲しみが
いかに同じ範疇を戸惑ひしてうろつくにすぎぬことか。我々はすでにヒューマニズムの不可欠の力を見たが、
これによつて超越せられたる一切の価値判断は、至尊の玉音に於て綜合せられ、その帰趨(きすう)を
得るであらうと信ずる。人間性の練磨に努めざりし者が、超人間性の愛の前に、その罪を謝することさへ
忘れ果てて泣くのである。この刹那我等はかへりみて自己が神であるのを知つたであらう。人間性はその限界の
極小に於て最高最大たりうることを。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

332 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 00:00:02 ID:???
(中略)
けふ八月十九日の報道によれば、参内されたる東久邇宮に陛下は左の如く御下命あつた由承る。
「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも
即刻撤廃せよ」
かくの如きは未だ嘗て大御心(おほみこころ)より出でさせたまひし御命令としてその例を見ざる処である。
この刹那、わが国体は本然の相にかへり、懐かしき賀歌の時代、延喜帝醍醐帝の御代の如き君臣相和す
天皇御親政の世に還つたと拝察せられる。黎明(れいめい)はこゝにその最初の一閃を放つたのである。(中略)
青年の奮起、沈着、その高貴並びなき精神の保持への要請が今より急なる時はない。
ますらをぶりは一旦内心に沈潜浄化せしめられ、文化建設復興の原力として、たわやめぶりを練磨し、
なよ竹のみさを持せんと力(つと)めることこそ、わが悠久の文学史が、不断に教へるところではあるまいか。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

333 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 00:07:47 ID:???
少なくとも私の育つてきた時代には、「鴎外がわかる」といふことが、文学上の趣味(グウ)の目安になつて
をり、漱石はもちろん大文豪ではあるが、鴎外よりもずつとわかりやすい、「より通俗な」ものと考へられて
ゐたのである。
「わかりやすいものは通俗だ」といふ考へが、いかに永い間、日本の知識人の頭を占めて来たかを思ふと、
この固定観念が全く若い世代から払拭された今、かれらが鴎外を捨てて漱石へ赴くのは、自然な勢ひだとも
いへるのだが、しかし、鴎外が本当に「わかりにくいか」といふ問題には、前述のやうな鴎外伝説、鴎外の
神秘化の力が作用してゐて、一概には言へない。鴎外は、明治以来今日にいたるまで、明晰派の最高峰なのである。

三島由紀夫「作家論 森鴎外(解説 日本の文学)」より

334 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 00:08:00 ID:???
再び問ふ。森鴎外とは何か?
あらゆる鴎外伝説が衰亡した今、私にとつては、この問ひかけが、一番の緊急事に思はれる。
もちろん、綜合的人格「全人」としての鴎外を評価することは重要である。しかしすべての伝説が死に、
知識の神としての畏怖が衰へた今こそ、鴎外の文学そのものの美が、(必ずしも多数者によつて迎へられずとも)
純粋に鮮明にかがやきだす筈だと思はれる。

三島由紀夫「作家論 森鴎外(解説 日本の文学)」より

335 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 00:08:13 ID:???
鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの盲目的崇拝を失つた今、言葉の芸術家として真に復活すべき
人なのだ。言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創り上げてしまつたその天才を称揚すべき
なのだ。どんな時代にならうと、文学が、気品乃至品格といふ点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく
近代一の気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な檜のみで
築かれた建築のやうに、一つの建築的精華なのだ。現在われわれの身のまはりにある、粗雑な、ゴミゴミした、
無神経な、冗長な、甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代もいつかは愛想を
尽かし、見るのもイヤになる時が来るにちがひない。人間の趣味は、どんな人でも、必ず洗練へ向つて進む
ものだからだ。そのとき彼らは鴎外の美を再発見し、「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがひない。

三島由紀夫「作家論 森鴎外(解説 日本の文学)」より

336 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 10:43:36 ID:???
ベラフォンテがどんなにすばらしいかは、舞台を見なければ、本当のところはわからない。ここには熱帯の
太陽があり、カリブ海の貿易風があり、ドレイたちの悲痛な歴史があり、力と陽気さと同時に繊細さと悲哀があり、
素朴な人間の魂のありのままの表示がある。そして舞台の上のベラフォンテは、まさしく太陽のやうにかがやいてゐる。
彼は褐色のアポロであつて、大ていの白人女性が彼の前に拝跪するのも、むべなるかなと思はせる。
ベラフォンテには、衰弱したところが一つもない。それでゐて、ソクソクとせまる悲しみと叙情がある。
これは、言葉は悪いが「ドレイ芸術」とでもいふべきものの神髄で、たとへば「バナナ・ボート」で、彼が
悲痛な声をふるつて「デオ、ミゼデオ」と叫び歌つて、強い声がハタと中空に途切れるとき、そのあとの間に、
われわれは、力の悲哀といふやうなものを感じ、はりつめた筋肉からとび散る汗のやうなものを感じ……これらの
激しい労働を冷然とながめおろしてゐる植民地の港の朝空のひろがりまでも完全に感じとる。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

337 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 10:46:32 ID:???
歌はれる歌には、リフレインが多い。全編ほとんどリフレインといふやうな歌がある。これは民謡的特色だが、
同時に呪術的特色でもある。わづかなバリエーションを伴ひながら「夏はもうあらかた過ぎた」(ダーン・
レイド・アラウンド)とか「夜ごと日の沈むとき」(スザンヌ)とかいふ詩句が、彼の甘いしはがれた声で、
何度となくくりかへされると、われわれは、ベラフォンテの特色である、暗い粘つこい叙情の中へ、だんだんに
ひき入れられる。声が褐色の幅広いリボンのやうにひらめく。われわれは、もうその声のほかには、世界中に
何も聞かないのである。
西印度諸島の黒人の声には、何といふ繊細さがあるのだらう、と私は、たびたびおどろかされたものだ。
黒人の皮膚のあの冷たいキメの細かさと、この繊細さとは、何か関係があるにちがひない。そして、あんな
激しい太陽と海風にさらされては、繊細な魂は、暗い涼しい体内の深部へ逃げ隠れ、わづかに声帯のすき間から、
外界をのぞかうとするのかもしれない。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

338 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 10:50:46 ID:???
ベラフォンテの舞台を見た人なら、だれでも首肯すると思はれるのは、その強烈な官能性である。彼もまた、
十分演出にそれを意識してゐると思はれる。けがれのない、素朴な、健康なエロティシズムの表現において、
もちろんその恵まれた外見に負ふところが多いとしても、彼ほどのボピュラー歌手は空前絶後であらう。
そしてその官能性が、詩にまで高まつてゐるのは、まさしく彼に黒人の血が流れてゐるからである。白人の男の
官能性とは散文的なものであり、いつたん昇華しなければ使ひものにならぬ。ベラフォンテの叙情は、カリブ海の
太陽の下のファロスの叙情である。しかもそれが海風に清められてゐるから、少しもきたならしくならないのである。
官能的な激しさにもかかはらず、彼の舞台が清潔なゆゑんである。私は第一部では「オール・マイ・トライアルス」の
美しい哀傷、「ク・ク・ル・ク・ク・パロマ」の逸楽、第二部では「さらばジャマイカ」の哀切な叙情、そして
有名な「バナナ・ボート」や、たのしい「ラ・バンバ」をことに愛する。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

339 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 20:08:01 ID:???
三島:日本人はアジアでも特殊な民族で、外来文明に対する抵抗力はいちばん強いと思う。肺結核の黴菌に
対しても、清浄な空気の田舎から出てきた人は非常にかかりやすく、都会でもまれて免疫になっている人は
かかりにくいのと同じで、日本は外来文化の吹きだまりと言われているぐらいなので、抵抗力はアジアでいちばん強い。
インド人は依然としてサリーを着ている。インド人は外来文化に対して立派に抵抗している。日本人の男は
似合いもしないセビロを着、女はドレスを着ている。
皮相な観測をする外国人は、日本人は無節操で外来文化に対する抵抗力がないというが、そんなことはない。
似合わないセビロを着ていられるから抵抗力があるのだ。そういう恰好ができないということは、逆にいえば
抵抗力がないということだ。ガンジーが糸車で抵抗したのはそれを知っていたからだ。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

340 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 20:08:15 ID:???
三島:トインビーが言っているように、東南アジアから近東地方にかけての西洋文明の侵略に抵抗しえたのは
ガンジーの糸車である。もし、たとえ小さな機械でも、あれを機械に変えていれば、堤に穴があいたように、
そこからどっと西洋文明が入って来る。そして社会が改革され、経済が改革され、西洋人が教えたとおりにやっていく。
現に東南アジア諸国は西洋をまねて革命を起こそうとしているが、日本はその点、いつもぐずらぐずらしている。
明治維新だってしようがないからやったんだ。のらりくらりで、相手を受け入れても抵抗力を失わない。
これは自信を持っていいと思う。冷蔵庫やテレビをおいても、もう一つの世界を持っていける力がある。
人生をフィクションにする力は、日本人の大きな力だ。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

341 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 20:08:30 ID:???
三島:アメリカ人をご覧なさい。アメリカ人は六つの頃からセビロを着て、死ぬまでセビロを着なければならない。
ほかに着るものがない。人生をフィクションにする部分は一つもない。教会に行ってもプロテスタントの教会だから、
カソリックと違って飾り物やお祭があるわけでもない。
その一生は、人生のフィクションを味わうものがなにもないから、じつにさびしいものだろう。そうだから、
日本の文化に見られる人間精神の、純粋な結晶に、憧れを感じる。日本人はそれをケロっとして持っている。
自信を持っていい。
千:私もそれを考えて、ある席で言ったことがある。日本人は模倣性が強いというが、そんなことは考えなくともよい。
無意識のうちに外にいるときは洋服、畳の上にいるときは着物を着る。衣食住に関しては、外国人ができないことを
平然としてやれる。ですから、こういう機械文明の時代になっても、茶室で静かに自分の境地をさがし出すこともできる。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

342 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 20:08:43 ID:???
編集者:(中略)お茶事は演出するもの、フィクションである。しかも、それは歌舞伎の「先代萩」とか
「菅原伝授」とか、たとえ俳優がかわっても繰り返してなんべんでもやれるというものではない。
だから一期一会……。
千:一期一会はお茶から出ているんだが、べつにお茶だけに限らなくともいいでしょう。人間はおたがいに
生活に追われているから、一日の一瞬間でも、ほんとうに心からとけあってお茶事を構成していこう、そういう
解釈でいいんじゃないですか。今日会えば二度と会えなくても満足だという真剣勝負のような気持、そういう
気魄は当然あるべきだと思う。ただ、それを押しつけては、おたがいに窮屈になってしまうけれど。
三島:最高の快楽というのはそういうもんじゃないか。
現在の一瞬間を最高に楽しむ。非常にストイックな快楽ということになりますね。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

343 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 20:08:56 ID:???
千:瞬間瞬間をいかに満足するか。お茶を出す亭主はどういうようにすればお客さんに喜んでもらえるか、また
客のほうは、どうすれば雰囲気のなかに溶け込んで、自分というものが亭主に快く受け入れられるかという
瞬間的なふれあい、それは今言われたように、最高の快楽、和・敬・清・寂というものだろうと思う。
三島:たいへん教養のあるアメリカの婦人が、日本にきて、北鎌倉のあるお寺に行ってそこの高僧に会った。
春で庭に梅の花が咲いていた。その人は日本語ができないので、おそるおそる座敷に入って、端近に座った。
やがて和尚さんが現われてニッコリした。彼女もなにもわからないがニッコリした。その瞬間、彼女はここで
死んでもいいと思ったそうです。これまで五十何年間生きてきたけれども、自分が死んでもいいと思った瞬間は
あのときがはじめてだといっていたが、ここに道を求むる人ありという感じでした。(笑)

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

344 :名無しさん@また挑戦:2010/09/21(火) 20:13:36 ID:???
三島:(中略)これは古い言葉ですが、伝統芸術というのはおしなべて「捨身飼虎」の精神がほしいと思う。
身を捨てるということは、現代ではセビロを着ること、テレビを見ること、洗濯機を使うこと、地下鉄を乗ること、
これが現代の捨身。お茶はほんとうにおそろしいものですよという位置まで高めるのが飼虎。そうしなければ
いけないと思う。いま歌舞伎や能の人のやっていることは、虎が檻から勝手に出てしまって、自分では虎を
飼っていない人が多い。そこで身を捨てないで、着物、羽織、袴をはいても、虎がいないのでは人の心をつかめない。
お客さんは檻のなかに虎がいないことを知っている。(中略)
編集者:…お茶は虎だというのは非常に大切だと思います。盲蛇におじずで、虎を猫だと思っている人が多いから、
猫じゃなくて虎だということを知らせるのは伝統を守るために必要なことでしょう。外人を茶室に入れたら、
キチッと坐らせて、猫じゃなく虎だと思わせることは非常に必要なことですね。
三島:ますますこれから必要でしょう。総理大臣までチョロチョロしている世の中で、日本の凜然たるものを
持っているのは伝統文化だけだということになるかもしれないですね。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

345 :名無しさん@また挑戦:2010/09/23(木) 15:32:09 ID:???
男のおしやれがはやつて、男性化粧品がよく売れ、床屋でマニキュアさせる男がふえた、といふことだが、
男が柔弱になるのは泰平の世の常であつて、大正時代にもポンペアン・クリームなどといふものを頬に塗つて、
薄化粧する男が多かつたし、江戸時代の春信の浮世絵なんかを見れば、男と女がまるで見分けがつかぬやうに
描かれてゐる。男が手や爪の美容に気をつかふのは、スペインの貴族の習慣で、そこでは手の美しい男で
なければ、女にもてなかつた。
私はこんな風潮一切がまちがつてゐると考へる人間である。男は粗衣によつてはじめて男性美を発揮できる。
ボロを着せてみて、はじめて男の値打がわかる、といふのが、男のおしやれの基本だと考へてゐる。

三島由紀夫「男のおしやれ」より

346 :名無しさん@また挑戦:2010/09/23(木) 15:32:26 ID:???
といふのは、男の魅力はあくまで剛健素朴にあるのであつて、それを引立たせるおしやれは、ボロであつても、
華美であつても、あくまで同じ値打同じ効果をもたらさなければならぬ。指環ひとつをとつてみても、節くれ
立つた、毛むくぢやらの指をしてゐてこそ、男の指環も引立つのだが、東洋人特有のスンナリした指の男が、

指環をはめてゐれば、いやらしいだけだ。
多少我田引水だが、日本の男のもつとも美しい服装は、剣道着だと私は考へてゐる。これこそ、素朴であつて、
しかも華美を兼ねてゐる。学生服をイカさない、といふのも、一部デザイナーの柔弱な偏見であつて、学生服が
ピタリと似合ふ学生でなければ、学生の値打はない。あれも素朴にして華美なる服装である。背広なんか犬に
喰はれてしまへ。世の中にこんなにみにくい、あほらしい服はない。商人服をありがたがつて着てゐる情ない
世界的風潮よ。タキシードも犬に喰はれてしまへ。私はタキシードの似合ふ日本人といふものを、ただの一人も
見たことがないのである。

三島由紀夫「男のおしやれ」より

347 :名無しさん@また挑戦:2010/09/24(金) 15:28:48 ID:???
現代の人間が、自分の良心の力だけで自己の魂にベルトを締めることができるかどうか。
人間は、目で見えるもの、なにか形のあるものに直面することによつて魂をゆすぶられるんです。
だからカトリックの荘厳な儀式、祭服、音楽、彫刻といつたものは大切です。ヒンズーも
同様だが、生きてゐる宗教とはそんなものなんですよ。


日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんな
あすこにあります。

三島由紀夫「インドの印象」より

348 :名無しさん@また挑戦:2010/09/25(土) 16:53:34 ID:???
オリンピックの非政治主義は、政治の観念の浄化と見るほかなく、政治を人間の心から全然払拭することはできまい。
(中略)
「オリンピック東京大会、第一日目を開始いたします」
といふアナウンスのあとで、登場したこの二人の試合は、アラブ連合がしばしばスリップダウンをし、韓国が
判定で勝つたが、判定を待つあひだ、レフェリーを央にして、選手が二人直立して正面に向つてゐた姿は、
プロ・ボクシングを見馴れた目には、すがすがしく、気持がよかつた。
これで最初の日の勝敗が決まつたのであるが、韓国選手の謙虚な勝利者としての表情と共に、アラブ連合選手の
心を思つて、私はシャルル・ビルドラックの「兵卒の歌」の最後の聯を思ひ出して、一種の羨望を感じた。
「私は、むしろ私はなりたい、
戦争の第一日目に
第一に倒れた兵卒に。」(堀口大学氏訳)

三島由紀夫「競技初日の風景――ボクシングを見て」より

349 :名無しさん@また挑戦:2010/09/25(土) 16:57:20 ID:???
何といふ静かな、おそろしいサスペンス劇だらう。(中略)
もちろん選手がバーベルを高くさしあげたときの感動もさることながら、私は、いよいよバーベルにとりつく前の
選手の緊張に興味があつた。多少ともウエート・トレーニングをした人間には、この瞬間の恐怖と逡巡がわかるはずだ。
韓国のキン・ヘナム選手は必ずバーベルのぐあひをたんねんにしらべ、ポーランドのコズロスキー選手は、
手をかけてから長いこと腕の筋肉をふるはせ、日本の三宅選手は相撲の仕切りのやうに長い時間をかけて、
何度か天を仰いだ。
これはおのおのの就寝儀式のやうなものであつて、それをやらなければ安眠できない。ひとたび眠ることが
できれば、完全に眠ることができれば、眠りの中では、丸ビルを持ち上げることだつて可能だらう。精神集中の
究極の果てに、一つの自由な空白状態がポカリと顔を出すのだらう。そのとき力が、おそらく常の人間の能力を
超えるのだらう。

三島由紀夫「ジワジワしたスリル――重量あげ」より

350 :名無しさん@また挑戦:2010/09/25(土) 17:00:04 ID:???
地球を負ふアトラスの忍苦に似た、あくまで押へに押へぬいた努力のいるこのスポーツは、たしかに日本人の
一面に適してゐる。三宅選手は、リングの上ではむしろのんきに見え、豪放に見えるが、こんなに綿密な力の
計算を積み上げてゆくには、青空の下のスポーツとちがつて、研究室の中の科学者みたいな内向的な長い努力が
いつたはずだ。彼は金メダルを本当に計算づくでとつたのだと思ふ。鉄のバーベルの暗い、やりきれない、
うつたうしい圧力と戦ひながら。
(中略)
金メダルを受けた三宅選手は、実に自然なほほゑましい態度で、そのメダルを観衆の方へかかげて見せた。
彼はそのとき、あの合計397.5キロの鉄の全量に比べて、金のたよりない軽さを感じたかもしれない。
美麗のその黄金の羽根のやうな軽さを。

三島由紀夫「ジワジワしたスリル――重量あげ」より

351 :名無しさん@また挑戦:2010/09/25(土) 17:05:40 ID:???
体操でも、この飛び板飛び込みでも、落下のほんの瞬間に、人体が地球の引力に抗して見せるあの複雑な美技には、
ほとほと感嘆のほかはない。あの落下の一秒の間に、花もやうを描いてみせるその人間意志のふしぎな働きと
その自己統制力は、自然(引力)へのもつとも皮肉な反抗であり、犬が人間にじやれつくやうに人間がきびしい
自然にじやれつく最高の戯れだらう。(中略)
重量あげなどの、ジワジワと胸をしめつけるドラマチックな競技とちがつて、水泳競技は、単純なまつすぐな
人間意志の推進力を、美しくさはやかに見せるだけだから、その印象はひたすら直截で、ドラマといふより、青いプールを縦に切る
あの白いロープのやうに、一行の激しい白い叙情詩だ。(中略)
ガウンを脱ぎ捨てて黒い水着姿になつた彼女は、その強靭な、小麦色の体躯に、こまかいバネがいつぱい
はりつめてゐるやうな感じで、それはただ一人決勝に残つた日本女性の、しなやかな女竹のやうな姿絵になつた。

三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より

352 :名無しさん@また挑戦:2010/09/25(土) 17:08:12 ID:???
田中嬢が泳ぎはじめる。もうあと一分あまりの時間ですべての片がつく。彼女は長い長い練習の水路をとほつて、
ここにやつとたどりついた一艘の黒い快速船になる。水しぶきの列のなかで帰路、彼女の水しぶきは少し傾いて、
ともするとロープにふれる。……(中略)
泳ぎ終つた田中嬢は、コースに戻つて、しばらくロープにつかまつてゐたが、また一人、だれよりも遠く、
のびやかに泳ぎだした。コースの半ばまで泳いで行つた。その孤独な姿は、ある意味ですばらしくぜいたくに見えた。
全力を尽くしたのちに、一万余の観衆の目の前で、こんなにしみじみと、こんなに心ゆくまで描いてみせる
彼女の孤独。この孤独は全く彼女一人のもので、もうだれの重荷もその肩にはかかつてゐない。一億国民の
重みもかかつてゐない。
田中嬢は惜しくも四位になつたが、そのときすでに彼女はそれを知つてゐたにちがひない。

三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より

353 :名無しさん@また挑戦:2010/09/25(土) 17:14:24 ID:???
体操といふものに、私は格別の興味を持つてゐる。それは美と力との接点であり、芸術とスポーツの接点だからである。
ほかのスポーツのやうに、芸術の岸から見て完全に対岸にあるものでない。
(中略)
はいつていきなり遠藤選手の床運動(徒手)を見たが、ひろいマットの上の空間に、ジョキジョキよく切れる
鋏を入れて、まつ白な切断面を次々に作つてゆくやうな美技にあきれた。私たちはふだん、自分の肉体の
まはりの空間を、どんよりと眠らせてはふつておくのと同じことだ。
あんなに直線的に、鮮やかに、空間を裁断してゆく人間の肉体、全身のどの隅々にまでも、バランスと秩序を
与へつづけ、どの瞬間にもそれを崩さずに、思ひ切つた放埒を演ずる肉体。……全く体操の美技を見ると、
人間はたしかに昔、神だつたのだらうといふ気がする。といふのは、選手が跳んだり、宙返りしたりした空間は、
全く彼の支配下にあるやうに見え、選手が演技を終つて静止したあとも、彼が全身で切り抜いてきた白い空間は、
まだピリピリと慄へて、彼に属してゐるやうに見えるからだ。

三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点――体操の練習風景」より

354 :名無しさん@また挑戦:2010/09/25(土) 17:17:00 ID:???
(中略)スポーツの奇蹟は、人間の肉体といふものが、鍛へやうによつては、どんな思ひがけないところに、
どんな思ひがけない楽園を発見するかわからないといふ点だ。常人の知らない別世界の感覚の発見……。
酒や阿片とは反対のものだが、スポーツがやめられなくなるのは、やはりそれがあるからであらう。
(中略)
さつき神のやうだつた選手は、かうして会つてみると、風貌、態度のどこにも人間離れのしたところはない。
むしろ休息時の選手の顔に浮んでゐるその平均的日本人の日常的表情と、あの神業との間をつなぐ、
「練習」といふ苛酷な見えない鎖が感じられる。それは神と人間をむりやりに結びつける神聖な鎖なのだ。

三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点――体操の練習風景」より

355 :名無しさん@また挑戦:2010/09/26(日) 14:49:29 ID:???
三島由紀夫が自らの生命を賭けて反対した思想の重要な側面は、この、手続きさえ合っていれば、その政策や行動の内容は問わないという、敗戦後のわが国の文化風土だったのではないか。
彼の目に、それは思想的退廃としか映らなかったのである。
…しかし、多くのメディアや芸術家は、彼の行動の華々しさや烈しさに目を奪われて、それを右翼的な暴発としか見なかった。

辻井喬
「叙情と闘争」(読売新聞連載回顧録)より


356 :名無しさん@また挑戦:2010/09/26(日) 14:49:42 ID:???
「私はかねがねこの問題について言ってゐるやうに、文学を生の原理、無倫理の原理、無責任の原理と規定し、行動を死の原理、責任の原理、道徳の原理と規定してゐる。」
三島由紀夫

これは、「文学とは何か」という重要な主張でもある訳ですが、事実、三島さんの文学には倫理や道徳を侵すことをテーマにした作品が多いことはよく知られています。
その一方で、楯の会の制服を私の会社に注文した時の生真面目な態度にも表れているように、現実の行動においては極めて倫理的、道徳的であったことも、三島さんをよく知る人々の間では、つとに知られていました。

辻井喬


357 :名無しさん@また挑戦:2010/09/26(日) 14:49:54 ID:???
「私の考へる革新とは、徹底的な論理性を政治に対して厳しく要求すると共に、一方、民族的心性(ゲミュート)の非論理性非合理性は文化の母胎であるから…(中略)
この非論理性非合理性の源泉を、天皇概念に集中することであつた。
かくて、国家におけるロゴスとエトスははつきり両分され、後者すなはち文化概念としての天皇が、革新の原理になるのである。」

三島由紀夫


358 :名無しさん@また挑戦:2010/09/26(日) 14:50:05 ID:???
ここで「文化概念としての天皇」という三島さんの有名な主張について触れている訳ですが、これで明らかなように、三島さんはある意味では「革新派」であったともいえる。
ただそれは、東西冷戦期に東側が言っていたような意味での革新ではもちろんない。
そして天皇を革新の原理とするという主張に注目すると、二・二六事件の決起将校たちの思想的な指導者であった北一輝も同じようなことを言っていたということに思いあたります。
つまり、北一輝が二・二六事件の決起将校たちとともに天皇の命令というかたちで処刑された時から、日本の国の有り様は、三島さんの考えるものとは、実は全く異なる性質のものになってしまっていたのです。

辻井喬


359 :名無しさん@また挑戦:2010/09/26(日) 14:50:19 ID:???
以上で明らかなように、三島さんの言っていたことは、そもそも右翼か左翼かといったような単純な二元論で説明できるようなものではなく、どちらにも分類できない革新派であり、どちらにも分類できない民族派だったといえるのです。
しかし、その点がなかなか理解されないのは、新聞などのメディアでは、こういう「どちらにも分類できない概念」というものは扱うのに困るらしくて、ほとんど活字などで解説されることがないということに原因があるのです。
そして、時間がたつにつれて、どんどんどんどん問題が単純化されて、一般の理解は益々三島さんの言っていたことの本質から遠ざかってしまっていると思われるのです。

辻井喬


360 :名無しさん@また挑戦:2010/09/26(日) 14:53:15 ID:???
介錯に使われた刀は、ご存知のように「関の孫六」でした。書店の御主人の舩坂弘さんから寄贈されたものです。
そのため、舩坂さんは警察に呼ばれたわけですが、そのときもう一度実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて、二度と抜けないようになっていたそうです。
これはいったい、何のためなのか警察でも見当がつかなかったようです。ところが、その後の調べで、倅の周到な処置であることが判りました。

平岡梓


361 :名無しさん@また挑戦:2010/09/26(日) 14:53:28 ID:???
というのは、こういうことです。倅は死ぬのは自分一人で足りる、決して道づれは許されない、ましてや森田必勝君には意中の人がいるのを察し、彼の死の申し出を頑強に拒否し続けて来た。
しかし、森田君はどうしても承知せず、結局、あんなお気の毒な結果になってしまったのです。
そして、森田君の希望により倅の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、かねてから介錯のやり方を研究していた倅の眼から見ると、森田君の剣道の技倆はおぼつかないと見てとったのでしょう。
かんじんのとき、万一にも柄が抜けることのないよう、ああした処置をして彼に手渡したのだそうです。まことに用意周到をきわめたものです。
自分自身が割腹に使用したのは、かねて用意の鎧通しでした。

平岡梓


362 :名無しさん@また挑戦:2010/09/26(日) 16:14:21 ID:???
今日のハイライトである百メートルの決勝がはじまる。(中略)選手たちがスタート・ラインについた。
それから何が起つたか、私にはもうわからない。紺のシャツに漆黒な体のヘイズは、さつきたしかにスタート・
ラインにゐたが、今はもうテープを切つて彼方にゐる。10秒フラットの記録。その間にたしかに私の目の前を、
黒い炎のやうに疾走するものがあつた。しかも、その一瞬に目に焼きついた姿は、飛んでもゐず、ころがりもせず、
人間の肉体の中心から四方へさしのべた車輪の矢のやうな、その四肢を正確に動かして、正しく「人間が走つて
ゐる姿」をとつてゐた。その複雑な厄介な形が、百メートルの空間を、どうしてああも、神速に駆け抜けることが
できるのだらう。彼は空間の壁抜けをやつてのけたのだ。
しかし、十秒間の一瞬一瞬のそのむしろ静的な「走る男」の形ほど、金メダルの浮彫の形にふさはしいものはなかつた。

三島由紀夫「空間の壁抜け男――陸上競技」より

363 :名無しさん@また挑戦:2010/09/26(日) 16:48:07 ID:???
スタート台の上で、一コースの選手をチラと見てから、手首を振る。両手を楽に前へさしのべたフォームで、
柔らかに飛び込む。競技はこんなふうに、どんな会社よりも事務的にはじまるのだ。
水が佐々木の体を包んだ。それから先は、彼はもう重い水と時間と距離とを、一心に自分のうしろへかきのけて
ゆくしかない。
高い席からながめてゐると、八つのコースの選手たちの立てる音は、さわさわといふ笹の葉鳴りのやうな水音に
すぎない。ひるがへる腕は、みんな同じ角度で、褐色のふしぎな旗のやうに波間にひらめく。
――四百メートル。
佐々木は大分引き離された。ターンするところで、あと残つてゐる回数の札を示される。その大きなあきらかな
数字は、おそらく水にぬれた目に、水しぶきのむかうに、嘲笑的に歪んで映るのだらう。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より

364 :名無しさん@また挑戦:2010/09/26(日) 16:50:37 ID:???
出発点の水にぬれたコンクリートの上には、選手たちの椅子が散らばつてゐる。佐々木の椅子には、赤いシャツと、
足もとの白い運動靴とが、かなたに水しぶきを上げて戦つてゐる主人の帰りを、忠犬のやうにひつそりと待つてゐる。
これらの椅子のずつとうしろには、記録員たちが控へ、さらに後方に、今日はすでに用ずみの飛込用プールが、
いま水の立ちさわぐメーン・プールとは正に対照的に、どろんとしたコバルト・グリーンの水をたたへてゐる。(中略)
出発点へ選手が近づくたびに、大ぜいの記録員たちはおのがじし立ち上り、ぶらぶらと水ぎはへ近寄り、
スプリット・タイム(途中時間)を記録し、また、だるさうに席へ戻る。必死で泳いでゐる選手と記録員とは、
こんなふうにして、十五回も水ぎはで顔を合せるわけだ。そのときほど、この世の行為者と記録者の役割、
主観的な人間と客観的な人間の役割が、絶妙な対照を示しながら、相接近する瞬間もあるまい。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より

365 :名無しさん@また挑戦:2010/09/26(日) 16:55:06 ID:???
――千メートル。
オーストラリアのウィンドル、11分16秒3といふ途中時間のアナウンス。
千五十メートルのところで、あと九回といふ9の札が示される。
佐々木はひたすら泳ぐ。水に隠見する顔は赤らんでみえる。あの苦しげな、目をつぶり口をあいた顔、あの
ぬれた顔、ぬれた額の中に、どんな思念がひそんでゐるか? あんな最中にも、人間は思考をやめないのは
確実なことで「ただ夢中だつた」などといふのは、嘘だと私は思ふ。それこそ人間といふ動物の神秘なのだ。
たとへそれが、一点の、小さな炎のやうな思念であらうとも。
最後の百メートル。真鍮の鈴が鳴らされ、選手はラスト・スパートをかける。
佐々木は六位だつた。平然と上げてゐる顔を手のひらで大まかにぬぐひ、出発の時と同様、左の手首をちよつと振つた。
それが彼の長い旅からの、無表情な帰来の合図だつた。この若者はまた明日、旅の苦痛を忘れて、つぎの新しい
旅へ出るだらう。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より

366 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 11:27:00 ID:???
体操ほどスポーツと芸術のまさに波打ちぎはにあるものがあらうか? そこではスポーツの海と芸術の陸とが、
微妙に交はり合ひ、犯し合つてゐる。満潮のときスポーツだつたものが、干潮のときは芸術となる。そして
あらゆるスポーツのうちで、形(フォーム)が形自体の価値を強めれば強めるほど芸術に近づく。どんなに
美しいフォームでも、速さのためとか高さのための、有効性の点から評価されるスポーツは、まだ単にスポーツの
域にとどまつてゐる。しかし体操では、形は形それ自体のために重要なのだ。これを裏からいへば、芸術の本質は
結局形に帰着するといふことの、体操はそのみごとな逆証明だ。
十月二十日の夜、東京体育館の記者席から、まばゆい光りの下、マット上に展開される各国選手の、人間わざとも
思へぬ美技をながめながら、私はそんな感想を抱いた。

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より

367 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 11:30:38 ID:???
双眼鏡で遠い鉄棒の演技をながめてゐると、手を逆に持ちかへるときに、掌にいつぱいまぶしたすべりどめの
粉がパッと散る。それは人体が描く虚空の花の花粉である。徒手体操では、人体が白い鋏のやうに大きくひらき、
空中から飛んできて、白い蝶みたいに羽根を立てて休み……ともかく、われわれの体が、さびついた
蝶番(てふつがひ)の、少ししか開かないドアならば、体操選手の体は、回転ドアのやうなものだ。そして、
極度の柔らかさから極度の緊張へ、空虚から突然の充実へ、力は自在に変転して、とどまるところを知らない。
もつともバランスと力を要する演技が、もつとも優美な静かな形で示される。そのとき、われわれは、
肉体といふよりも、人間の精神が演じる無上の形を見る。
ポオル・ヴァレリーが「魂と舞踊」の中で、肉体が「魂の普遍性を真似ようとするのだ」と書いてゐるのは、
この瞬間であらう。(中略)

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より

368 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 11:33:34 ID:???
小野は徒手で、遠藤はあん馬で、見のがしえぬミスをやつたが、実際、人間なら、あやまちを犯すはうがふつうで、
あやまちを犯さないのは人間ではない。それらのミスにこそ、むしろわれわれと共通した人間の日常感覚が
ひらめいてゐる。ほんのちよつとよろめくこと、ちよつと姿勢が傾くこと、ほんのちよつと足があん馬に
さはること、ほんのちよつと演技の流れが停滞すること……これこそわれわれが「人間性」と呼んでゐるところの
もので、半神であることを要求される体操競技では、人間性を示したら、たちまち減点されるのである。
この世に、ほんの数秒の間であらうと、真のあやまりのない秩序を実現するのはたいへんなことだ。体操選手たちは、
その秩序を、少なくとも政治や経済よりはるかに純度の高い形で、人間世界へもたらすために努力する。

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より

369 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 11:35:41 ID:???
遠藤選手のあん馬のあとで、十数分のものいひがついたあと、五月人形のやうな無邪気な顔と体をした三栗選手が
登場して、おちついた、正しい演技を示して九・六五をとつたのには感服した。
小野選手の右肩の負傷にめげぬ敢闘にも心を搏たれ、同じ三十代の私は、年齢と肉体のハンディキャップを
越えたその闘志に拍手を送つた。練習時間のあひだから、鉄棒は彼の肩を冷酷に責めてゐた。そのとき肩は、
彼の目ざす秩序の敵になり、敵軍に身を売つたスパイのやうに彼を内部から苦しめてゐた。
優勝者遠藤さへ、退場の際、心なしか暗い目をしてゐたのを考へると、体操選手を悩ます「完全性」の悪夢が、
どれほどすさまじいものであるかがうかがはれる。

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より

370 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 11:39:30 ID:???
選手たちの登場。宮本がそのすらりとしたからだと、栗鼠を思はせるかはいらしい顔で、機械人形のやうに
おじぎをする。
東側の選手家族席では、宮本のおとうさんがなくなつたおかあさんの大きな写真を膝に抱いて観戦してゐる。
練習がはじまる。お祭りの風船のやうに、たくさんのボールが空に浮ぶ。七時三十分。琴の音楽がはじまり、
いよいよ日本のアマゾンたちと、ソ連のアマゾンたちとの熱戦が開始される。
バレーボールの緊張は、ボールが激しくやりとりされるときのスリルにあることはいふまでもないが、高く
投げ上げられたボールが、空中にとどこほつてゐる時間もずいぶん長く感じられる。そのボールがゆつくりと
おりてくる間のなんともいへない間のびのした時間が、実はまたこの競技のサスペンスの強い要素なのだ。
ボールはそのとき、すべての束縛をのがれて、のんびりとした「運命の休止」をたのしんでゐるやうに見えるのである。

三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」より

371 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 11:42:02 ID:???
第一セットでやや堅くなつてゐた日本は、第二セットでははるかにソ連を引き離し、余裕のあるゲームを見せたが、
なかんづく目につくのは河西選手の冷静な姿である。
彼女が前衛に立つとき、水鳥の群れのなかで一等背の高い水鳥の指揮者のやうに、敵陣によく目をきかせ、
アップに結ひ上げた髪の乱れも見せず、冷静に敵の穴をねらつてゐる。ボールは必ず一応彼女の手に納まつたうへで、
軽くパスされて、ネットの端から、敵の盲点をつくやうに使はれる。
河西はすばらしいホステスで、多ぜいの客のどのグラスが空になつてゐるか、どの客がまだサラに首をつつこんで
ゐるかを、一瞬一瞬見分けて、配下の給仕たちに、ぬかりのないサービスを命ずるのである。ソ連はこんな
手痛い、よく行き届いた饗応にヘトヘトになつたのだつた。(中略)
――日本が勝ち、選手たちが抱き合つて泣いてゐるのを見たとき、私の胸にもこみ上げるものがあつたが、
これは生れてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である。

三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」より

372 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 17:37:32 ID:???
小説を書くというのは、ことばの世界で自分の信ずる「あすのない世界」を書くことですね。
そして、あすのない世界というのは、この現実にはありえない。戦争中はありえたかも
しれないけれども、今はありえない。今、われわれは、来週の水曜日に帝国ホテルで
会いましょうという約束をするでしょう。戦争中は、来週の水曜日に帝国ホテルで
会いましょうといったって、会えるか会えないか、空襲でもあればそれまでなんで、
その日になってみなきゃ、わからない。それが、つまりぼくの文学の原質なのですけれども、
今は、来週の水曜日、帝国ホテルで会えること、ほぼ確実ですよね。そして文学は、
ぼくのなかでは依然として、来週の水曜日、帝国ホテルで会えるかどうかわからない
という一点に、基準がある。それがぼくの、小説を書く根本原理です。ぼくは文学では、
そういう世界を、どうでも保っていくつもりです。それはぼくの悲劇理念なのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

373 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 17:37:48 ID:???
悲劇というのは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が
自分の負ったもの、自分に負わされたもの、そういうもの全部しょって、不可避性と必然性に
向かって進んでゆく。ところが現実生活は、必然性と不可避性をほとんど避けた形で
進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の社会では、とくに
そういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくても
いいんだということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。
そうするとわれわれも、ある程度、その法則に則って生活しなくては生きられないわけですから。
それで来週の水曜日、帝国ホテルで会うということについても、ある程度、迂回作戦を
とりながら、その現実に到達するために努力する。ところが、
芸術では、そんなことする必要はまったくないのですから、来週の水曜日、会えないところへ
しぼればいいわけですよね。ぼくにとっては、そういう世界が絶対、必要なのです。
それがなければぼくは、生きられない。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

374 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 17:38:01 ID:???
ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と
不可避性の意図が、ギリギリにしぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは
築く気がしない。それはぼくの構想力の問題であり、文体の問題でもあるんですが、
あるいは、法律を勉強したのが多少、役にたっているかもしれません。犯罪が起これば、
これは刑事事件ですから、そこで刑事訴訟のプロセスが進行するわけでしょ。これは完全に、
必然性と不可避性の意図のなかに人間をとじこめてしまいますからね。そういうものが
ぼくにとっては、ロマンティックな構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものは
みんな、演劇的なのです。わき目もふらず破滅に向かって突進するんですよね。そういう
人間だけが美しくて、わき目をするやつはみんな、愚物か、醜悪なんです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

375 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 17:38:15 ID:???
作家というのは、作品の原因でなくて、作品の結果ですからね。自己に不可避性を課したり、
必然性を課したりするのは、なかば、作品の結果です。ですけれども、そういう結果は、
ぼくはむしろ、自分の“運命”として甘受したほうがいいと思います。それを避けたりなんか
するよりも、むしろ、自分の望んだことなんですから……。生活が芸術の原理によって
規制されれば、芸術家として、こんな本望はない。
ぼくの生き方がいかに無為にみえようと、ばかばかしくみえようと、気違いじみてみえようと、
それはけっきょく、自分の作品が累積されたことからくる必然的な結果でしょう。ところが
それは、太宰治のような意味とは、違うわけです。ぼくは芸術と生活の法則を、完全に
分けて、出発したんだ。しかし、その芸術の結果が、生活にある必然を命ずれば、それは
実は芸術の結果ではなくて、運命なのだ。というふうに考える。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

376 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 17:38:39 ID:???
それはあたかも、戦争中、ぼくが運命というものを切実に感じたのと同じように、感ずる。
つまり、運命を清算するといいましょうか。そういうふうにしなければ、生きられない。
運命を感じてない人間なんて、ナメクジかナマコみたいに、気味が悪い。
…「新潮」の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の
二元論というものを、私がどういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて
書いている。日本でいちばん理解しにくい考えは、それなんですよね。それで、作品と
生活との相関関係ということが、私小説の根本理念ですから、その相関関係を断ち切ることは、
絶対できない。私の場合は、作品における告白ももちろん重要ですけれども、実は告白自体が
フィクションになる。作品の世界は、さっきも申し上げたように、かくあるべき人生の
姿ですからね。もし、自分が作品に影響されてかくあるべき人生を実現できれば、
こんないいことはないわけですけれども、逆にそうなれないというのが、人生でしょ。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

377 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 17:42:48 ID:???
そうなれないことが人生で、それでは、そうなれない人生をもっと問題にして、どうにも
ならんことを小説に書けばいいではないか、という考え方も出てくると思う。しかし、
ぼくは、それは絶対やりたくないですね。死んでも、やりたくない。そういうことを
書く作家というのが、きらいなのです。小島信夫の「抱擁家族」などというのは、
そうならない人生を一生懸命書いているわけです。そうなれない怨念を書くのが文学だとは、
ぼくは決して信じたくない。
文学というのは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じている。
告白といいますけれども、告白も、かくあるべきだ、こうなりたいんだ、けれども、
こうならなかったという、それを語るのが、告白であって、告白と願望との関係は、
ひと筋なわではゆかないと思いますよ。人はいつでも、告白するとき、うそをついて、
願望を織り込んでしまうと思うのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

378 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 17:43:05 ID:???
文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから
文学から、いつも逃げてなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように……。
それでも追っかけてくるのが、ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、
にせものの文学ですね。ぼくは作家というのは、生活のなかでにせものの文学に、ばかな女に
とり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。だって、ふり払ったことが
ないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駈けだしたときに、そのあとをデートリッヒみたいに、
はだしで追いかけてくる女は、ほんとうの女ですよ。ぼくはそれが、ほんとの文学だと
思います。ぼくの場合は、できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけて
きてくれる女がいる。それが、ぼくの文学です。その女に、やさしくしますよ。そのときに、
小説を書くわけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

379 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 17:43:22 ID:???
論理的能力を発見するなんて、昔は想像もしなかった。だから、人間って、あきらめないで
じっくりやっていれば、何か出てくるんだと思うのです。自慢じゃないですが、英語の会話が
できるようになったのは三十越してからですからね。それまで英語でしゃべれなかった。
アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。三十ごろになって、アメリカに
半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。人間の能力なんていうものは、
ほんとに、早く決めてしまうことないと思いますね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

380 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 17:43:36 ID:???
ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。
それが源泉ですね。その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。
ですから自由意志には、無限定な自由はないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤を
くりかえしますけれども、自由意志が源泉を発見した時に初めて、自由意志が、自由に
なるのだ、と思います。それまでは自由意志は、なにものかにとらわれていて、もっと
自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それが、ぼくは源泉だと思う。
ヘルダーリンの「帰郷(ハイムクンフト)」のいう、一種の恐ろしさですね。最も
なつかしいもので、最も恐ろしいものです。現代社会は、そういう、源泉に帰ることを
妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉からたえず遠ざかって、前へ、前へ、
上すべりしてゆくように、社会構造ができている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

381 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 17:43:50 ID:???
たとえば、テレビ、初め映りの悪いテレビ、それがまた、映りのいいテレビ、
カラー・テレビになる。現代社会は、その機械と同じことで、次々と、改良されたものは
与えられますけれども、改良された果てに何があるか、それはなにも与えないで、ぼくらを、
先へ、先へ、進めるでしょ。でもぼくらは、テレビより、もっと遠くみえるものがあるはずです、
いちばん前に。(中略)
テレビより、もっと遠くがみえるはずです。それから、人の心も、もっとよくみえるはずですし、
つまり、みたいと思うものは、百万里先だろうが、みなければならない。みえなくして
しまったのは、“文明”ですよね。ぼくはそう思います。(中略)
目ですね。ぼくは、源泉にはそれがあったはずだと思うのです、ぼくにだって。失っただけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

382 :名無しさん@また挑戦:2010/09/27(月) 17:45:26 ID:???
剣道なんかやってますと、(そんなこというほどの資格はぼくにありませんが)
“観世音の目”ということ、いいますね。全体をみなければいけない。相手の目を見たら、
負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら負けてしまう。そうではなくて、
“観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう目を鍛錬し、
養成することが、剣道の極意だといわれているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと
思います。それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、
ネコの寝た形が、ちゃんとできている。あれが、寝るということ、休むということの
本当の形なのですね。(中略)
ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが源泉なのですね。
それから、運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、
運動能力というのは本来、人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。
…源泉から遠ざかってしまっているわけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

383 :名無しさん@また挑戦:2010/09/29(水) 11:24:29 ID:???
硬派とは何ぞや?
第一に、それは紺絣(こんがすり)であり、高下駄であり、青春であり、暴力であり、
単純素朴であり、反社会性であり、小集団のヒエラルヒーであり、民族主義である。
さらに詳しく見てゆくと、そこではエモーショナルなものを、恋愛の代りに、政治が代表してゐると考へられる。
その東洋的な政治概念では、男性的な理想および男性的な人間関係のお手本として政治があり、その理想と
人間関係をつなぐ糸は、エモーショナリズムである。侠客が男なるとは、侠客道のエモーショナルな政治概念を、
わが身に体現することである。これらがあくまで恋愛とちがふ点は、恋愛のロマンチックな個性的主張とは
ちがつて、政治におけるエモーションは、自分を既成の理想型に従はせる情動だ、といふ点である。従つて
硬派は、あやまつて軟派的堕落に陥らぬかぎり、決して自己崩壊の憂目を見ることがない。

三島由紀夫「文学における硬派――日本文学の男性的原理」より

384 :名無しさん@また挑戦:2010/09/29(水) 11:27:55 ID:???
又、硬派では男性的表象が誇張されるが、この男性的原理の中心は、エモーションと力による政治であつて、
理論的知的政治概念はいはば無性のものとして、異性愛的情念は女性的なものとして斥けられる。
(中略)
私はごく大ざつぱに、右のやうな特色を列挙してみたのであるが、これらの諸要素の文学への類推を試みると、
思ひもかけない展望がひろがる。
硬派が持つてゐたやうな政治概念は、かつてのプロレタリア文学にも潜在してゐたし、その理論的知的なものの
排斥はまた、私小説の基盤であつた。硯友社を経、自然主義を過ぎて、われわれの近代小説の大勢を決した
「軟派的なもの」については、今日われわれは反吐が出るほど堪能してゐる有様だが、近代文学史に見えかくれ
して流れてゐる「硬派的なもの」については、ほとんど気づかれてゐない。むしろその点で、尾崎(士郎)氏や
林(房雄)氏は、近代日本人として稀な意識的な作家と云ひ得るのである。

三島由紀夫「文学における硬派――日本文学の男性的原理」より

385 :名無しさん@また挑戦:2010/09/29(水) 11:31:19 ID:???
恋愛の代りに政治を以て、文学のエモーショナルなものを代表させる遣口は、戦後文学の作家の或る者、
たとへば堀田善衞氏などに顕著であるが、氏がもつと硬派的に、知的理論的修飾を捨てたら、もつと純度の高い
文学を生むであらう。太宰治氏は硬派的エモーションを軟派的に誤用した結果、自己崩壊の憂目を見た。
かういふ例は、現代文学において実に枚挙にいとまがない。田中英光氏は自らのデスペレエトな力の弁護に、
民族的基底の助けを借りることができなかつた。石原慎太郎氏は自ら信じた男性的原理を、性愛の領域へ
誤用するとき一貫性を失ふ。阿部知二氏は理論的知的政治概念に縋(すが)つて、文学的に性を喪失する。
……これらの幾多の「硬派的なもの」の誤用の失敗(その最大の悲劇が横光利一氏であるが)を見ると、
谷崎潤一郎氏、川端康成氏の軟派の二大宗の、赫々たる成功が、今さらながら、日本文学伝統の女性的優雅の
強靭さを思はれるのである。

三島由紀夫「文学における硬派――日本文学の男性的原理」より

386 :名無しさん@また挑戦:2010/09/29(水) 11:34:41 ID:???
しかしここに面白いのは、硬派と軟派のただ一つの共通点があることで、それは理論的知的なものへの、日本人の
終始渝(かは)らぬ不信の念である。志賀直哉氏の文学が、一見硬派的に見えるのは、(実は氏の文学ほど
硬派から遠いものはないが)、この伝来の反理智主義の徹底性のためである。
近代文学の行き詰りの打破のためには、自らの中の硬派的要素の反省と発掘も、一つの必要な手続であると思ふ。
しかし硬派は硬派で、(少くとも一つの作品の中で)、首尾一貫してゐなければならない。硬派的一要素の
切り離した誤用、殊にその無意識の誤用ほど危険なものはないことは、右にあげた諸例からも明らかであらう。

三島由紀夫「文学における硬派――日本文学の男性的原理」より

387 :名無しさん@また挑戦:2010/09/29(水) 12:22:45 ID:???
法律構成は建築に似たところがある。音楽に似たところがある。戯曲に似たところがある。だから、小説の
方法論としては、構成的に厳格すぎるのであるが、私は軟体動物のやうな日本の小説がきらひなあまりに、
むしろかういふリゴリスム(厳格主義)を固執するやうになつた。私には形といふものがはつきり見えて
ゐなければつまらない。
したがつて私の小説は、訴訟や音楽と同じで、必ず暗示を含んでごくゆるやかにはじまり、はじめはモタモタして、
何をやつてゐるのかわからないやうにしておいて、徐々にクレシェンドになつて、最後のクライマックスへ
向かつてすべてを盛り上げる、といふ定石をふんでゐる。私にとつては、これがすべての芸術の基本型だと
思はれるので、この形をくづすことはイヤである。
かういふ私の性格は、残念なことに、毎回が短い連載形式には全く合はない。さういふ形式では最初の数回が
勝負であるのに、私は最初の数回で切札を見せるのがきらひだからである。

三島由紀夫「私の小説作法」より

388 :名無しさん@また挑戦:2010/09/29(水) 15:12:12 ID:???
この本は私の年来愛読してゐる本で、面白い個所は何度もくりかへし読んだが、特に右の(寅吉がわが身の
宿命について言ふ)一節は山人天狗をそのまま「芸術家」と置き換へて読むほどに興趣を増すのである。
わけても「山人天狗などは自由自在があるといふばかり」といふ一行は美しい。ここに語られた天狗道の無償性は、
なぜ天狗が存在するか、なぜ存在しなければならぬか、といふ根本義に触れてゐる。天狗は人間とちがつて
空を自由に飛行(ひぎやう)することができる。こちらの峰からあちらの峰へ、月下に千里を飛ぶこともできる。
しかもこの超自然的能力は、それ自体が幸福でなければならず、彼には何か、世間普通の幸福を味はふ能力が
欠けてゐるのである。
これを裏から言へば、「自由自在」は羨むべき能力かも知れないが、本来市民的幸福には属さない。それは
生活を快適にする能力ではなく、日常生活にとつては邪魔になるもので、むしろそれがあるために日常生活は
円滑を欠くであらう。

三島由紀夫「天狗道」より

389 :名無しさん@また挑戦:2010/09/29(水) 15:15:54 ID:???
自由自在は詩的概念であつて、市民的自由とは別物である。精神がそのやうな無償の自由を味はふといふことは、
辛うじて芸術にだけ許されてゐることで、一般社会では禁止されてゐる。
しかもこの魔的に自由な精神も、たえず「人間の幸福」を羨んでゐるのである。
天狗がこんなに自在であるにかかはらず、人間の生活に本当に感情移入ができず、「その道に入りて見」ることが
できないのは、ふしぎと言はねばならない。
相手方への完全な感情移入の不可能といふ点では、天狗も人間も同等同質なのであり、そこに相互の羨望が生れる。
私にとつては、天狗におけるこの「人間的」限界が甚だ興味がある。天狗はこの点では、「饗宴」篇中で
ディオティマの語るエロスに似てゐるのかもしれない。
天狗の自在な飛行は、もちろん天狗道の使命に従つて行はれるが、人間の目からはこの使命は見えず、従つて
飛行自体が戯れと見える。

三島由紀夫「天狗道」より

390 :名無しさん@また挑戦:2010/09/29(水) 15:19:48 ID:???
寅吉はなほ人間時代の記憶を留めてゐるから、その戯れを人間的倫理で以て考察しようとするが、「善事か
悪事か」さつぱり分からないのである。
人間は楽でいい、と言つて羨んでみせるときの天狗には、もちろん多大のエリート意識があるが、その
エリート意識を支へるものは、自在の飛行それ自体でなくて、日々種々の苦しい行である。これがなくては、
天狗はたちまち墜落して天狗でなくなる。
かくて天狗は、どうしても存在するために、日夜存在の努力を払ふ必要があり、このやうな存在学的努力は、
人間には本来不要なものである。
天狗にとつて人間は明らかに存在してゐるからであり、天狗のはうが分が悪いのは、或る人間たちにとつては
天狗は存在してゐる必要がないからである。

三島由紀夫「天狗道」より

391 :名無しさん@また挑戦:2010/09/29(水) 15:24:33 ID:???
ここにいたつて、天狗の存在の問題は、そのまま天狗の倫理になる。天狗にとつて、天狗はどうしても存在
しなければならない。それでなければ、天狗はマイノングのいはゆる存在外(アウセルザイン)にとどまるであらう。
そして天狗を存在せしめるものこそ、「日々種々」の苦しい行であり、その発現としての自在な飛行の戯れである。
後段の天狗たることの宿命について語られた一節では、その「我師」といふ一句に、川端康成氏の名を
当てはめたい誘惑にかられるが、それでは私も天狗の端くれを自ら名乗ることになつて、不遜のそしりを免れまい。
むしろ、目を泰西文学に放つて、たとへば「トニオ・クレエゲル」の美しく踊るハンスとインゲボルクの姿を、
暗いヴェランダから硝子ごしにじつと見つめてゐる奇怪なトニオの鼻――それは又作者トオマス・マンの鼻――が、
しらぬ間に長々と伸びて来て、他ならぬ天狗の鼻に変貌してゐたりするところを、想像してゐたはうが無事かも
しれない。

三島由紀夫「天狗道」より

392 :名無しさん@また挑戦:2010/10/01(金) 12:27:22 ID:???
刑事訴訟法は手続法であつて、刑事訴訟の手続を、ひどく論理的に厳密に組み立てたものである。それは何の
手続かといふと「証拠追究の手続」である。裁判が確定するまでは、被告はまだ犯人ではなく、容疑者にとどまる。
その容疑をとことんまで追ひつめ、しかも公平に審理して、のつぴきならぬ証拠を追究して、つひに犯人に
仕立てあげるわけである。
小説の場合は、この「証拠」を「主題」に置きかへれば、あとは全く同じだと私は考へた。小説の主題といふのは、
書き出す前も、書いてゐる間も、実は作者にはよくわかつてゐない。主題は意図とは別であつて、意図ならば、
書き出す前にも、作者は得々としやべることができる。そして意図どほりにならなくても傑作ができることがあり、
意図どほりになつても意図だふれの失敗作になることがある。

三島由紀夫「私の小説作法」より

393 :名無しさん@また挑戦:2010/10/01(金) 12:30:01 ID:???
主題はちがふ。主題はまづ仮定(容疑)から出発し、その正否は全く明らかでない。そしてこれを論理的に追ひつめ、
追ひつめしてゆけば、最後に、主題がポカリと現前するのである。そこで作品といふものは完全に完結し、
ちやんとした主題をそなへた完成品として存在するにいたる。つまり犯人が出来上がるのである。
(中略)
手続法は審理がわき道へそれて時間を食ふことを戒めてをり、いつもまつすぐにレールの上を走るやうに
規制されてゐる。私の考へる小説もさうであつて、したがつて私の小説には、およそわき道へそれた面白さ
といふやうなものがない。しかし、それは作家の性格であつて、一概に小説とはむだ話の面白味だなどといふのは
俗論である。

三島由紀夫「私の小説作法」より

394 :名無しさん@また挑戦:2010/10/01(金) 12:31:29 ID:???
法律構成は建築に似たところがある。音楽に似たところがある。戯曲に似たところがある。だから、小説の
方法論としては、構成的に厳格すぎるのであるが、私は軟体動物のやうな日本の小説がきらひなあまりに、
むしろかういふリゴリスム(厳格主義)を固執するやうになつた。私には形といふものがはつきり見えて
ゐなければつまらない。
したがつて私の小説は、訴訟や音楽と同じで、必ず暗示を含んでごくゆるやかにはじまり、はじめはモタモタして、
何をやつてゐるのかわからないやうにしておいて、徐々にクレシェンドになつて、最後のクライマックスへ
向かつてすべてを盛り上げる、といふ定石をふんでゐる。私にとつては、これがすべての芸術の基本型だと
思はれるので、この形をくづすことはイヤである。
かういふ私の性格は、残念なことに、毎回が短い連載形式には全く合はない。さういふ形式では最初の数回が
勝負であるのに、私は最初の数回で切札を見せるのがきらひだからである。

三島由紀夫「私の小説作法」より

395 :名無しさん@また挑戦:2010/10/01(金) 15:34:40 ID:???
私は「擬制の終焉」から、はつきりと吉本氏のファンの一人になつたが、読みながら一種の性的興奮を感じる
批評といふものは、めつたにあるものではない。読者は観念の闘牛場の観客の一人になつて、闘牛士のしなやかな
身のこなしと、猛牛の首から流れる血潮に恍惚とする。
本書に収められてゐる批評の傑作「丸山真男論」をはじめ、氏の批評には、認識の運動が逞しく働らいてつひには
赤裸々な現実の真姿が現はれてくるときのスリルが充満し、三文小説でイカモノの現実ばかりつかまされて
困つてゐる人は、吉本氏の著書を読むがいい。それでゐて、氏の批評には、かよわい美食家など到底及ばぬ
文学的グルメの犀利な味覚がひらめいてゐる。谷崎潤一郎の「風癲老人日記」の末尾のカナ文字日記体を、
長歌に対する反歌の役割だ、といふ卓見などそのほんの一例である。

三島由紀夫「吉本隆明著『模写と鏡』推薦文」より

396 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:18:07 ID:???
僕が心中物をデカダンスとしてでなく書かうとする気持にはこの根拠がある。
元禄期の近松西鶴の溌剌たる悲劇の精神(殊に前者の「堀河波鼓」後者の「好色一代女」の幻想)に僕は最も大きな共鳴を感じて書いた。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

397 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:18:21 ID:???
我々がある思ひ出から遁れようとすると、その思ひ出自身が我々をはなれて激しく生きようと試み出すのを見ることがある。
このやうな時我々の生きる意味はいやでも思ひ出のそれと一致して了ふ。そして我々の死の意味も。

僕の作品は、それを成立せしめた凡ての条件への仮借なき復讐である。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

398 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:18:38 ID:???
堀辰雄は僕にシンプルになれと云つた。
しかしシンプルにならうとしてそれに成功するなんて、さうおいそれと出来るものぢゃない。
第一氏が例に引いた立原道造も僕はあんまり尊敬してゐない、ましてや氏自身の素寒貧な小説――すぐ微熱が出たり、切なくなつたりする小説を書きたいと思はない。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

399 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:18:55 ID:???
作中の架空の事実と作者とどちらが不確定か?俗人は前者がさうだと考える。
そして目の前にある確実な「架空」はぼつぽり出して、血眼で不確かな、不必要な作者自身を作中から探り出さうとする。
この眼差が一部の批評家にも具つてゐることは驚異に値する事実だ。

三島由紀夫
21歳のノートから


400 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:19:10 ID:???
僕は詩人だ。一皮剥けば俗人だ。
もう一皮剥けば詩人だ。もう一皮剥けば俗人だ。
もう一皮剥けば詩人だ。ぼくはどこまで剥いても芯のない玉葱だ。

三島由紀夫
21歳のノートから


401 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:22:57 ID:???
私は一寸も苦心しないで文壇に出たとか、処女作を書いて忽ち認められたとか自慢げに書いてゐる作家をみると気の毒になる。
この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ。
こんなことをいふ作者に限つて真の独創性をこれつぽちも持つてゐない。
彼等は読者に抵抗しない。反抗しない。ジイドが十年間みとめられなかつた事実をもう少し考へてみる要はないか。

三島由紀夫
21歳のノートから


402 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:23:10 ID:???
新聞記事で「火の会」発足の報をきく。
馬鹿なことだ。その無理論性の主張もフランスでこそ意味があつた。
そもそも日本に文学上の主張の化物、個性そのものが独創的な主義になつたやうな偉大な文学者が出たか?
骨の髄までのリアリスト、ロマンチスト、自然主義者が出たか?主義とドグマで天地を一色(そう色)にぬりつぶすやうな作品が出たか?
さういふものゝ一流がはびこつて息が出来なくなつたフランスでこそ意味のあつた運動だ。
日本でこんなことをはじめるのは、風車の化物にとびかゝるドン・キホーテよりばからしい。
彼等は浮草中の浮草たらんことを企てるだらう。まことに結構な御志しだ。
しかしたゞフランス帰りが寄り集まつて「パリなつかし」の仁輪加芝居をはじめようとするなら御勝手だ。
彼等のことだから気の利いた芝居はみせるだらう。尤も代は見てのお戻りだ。

三島由紀夫
21歳のノートから


403 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:23:22 ID:???
川端氏の文学は近代小説の烙印を押された宿命的な古典の書である。

川端康成論(試論第一)
一、川端氏は抒情や感覚といふ低次な概念で総括さるべき作家ならず。
一、分析力と綜合力との矛盾せる競合、対象への背反
対象の前に行はれる作者自身の旋回、小説の可能性を最も豊かに感じさせると共に、小説の末期感をつきつめた仕事。
最後の仕事、天地創造(トルストイ*)の深い疲労に溢れた安息日(康成)
日常性の求める永遠の日曜日
*悪夢のやうな近代文学
一、川端氏とその作品の基底たる日常性の問題(旅― 孤児―)
日常性の抑圧と揚棄
川端康成=『生への嫉妬』

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

404 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:23:44 ID:???
正義と誠実によつて飾られる文人の一生と、背信行為によつて飾られる文人の一生がある。
川端氏は明らかに前者だが氏の正義的行為にはどこか不徳と背信の匂ひがしはすまいか。

川端氏のみる女は常に第三者に侵され第三者のために孕む。
これを孕ます人物に作者がかさなつてくると、作品の印象が単純化すると共に作者自身の男の影は稀薄になる。
(夕映少女の中年女)

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

405 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:24:23 ID:???
私にとつて技法的に影響をうける作家は長つづきせぬ。
精神的に影響をうける作家は長つづきする。
川端さんとリラダンとが私にとつてそれだ。
しかもリラダンは殆んどよんでゐない。よんでなくともわかるからだ。川端さんのも沢山よまないやうに気をつけてゐる。「女の手」「過去」

人間愛がかういふ屈折をとらざるをえぬ文学。それは愛情のつきつめた一極点。
『愛情の北極』
・神への不信と虚妄

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

406 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:27:18 ID:???
・ある川端氏と近しい人が
「それは川端さんは気附かれなかつたらしい」といふのをきいた時、私はわが耳を疑つた。
私には川端氏が気がつかぬ事柄なんてこの世にあると思へなかつたのだ。

川端康成――(芸術的)個性と自我の完璧な分離

川端氏の作品に僕は小説の極めて豊かな眼界を感じる。
牧野信一、稲垣足穂の作品に僕は小説のきはめて窮屈な眼界を感じる。
川端氏の眼界の豊けさは、薄や虫類や小魚をよせあつめる波打際のゆたけさだ。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

407 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:27:58 ID:???
僕とラディゲのちがひは
(一)ラディゲはノルマルな心理の展開そのものゝ中にロマンをみるロマンティストだ。
僕は現実に絶対にありえないロマンチックな心理をあくまでリアルに具現しようとするレアリストだ。*
共に言葉の一層深い意味において。
*初期における谷崎潤一郎との比較。

(ニ)ラディゲが作品の主題とした倫理はカソリシズムの歴史的伝統であると共にフランス近代文学のテクニックの一種だ。
プランセス・ド・クレーヴの倫理とはやゝ性質を異にする。――しかるに僕は日本の歴史的文学的伝統の命ずる処に従ひ、倫理的契機を無視する。
倫理は日本文学史に於ては小さな役割を演じて来たに過ぎない。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

408 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:28:15 ID:???
ラディゲを殺したのは彼の健康さだ。僕を長生きさせるのは僕の病的な性格だ。
僕はかくてあの烈しい「人間の第一義」からのがれるのだ。


ラディゲ*には模索がない。僕は模索をたよりに小説を書く。
*夭折した。僕は長生きする。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

409 :名無しさん@また挑戦:2010/10/02(土) 17:28:41 ID:???
ラディゲは二度と書き直しのできぬ手習草紙を書いたのだった。
彼は異常な心理を書かないと公言した。しかし彼の二つの小説は共に有夫の婦との恋をゑがいてゐる。
しかもそれは単なる偶然ではなく、その恋のTypus にはぬきさしならぬ必然性がある。
この必然性なるものが既に異常なのではなからうか。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

共産党には「時代意識」がない。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから

410 :名無しさん@また挑戦:2010/10/08(金) 14:54:16 ID:???
戦後平和日本の安寧になれて、国民精神は弛緩し、一方、偏向教育によつてイデオロギッシュな非武装平和論を
叩き込まれた青年たちは、ひたすら祖国の問題から逃避して遊惰な自己満足に耽る者、勉学にはいそしむが
政治的無関心の殻にとぢこもる者、「平和を守れ」と称して体制を転覆せんとする革命運動に専念する者の、
ほぼ三種類に分けられるにいたりました。(中略)
われわれは一九六〇年以後、言論活動による国の尊厳の回復の準備を進めて参ると共に、一九六五年にいたつて、
国防精神を国民自らの真剣な努力によつて振起する方法の研究に着手しました。(中略)…核兵器の進歩は
却つて通常兵器による局地戦(いはゆる代理戦争)の頻繁か発生を促し、これを戦ふ者も正規軍のみでなく、
ベトナム戦に見る如く人民戦争の様相を呈して来た以上、必ずしも高度に技術化された軍隊でなくとも、
通常兵器を以て国防に参与できる余地のあることが常識化されるにいたりました。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より

411 :名無しさん@また挑戦:2010/10/08(金) 14:58:33 ID:???
そもそもわが自衛隊は、安保体制下集団安全保障の一翼を担つて、国防の任務に就いてをりますが、この任務のうち、
純然たる自主防衛の領域は、新安保条約によれば、
一、間接侵略に対する治安出勤
二、非核兵器による局地的直接侵略に対する防衛
の二領域であります。この二つのケースにおいては、自衛隊は、いかなる外国軍隊の力をも借りず自らの手で
国防を引受けるといふ重大な任務を負うてゐるのであります。(中略)
「間接侵略」の形態も亦、一様ではありません。革命の客観的条件の成熟と向うが認めた時点が何時であり、
そこへ向つて、いかなる一連の動きによつて「間接侵略」といふ内戦段階へ移行するかは予断を許さぬのみならず、
現に今日只今の平和な日常生活の中にも、間接侵略の下拵(したごしら)へは着々と進められてゐると考へて
いいのです。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より

412 :名無しさん@また挑戦:2010/10/08(金) 15:02:56 ID:???
これに応戦する立場も、単に自衛隊の武力ばかりでなく、千変万化の共産戦術に応じて、あるひは言論、あるひは
行動により、千変万化の対応の仕方を準備するのが賢明であります。そのための最後の拠り処は、外敵の
思想的侵略を受け容れぬ鞏固な国民精神であると共に、民族主義の仮面を巧妙にかぶつたインターナショナリズムに
だまされない知的見識であり、又、有事即応の不退転の決意でなければなりません。このやうな決意を持たぬ思想は、
怯懦に陥つて、いつか敵の術策に陥ることをなしとしないのであります。
不退転の決意とは何か? すなはち、国民自らが一朝事あれば剣を執つて、国の歴史と伝統を守る決意であり、
自ら国を守らんとする気魄(きはく)であります。
しかし、気魄だけでは実際の役に立たないので、武器の取扱にも周到な教育を要し、指揮統率の能力も、
又これに応ずる能力も、一定の訓練体験なしには、つひに画に描いた餅にすぎません。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より

413 :名無しさん@また挑戦:2010/10/08(金) 15:08:10 ID:???
又、別方面から考へれば、何事も感覚的にしか理解しえない無関心層の青年に、国防精神を植ゑつけるには、
単なる思想指導や言論による教育では不十分で、実際に彼らに執銃体験を与へることによつて、彼らが
武器といふものの持つ意義も危険も知り、感覚を土台にして、より高い国防精神に覚醒する端緒をつかむといふ
ことも十分考へられるのであります。
ここに思ひ到つたわれわれは、諸外国の民兵制度を研究し、左記のやうな各種の資料を得ました。(中略)
以上のやうに、民兵制度なるものを種々検討してみたわれわれは、平和憲法下の日本で、われわれ国民が
市民としての立場で国防に参与する方途は、ここにあると確信するにいたりました。民主国家国民としてあらゆる
自由と権利を享楽してきた日本人は、戦後、義務の観念を喪失したと云はれますが、実はまだ使つてゐない権利が
一つ残つてゐるのではないか、民主国家の国民としてのもつとも基本的な権利である、「国防に参与する権利」
だけは、まだ手つかずのままではないか、といふのがわれわれの発想のもとであります。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より

414 :名無しさん@また挑戦:2010/10/08(金) 15:13:18 ID:???
民兵といふ言葉はみすぼらしく、魅力的でないので、われわれは祖国防衛隊といふ言葉を使ひます。(中略)
専門家の概算によると、長大な海岸線を持つわが国の国土防衛のためには、三五万から百万の陸上兵力を
必要としますが、(中略)…のこりの十七万は何とか国民の自主的な努力により確保せねばならぬのであります。
従つて祖国防衛隊は、大都市においては都市防衛、海浜地域においては沿岸警備、山間地域においては
対ゲリラ防衛を任務とすることになるでせう。又、出勤した正規軍師団の後方警備要員としても有効適切であります。
ヨーロッパ諸国の軍事制度を研究した者は、むしろ戦前の日本の国軍一本化がむしろ異例であることを知つてゐます。
正規軍以外の各種の軍隊の並立のうちに発達してきたヨーロッパ軍事制度の歴史に鑑み、日本の戦前の軍事制度に
関する常識を、戦後の平和憲法下の特殊事情を考慮して、一ぺん徹底的に考へ直し、真に有効な現代的方途を
発見してゆかなければなりません。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より

415 :名無しさん@また挑戦:2010/10/08(金) 15:17:08 ID:???
現に戦時中も、総力戦体制と称しながら、軍の権力構造を保持するために、知識人や行政上経営上の指導者をも
一兵卒として召集し、無理な一本化を急いで弊害のみを助長させた教訓は近きにあり、むしろ、戦争末期は
市民軍の養成を別途に推進すべきであつたのであります。
正規軍の増強と精鋭を望む議論としては正論でありますが、日本の現状から見るとき、徴兵制度の弊害の記憶が
ありありと残つてゐる国民感情から見ても、又、もし将来徴兵制度復活が実現されても、そのときはもはや
国論統一が成し遂げられた時点であり、国論統一が成就するや否やわからぬ過渡期の危機を収拾するには間に合はず、
前途のとほり、間接侵略の複雑微妙な進行過程において、徴兵制を強行すれば、軍自体の赤化の危険さへ
懸念されるのであります。その点からも、「思想堅固な者にのみ、武器をとらせる」方式を別途に考へなければ、
間接侵略に真に対処することは不可能なのであります。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より

416 :名無しさん@また挑戦:2010/10/08(金) 15:20:20 ID:???
これらの考察ののち、われわれは一九六六年秋にいたつて、祖国防衛隊のもつとも基本的な原案を作製しました。
(中略)
概ね、右のとほりでありますが、無給である以上、隊員には強い国防意識と栄誉と自恃の念の養成が必要とされます。
又、まだ法制化を急ぐ段階ではありませんから、純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他はなく、
一方、一般公募にいたる準備段階に数年をかけ、少くとも百人の中核体を一種の民間将校団として暗々裡に
養成することが先決問題と考へられたのであります。(中略)
われわれはかくて自衛隊内部にも知己を得て、国防問題について真剣に論じ合ひました。われわれの知りたいことは、
市民軍の指導者たる幹部要員の教育に、必要最低限度、どれだけ訓練が必要とされるか、現行法制下でそれが
可能か、といふことでありました。そしてつひに、それが可能であるといふ成果を得たのであります。

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より

417 :名無しさん@また挑戦:2010/10/08(金) 20:19:58 ID:???
祖国防衛隊基本綱領(案)
祖国防衛隊は、わが祖国・国民及びその文化を愛し、自由にして平和な市民生活の秩序と矜りと名誉を
守らんとする市民による戦士共同体である。
われら祖国防衛隊は、われらの矜りと名誉の根源である人間の尊厳・文化の本質及びわが歴史の連続性を
破壊する一切の武力的脅威に対しては、剣を執つて立ち上がることを以て、その任務とする。

 隊 歌
強く正しく剛(たけ)くあれ
文武の道にいそしみて
正大の気の凝るところ
万朶(ばんだ)の花と咲き競ふ
日本男子の朝ぼらけ
われらは祖国防衛隊

若く凛々しく勇ましく
高根の雪に恥づるなき
市民の鑑(かがみ)武士の裔(すゑ)
祖国を犯す者あらば
かへりみはせじ楯の身を
われらは祖国防衛隊

清く明るく晴れやかに
憂憤深き夜は明けて
正気光りを発すれば
歩武堂々の靴跡に
敵影(てきえい)霜と消え失せん
われらは祖国防衛隊

三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より

418 :名無しさん@また挑戦:2010/10/09(土) 14:38:50 ID:???
Q:石原(慎太郎)氏に向かつて「自民党にはひつたら党を批判するな」といふあなたの論法。…従属といふか、
非常に暗いものを要求する、抵抗を押へるのではないか、と思ふのだが……。
三島由紀夫:抵抗は死に身になれ。抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、といふことだ。たとへば抵抗は
楽しいものであるといふベ平連などの考へですね。あれが一番きらひなんです。ベ平連式の“抵抗”は、大衆に
アピールする。抵抗とは楽しい、抵抗とは手をつないでフランス・デモをやることだ、フォーク・ダンスを
やることだ、これが非常にいやなんです。抵抗はナマやさしいもんぢやない。血みどろで、死に身にならなきや
できないのが本当である。内部批判をする連中が、手柄顔で歩いてゐる。石原君のことぢやなく、世間一般ですよ。
共産党を内部批判すると英雄になる。公明党を内部批判すると英雄になる。自分の属してゐるものの
内部批判した男が英雄視される。こんな間違つたことはない。抵抗をもう少し暗いものにしなきやいかん。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より

419 :名無しさん@また挑戦:2010/10/09(土) 16:42:03 ID:???
…藩のきびしさは、いまの会社などとは、なるほど、くらべものにならないかもしれない。しかし、そこに
仕へるものの内面的なモラルといふものは同じだ。つまり、お前はこんな批判をしたから切腹ものだ、首を
はねる、なんて規則は外面的な規則でしよ。だけど自分は賊名を着せられてもあへてやるんだとか、あるひは
自分の中では内面的にそれを許さない、といふ場合に、人間はどういふ態度をとるべきか。その態度決定は
文化や伝統が規定すると思ふんです。(中略)
個人的な怨恨を巻きこまなければ、大きな抵抗は組織できない。さういふ組織がいけないといふのではない。(中略)
いまの日本は「公」と「私」の別がないやうな国、私益優先の国ですね。人命尊重以上の高い価値を持つた
ものはなくなつた。それがいまの日本です。ですから「よど号」事件なんかでも、日本の政府は人命尊重以外には
何もいへない。日本には、それ以上の国是がないんだから。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より

420 :名無しさん@また挑戦:2010/10/09(土) 16:45:04 ID:???
韓国でも北朝鮮でも国家意志といふものがあつたでせう。いまの日本には、国家意志などといふものはない。
石原君なんか、国家意志を持たうとするために政治家になつたのぢやないか。さういふ日本から脱却して――。
ぼくは、そのために彼を応援したのぢやないのか。だから石原君が私益優先みたいな社会の中で「私」と「公」を
混同するやうなものの考へ方だつたら、初めから矛盾ぢやないのか。あくまで公的なものだけを大切にするのが
彼の政治行為ではないのかと思ふのです。ぼくはむりやりにでも「公」と「私」を分けなきや政治行為なんて
できるものではないと思つてゐる。いまの若いもの、若い政治家が持つてゐる満たされないもやもやしたものを、
公的なものにすりかへてゐる。これは卑怯です。(中略)会社の帰りに、いつぱい飲みながらやる上役の悪口が、
いま日本中の世論といふものの原型になつちやつた。昔は、あんなもの私的なもので、上役とのいさかひは
その場で終はつた。翌日はケロッとしてゐたものだ。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より

421 :名無しさん@また挑戦:2010/10/09(土) 16:58:17 ID:???
Q――士道とは何か。
三島由紀夫:山鹿素行の士道とか、吉田松陰のそれとか、士道にもいろいろあつてね。さう堅いことばかり
いつてゐるわけぢやない。「柔よく剛を制するの理(ことわり)をわきまふべし。しゐてつよからんと思へば、
かへつてよはきことあり。われつよければ、かれも又つよし」なんてのもある。こりや、ぼくのこといつてるの
かもわからんが……。
ぼくは、魂の問題といふことで「士道」といふ言葉を使つた。内面的なモラルといつてもいい。内面的なモラル
といふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。それがなければ、精神なんてグニャグニャになつちやふ。
今日では、自分で自分をしばるといつたストイックな精神的態度を、だれも要求しなくなつた。ストイックなのは
損だと、だれもが考へてゐる。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より

422 :名無しさん@また挑戦:2010/10/09(土) 17:14:14 ID:???
Q――「士道」といふもの、そもそもアナクロニズムではないのか。
三島由紀夫:ぼくは「士道」を、みんなに向かつて鼓舞するつもりはない。ストイックなものだから、一人が
さうであればいい。あるひは十人がなるかもしれないが、この巨大な社会の歯車の中で、一人がストイックになれば、
それがしだいに波及して順々に歯車が動いていくんぢやないか。さういふ気違ひみたいなヤツがゐないと、
日本、面白くないと思ひますね。
アナクロ? さうかもしれない。しかし、人間、どんな新しい身なりをしてゐても、一つだけ古いものを
持つてるのがダンディーぢやないのですか。精神的態度として。士道ていふのはダンディズムですよ。男の
“見伊達”といふか、さういふものですね。精神的な伊達ものですね。最新流行の服を着て、口に何十年か前の
古いパイプをくはへてゐるやうに、精神的にも一点、アナクロニズムが残つてゐるてのがダンディーなんですよ。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より

423 :名無しさん@また挑戦:2010/10/09(土) 17:16:13 ID:???
Q――「士道」の復活は、現代において可能ですか。

三島由紀夫:ぼくはさういふふうに問題を考へてゐない。「士道」といふ言葉をいふのは、その言葉が、まるで
一滴のしづくのやうにその人の心にしたたつたら、自分で考へてごらんなさい――といふだけなんです。
「士道」といふものは、マスコミを通じて広まるやうな性質のものではない。われわれの心の中を探つてみると、
心のなかに持つてゐる自己規律に照らして、どこかやましいものがあるはずだ。やましいものがあれば、
士道に反してゐるのだと考へるべきだ。それが日本人だと思ふんです。なぜやましさを感じるか。それは
士道にもとつてるからなんです。士道つてそんなものではないか。一言でいへば、「士道」とは男の道ですよ。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より

424 :名無しさん@また挑戦:2010/10/18(月) 11:54:08 ID:???
現下の日本のもつとも重要な問題は、国家理念の確立と、青年に「大義とは何か」を体得せしめることであります。
多くの青年が、日本が犯される時は銃を執つて戦ふ覚悟を、口でこそ示しますが、その方途も、真の敵の所在も
明確につかんでゐないのが実情であります。
間接侵略の過程においては、まづ基幹産業の侵蝕と破壊が企てられることは、常識でありますが、わが企業体を
身を以て守るといふ覚悟乃至行動は、それ以上の高い国家理念の裏附なしには期待することができません。
企業防衛こそ国土防衛の重要な一環であり、一例が電源防衛にしても、それ自体がただちに国土防衛の本質的な
ものにつながります。
しかしこのやうな自覚も、強い思想的バック・ボーンなしには、たちまち足元から崩れ去るのが、今後の複雑な
政治状況であり、又、そのためには団体生活の訓練と、一定の基礎的な肉体訓練が必須であります。

三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より

425 :名無しさん@また挑戦:2010/10/18(月) 11:57:32 ID:???
このやうな青年によつてこそ、日本の安全保障と自主防衛の精神は、将来へ向つて輝やかしく保持され、
国の安全こそ企業の安全につながることが、国民全体によつて理解される糸口がひらけるのであります。
企業防衛イコール国土防衛の精神を確立するために、われわれは陸上自衛隊の協力を得て、従来の体験入隊より
一歩前進した、比較的長期間の組織的体験のプランを作製し、各企業体経営者各位の賛同を得て、J・N・Gの
横の組織を創り出したいと念ずるものであります。

 仮 案
一、中卒あるひは高校卒の青少年を、一定期間(十日乃至一ヶ月)当組織へお預りし、体験入隊をお世話し、
必要に応じて年一回、あるひは春秋二回といふ風に継続し、J・N・G隊員として、溌剌たる挺身的な模範社員を
各職場へお返しします。企業防衛を国土防衛の基盤として理解する、信念ある中堅社員育成のために、資する
ところ大なるものがあると信じます。(後略)

三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より

426 :名無しさん@また挑戦:2010/10/25(月) 13:17:20 ID:???
男のやる仕事でもつとも荒つぽい、命を的にかけた仕事で、しかもこれほど優雅と美を本質とする仕事もめづらしい。
アメリカの埃くさい薄汚ないカウ・ボオイなどとちがつて、闘牛士は、宮廷人のやうな絹の華麗な衣裳をつけてゐる。
そしてその花やかな衣裳の下には、プロテクターはおろか、下着ひとつつけないのが闘牛士の心意気である。
男が色彩豊富なけんらんたる衣服を身につけてふさはしいのは、死と勇気と血潮に関はりあるときだけである。
流行歌手の裾模様なんか、唾棄すべきものである。
闘牛士は、危険によつて美しく、死によつていよいよ美しい。それこそ世間並の男が、いくら口惜しがつても
及ばぬところだ。
ガルシア・ロルカは、闘牛士イグナシオ・サンチェス・メヒーアスの死を悼んで、四章から成る哀切な長詩を書いた。
「誰一人お前を知らない。知る者はない。けれどもわたしはお前を歌う。
お前の横顔とお前の魅力を いつまでもわたしは歌う。
お前の判断力の著しい円熟ぶりを、
お前の死への欲求と 死の口の味はひを、
お前の男らしい陽気さが持っていた悲しみを。」(小海永二氏・羽出庭梟公氏共訳)

三島由紀夫「闘牛士の死」より

427 :名無しさん@また挑戦:2010/10/25(月) 13:20:48 ID:???
>>426
闘牛士の死 → 闘牛士の美

428 :名無しさん@また挑戦:2010/10/27(水) 15:22:23 ID:???
近松も西鶴も芭蕉もゐない昭和元禄には、華美な風俗だけが跋扈してゐる。情念は涸れ、強靭なリアリズムは
地を払ひ、詩の深化は顧みられない。すなはち、近松も西鶴も芭蕉もゐない。われわれの生きてゐる時代が
どういふ時代であるかは、本来謎に充ちた透徹である筈にもかかはらず、謎のない透明さとでもいふべきもので
透視されてゐる。
どうしてかういふことが起つたか、といふことが私の久しい疑問であつた。外延から説明する、工業化や
都市化現象から説明する、人間関係の断絶や疎外から説明する、あらゆる社会心理学的方法や、一方、
精神分析的方法にわれわれは飽きてゐる。それは殺人が起つたあとで、殺人者の生ひ立ちを研究するやうなものだ。
何かが絶たれてゐる。豊かな音色が溢れないのは、どこかで断弦の時があつたからだ。そして、このやうな
創造力の涸渇に対応して、一種の文化主義は世論を形成する重要な因子になつた。正に文化主義は世をおほうて
ゐる。それは、ベトベトした手で、あらゆる文化現象の裏側にはりついてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より

429 :名無しさん@また挑戦:2010/10/27(水) 15:26:47 ID:???
文化主義とは一言を以てこれを覆へば、文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か
喜ばしい人間主義的成果によつて判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、
人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。
フラグメントと化した人間をそのまま表現するあらゆる芸術は、いかに陰惨な題材を扱はうとも、その断片化
自体によつて救はれて、プラザの噴水になつてしまふ。全体的人間の悲惨は、フラグメントの加算からは
証明されないからである。われわれは単なるフラグメントだと思つてわれわれ自身に安心する。
悲惨も、いかなる悲惨であらうとも、断片の範囲を出ないからであり、脱出はわれわれの能力外のところではあるが、
立派にのこされてゐるからであり、われわれの不能に酔ふことと脱出に酔ふこととは一致してゐるからである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より

430 :名無しさん@また挑戦:2010/10/27(水) 15:30:47 ID:???
日本文化とは何かといふ問題に対しては、終戦後は外務官僚や文化官僚の手によつてまことに的確な答が与へられた。
それは占領政策に従つて、「菊と刀」の永遠の連環を絶つことだつた。平和愛好国民の、華道や茶道の
心やさしい文化は、威嚇的でない、しかし大胆な模様化を敢てする建築文化は、日本文化を代表するものになつた。
そこには次のやうな、文化の水利政策がとられてゐた。すなはち、文化を生む生命の源泉とその連続性を、
種々の法律や政策でダムに押し込め、これを発電や灌漑にだけ有効なものとし、その氾濫を封じることだつた。
すなはち「菊と刀」の連環を絶ち切つて、市民道徳の形成に有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧する
ことだつた。占領政策初期にとられた歌舞伎の復讐のドラマの禁止や、チャンバラ映画の禁止は、この政策の
もつともプリミティヴな、直接的なあらはれである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より

431 :名無しさん@また挑戦:2010/10/27(水) 15:36:30 ID:???
そのうちに占領政策はこれほどプリミティヴなものではなくなつた。禁止は解かれ、文化は尊重されたのである。
それは種々の政治的社会的変革の成功と時期を一にしてをり、文化の源泉へ退行する傾向は絶たれたと考へられた
からであらう。文化主義はこのときにはじまつた。すなはち、何ものも有害でありえなくなつたのである。
(中略)しかしこれはもともと、大正時代の教養主義に培はれたものの帰結であつた。日本文化は外国に対しては
日本の免罪符になり、国内に対しては平和的福祉価値と結合した。福祉価値と文化を短絡する思考は、大衆の
ヒューマニズムに基づく、見せかけの文化尊重主義の基盤になつた。
われわれが「文化を守る」といふときに想像するものは、博物館的な死んだ文化と、天下泰平の死んだ生活との
二つである。その二つは融合され、安全に化合してゐる。その化合物がわれわれを悩ますが、しかし、文化に
対する、ものとしての、文化財としての、文化的遺産としての尊敬は、民主主義国、社会主義国(中共のやうな
極端な例外を除いて)を問はないのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より

432 :名無しさん@また挑戦:2010/10/27(水) 15:42:32 ID:???
(中略)
(社会主義的文化政策は)文化の形式と内容は分離可能なもの考へられてをり、形式自体は無害であるから、
これに有用な内容を盛ることができるとされ、極端な場合は江青女史の京劇改革のごときものも可能になる
ところの理論的根拠がほの見えてゐる。
しかし、単にものとして残された安全な文化財については、レニングラード・バレエがソヴエトにとつて
有害でないやうに、歌舞伎も、能も、あらゆる伝統的日本文化も、一応有害ではないのである。それはむしろ
有益な観光資源であり、芸術院会員の歌舞伎俳優は、一転して、忽ち人民芸術家の称号を与へられるであらう。
(中略)アマチュアの創造する文化は、既成職業人の創造する文化よりも、はるかに規制しやすいといふ認識が
ここ(働くものが文化をつくる)には含まれてをり、社会主義国家が発表機関を独占すれば、ことさらな
言論統制を強行しなくても、一般アマチュアの発表慾と虚栄心に訴へかけて、それと引きかへに、内容を
規制することが容易なのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より

433 :名無しさん@また挑戦:2010/10/27(水) 15:48:24 ID:???
しかし、社会主義が厳重に管理し、厳格に見張るのは、現に創造されつつある文化についてであるのは言ふ
までもない。これについては決して容赦しないことは、歴史が証明してゐる。(中略)
何らかの政治的規制が文化の衰弱を防ぐといふ口実をゆるすところが、文化自体の包含する矛盾であり、
文化と自由との間の永遠の矛盾である。(中略)
が、いはゆる自由陣営の文化主義と、社会主義国の安全な文化財に対する尊重とは、いづれも一見、伝統の
擁護と保持の外見をとるがゆゑに、もつとも握手しやすい部分であると思はれる。
いづれの立場からも文化は形成された〈もの〉として見られてゐる。その結果何が起るかについては、中世以来の
建築的精華に充ちたパリの破壊を免かれるために、これを敵の手に渡したペタンの行為によくあらはれてゐる。
(中略)国民精神を代償として、パリの保存を購つたのである。このことは明らかに国民精神に荒廃をもたらしたが、
それは目に見えぬ破壊であり、目に見える破壊に比べたら、はるかに恕しうるものだつた!

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より

434 :名無しさん@また挑戦:2010/10/27(水) 15:52:00 ID:???
このやうな文化主義は、一度引つくりかへせば、中共文化大革命のやうな目に見えぬ革命精神の形成のために、
目に見える一切の文化を破壊する「逆の文化主義」「裏返しの文化主義」に通じるのであり、それは、ほとんど
一枚の銅貨の裏表である。私はテレヴィジョンでごく若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、
日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによつて
世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのをきいて、これがそのまま、戦場中の一億玉砕思想に
直結することに興味を抱いた。一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守るためなら、
保持者自身が全滅し、又、目に見える文化のすべてが破壊されてもよい、といふ思想である。
戦時中の現象は、あたかも陰画と陽画のやうに、戦後思想へ伝承されてゐる。このやうな逆文化主義は、前にも
言つたやうに、戦後の文化主義と表裏一体であり、文化といふもののパラドックスを交互に証明してゐるのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より

435 :名無しさん@また挑戦:2010/10/29(金) 12:02:11 ID:???
第一に、文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の
無形の国民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、
いかに混濁した形をとらうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると
考へられ、従つて、いはゆる芸術作品のみでなく、行動及び行動様式をも包含する。文化とは、能の一つの型から、
月明の夜ニューギニアの海上に浮上した人間魚雷から日本刀をふりかざして躍り出て戦死した一海軍士官の行動をも
包括し、又、特攻隊の幾多の遺書をも包含する。源氏物語から現代小説まで、万葉集から前衛短歌まで、中尊寺の
仏像から現代彫刻まで、華道、茶道から、剣道、柔道まで、のみならず、歌舞伎からヤクザのチャンバラ映画まで、
禅から軍隊の作法まで、すべて「菊と刀」の双方を包摂する、日本的なものの透かし見られるフォルムを斥(さ)す。
文学は、日本語の使用において、フォルムとしての日本文化を形成する重要な部分である。

三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より

436 :名無しさん@また挑戦:2010/10/29(金) 12:05:31 ID:???
日本文化から、その静態のみを引き出して、動態を無視することは適切ではない。日本文化は、行動様式自体を
芸術作品化する特殊な伝統を持つてゐる。武道その他のマーシャル・アートが茶道や華道の、短い時間のあひだ
生起し継続し消失する作品形態と同様のジャンルに属してゐることは日本の特色である。武士道は、このやうな、
倫理の美化、あるひは美の倫理化の体系であり、生活と芸術の一致である。能や歌舞伎に発する芸能の型の重視は、
伝承のための手がかりをはじめから用意してゐるが、その手がかり自体が、自由な創造主体を刺戟するフォルム
なのである。フォルムがフォルムを呼び、フォルムがたえず自由を喚起するのが、日本の芸能の特色であり、
一見もつとも自由なジャンルの如く見える近代小説においても、自然主義以来、そのときどきの、小説的フォルムの
形成に払はれた努力は、無意識ながら、思想形成に払はれた努力に数倍してゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より

437 :名無しさん@また挑戦:2010/10/29(金) 12:08:52 ID:???
第二に、日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬことである。西欧ではものとしての文化は主として
石で作られてゐるが、日本のそれは木で作られてゐる。オリジナルの破壊は二度とよみがへらぬ最終的破壊であり、
ものとしての文化はここに廃絶するから、パリはそのやうにして敵に明け渡された。
(中略)
このもつとも端的な例を伊勢神宮の造営に見ることが出来る。持統帝以来五十九回に亘る二十年毎の式年造営は、
いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであつて、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの
生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。大半をローマ時代のコピーにたよらざるをえぬ
ギリシア古典期の彫刻の負うてゐるハンディキャップと比べれば、伊勢神宮の式年造営の文化概念のユニークさは
明らかであらう。歌道における「本歌取り」の法則その他、この種の基本的文化概念は今日なほわれわれの心の
深所を占めてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より

438 :名無しさん@また挑戦:2010/10/29(金) 12:12:57 ID:???
このやうな文化概念の特質は、各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神(あまてらすおほみかみ)と
オリジナルとコピーの関係にはないところの天皇制の特質と見合つてゐるが、これについては後に詳述する。
第三に、かくして創り出される日本文化は、創り出す主体の側からいへば、自由な創造的主体であつて、型の
伝承自体、この源泉的な創造的主体の活動を振起するものである。これが、作品だけではなく、行為と生命を
包含した文化概念の根底にあるもので、国民的な自由な創造的主体といふ源泉との間がどこかで絶たれれば、
文化的な涸渇が起るのは当然であつて、文化の生命の連続性(その全的な容認)といふ本質は、弁証法的発展
乃至進歩の概念とは矛盾する。なぜならその創造主体は、歴史的条件の制約をのりこえて、時に身をひそめ、
時に激発して(偶然にのこされた作品の羅列による文化史ではなくて)、国民精神の一貫した統一的な文化史を
形成する筈だからである。

三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より

439 :名無しさん@また挑戦:2010/10/29(金) 20:51:51 ID:???
「楯の会」を創設した私の考へは、中共文化大革命の経過やチェコ事件によつてますます強められましたが、
日本ではかつての軍閥の悪夢があまりに強く残つてゐるため、「銃をとる」などといつたら引つくり返らんばかり、
すべて受身にしか行動を考へられないのが、すでに敗北の姿勢だと思ひます。
フランスのレジスタンスの闘士も、文化をまもるために命がけで銃をとりましたが、そのためには当然平時から
訓練もいります。暴力に屈して自尊心を捨てた最近の大学の先生たちのまねだけはしたくないものです。
私たちの時代はたとへ間違つた先見を捨て切れなくても、せめて若い世代に、日本人としての誇りを最終的に
守る覚悟を植ゑつけたいと思ひはじめた「楯の会」の運動ですが、一方、徴兵制度と言論統制に対しては、終始
反対を表明してきた私の態度は、拙著「文化防衛論」にも明らかです。

三島由紀夫「『楯の会』批判の二氏に答へる」より

440 :名無しさん@また挑戦:2010/10/30(土) 11:13:23 ID:???
日本人にとつての日本文化は次のやうな三つの特質を有することになるが、これはフランス人にとつての
フランス文化も、同種の特質を有すると考へてよからう。すなはち国民文化の再帰性と全体性と主体性である。
真のギリシア人のゐないギリシアに残された廃墟は、ギリシア人にとつては、そこから自己の主体へ再帰する
何ものもない美の完結した〈もの〉であつて、ギリシアの廃墟からの文化の生命の連続性を感じうるのは、
むしろヨーロッパ人の特権になつてゐる。しかし日本人にとつての日本文化とは、源氏物語が何度でも現代の
われわれの主体に再帰して、その連続性を確認させ、新しい創造の母胎となりうるやうに、ものとしての
それ自体の美学的評価をのりこえて、連続性と再帰性を喚起する。これこそが伝統と人の呼ぶところのものであり、
私はこの意味で、明治以来の近代文学史を古典文学史から遮断する文学史観に大きな疑問を抱くものである。
文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」者として見返してくる、といふ認識に
他ならない。

三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より

441 :名無しさん@また挑戦:2010/10/30(土) 11:17:23 ID:???
又、「菊と刀」のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと
容認することが、文化の全体性の認識にとつて不可欠であつて、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の
文化政策的理念に抗するところのものである。文化はまるごとみとめ、これをまるごと保持せねばならぬ。
文化には改良も進歩も不可能であつて、そもそも文化に修正といふことはありえない。これがありうるといふ
妄信は戦後しばらくの日本を執拗に支配してゐた。
又、文化は、ぎりぎりの形態においては、創造し保持し破壊するブラフマン・ヴィシュヌ・シヴァのヒンズー三神の
三位一体のやうな主体性においてのみ発現するものである。これについて、かつて戦時中、丹羽文雄氏の
「海戦」を批判して、海戦の最中これを記録するためにメモをとりつづけるよりも、むしろ弾丸運びを
手つだつたはうが真の文学者のとるべき態度だと言つた蓮田善明氏の一見矯激な考へには、
深く再考すべきものが含まれてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より

442 :名無しさん@また挑戦:2010/10/30(土) 11:21:25 ID:???
それが証拠に、戦後ただちに海軍の暴露的小説「篠竹」を書いた丹羽氏は当時の氏の本質は精巧なカメラであつて、
主体なき客観性に依拠してゐたことを自ら証明したからである。文学の主体性とは、文化的創造の主体の自由の
延長上に、あるひは作品、あるひは行動様式による、その時、その時の、最上の成果へ身を挺することであるべき
だからである。そして日本文化は、そのためのあらゆる文化的可能性をのこしてゐるからである。
以上三つの再帰性、全体性、主体性による文化概念の定義は、おのづから文化を防衛するにはいかにあるべきか、
文化の真の敵は何かといふ考察を促すであらう。

三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より

443 :名無しさん@また挑戦:2010/11/04(木) 10:49:44 ID:???
体を通してきて、行動様式を学んで、そこではじめて自分のオリジナルをつかむといふ日本人の文化概念、
といふよりも、文化と行動を一致させる思考形式は、あらゆる政治形態の下で、多少の危険性を孕むものと
見られてゐる。政治体制の掣肘の甚だしい例は戦時中の言論統制であるが、源氏を誨淫の書とする儒学者の思想は、
江戸幕府からずつとつづいてゐた。それはいつも文化の全体性と連続性をどこかで絶つて工作しようといふ
政策であつた。しかし文化自体を日本人の行動様式の集大成と考へれば、それをどこかで絶つて、ここから先は
いけない、と言ふことには無理がある。努力はむしろつねに、全体性と連続性の全的な容認と復活による、
文化の回生に向けられるべきなのであるが、現代では、「菊と刀」の「刀」が絶たれた結果、日本文化の特質の
一つでもある、際限もないエモーショナルなだらしなさが現はれてをり、戦時中は、「菊」が絶たれた結果、
別の方向に欺瞞と偽善が生じたのであつた。つねに抑圧者の側のヒステリカルな偽善の役割を演ずることは、
戦時中も現在も変りがない。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より

444 :名無しさん@また挑戦:2010/11/04(木) 10:54:18 ID:???
ものとしての文化の保持は、中共文化大革命のやうな極端な例を除いては、いかなる政体の文化主義に委ねて
おいても大して心配はない。文化主義はあらゆる偽善をゆるし、岩波文庫は「葉隠」を復刻するからである。
しかし、創造的主体の自由と、その生命の連続性を守るには政体を選ばなければならない。ここに何を守るのか、
いかに守るのか、といふ行動の問題がはじまるのである。
守るとは何か? 文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守らうといふ企図は必ず失敗するか、単に
目こぼしをしてもらふかにすぎない。「守る」とはつねに剣の原理である。
守るといふ行為には、かくて必ず危険がつきまとひ、自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。平和を守るには
つねに暴力の用意が必要であり、守る対象と守る行為との間には、永遠のパラドックスが存在するのである。
文化主義はこのパラドックスを回避して、自らの目をおほふ者だといへよう。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より

445 :名無しさん@また挑戦:2010/11/04(木) 11:07:52 ID:???
(中略)力が倫理的に否定されると、次には力そのものの無効性を証明する必要にかられるのは、実は恐怖の
演ずる一連の心理的プロセスに他ならない。(中略)そこ(文化主義が暴力否定から国家権力の最終的否定に
陥る経路)では「文化」と「自己保全」とが、同じ心理的メカニズムの中で動いてゐる。すなはち、文化と
人文主義的福祉価値とは同義語になるのである。
かくて、文化主義の裡にひそむ根底的エゴイズムと恐怖の心理機構は、自己の無力を守るために、他者の力を
見ないですまさうとするヒステリックな夢想に帰結する。
冷徹な事実は、文化を守るためには、他のあらゆるものを守ると同様に力が要り、その力は文化の創造者保持者
自身にこそ属さなければならぬ、といふことである。これと同時に、「平和を守る」といふ行為と方法が、
すべて平和的でなければならぬといふ考へは、一般的な文化主義的妄信であり、戦後の日本を風靡してゐる
女性的没論理の一種である。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より

446 :名無しさん@また挑戦:2010/11/04(木) 11:14:39 ID:???
(中略)
もし守るべき対象の現状が完璧であり、博物館の何百カラットのダイヤのやうに、守られるだけの受動的存在で
あるならば、すなはち守るべき対象に生命の発展の可能性と主体が存在しないならば、このやうなものを守る行為は、
パリ開城のやうに、最終的には敗北主義か、あるひは、守られるべきものの破壊に終るであらう。従つて
「守る」といふ行為にも亦、文化と同様に再帰性がなければならない。すなはち守る側の理想像と守られる側の
あるべき姿に、同一化の機縁がなければならない。さらに一歩進んで、守る側の守られる側に対する同一化が、
最終的に成就される可能性がなければならない。博物館のダイヤと護衛との間にはこのやうな同一化の可能性は
ありえず、この種の可能性にこそ守るといふ行為の栄光の根拠があると考へられる。国家の与へうる栄光の根拠も、
この心理機構に基づく。かくて「文化を守る」といふ行為には、文化自体の再帰性と全体性と主体性への、
守る側の内部の創造的主体の自由の同一化が予定されてをり、ここに、文化の本質的な性格があらはれてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より

447 :名無しさん@また挑戦:2010/11/04(木) 11:20:27 ID:???
すなはち、文化はその本質上、「守る行為」を、文化の主体(といふよりは、源泉の主体に流れを汲むところの
創造的個体)に要求してゐるのであり、われわれが守る対象は、思想でも政治体制でもなくて、結局このやうな意味の
「文化」に帰着するのである。文化自体が自己放棄を要求することによつて、自己の超越的契機になるのは
この地点である。
従つて、文化は自己の安全を守るといふエゴイズムからの脱却を必然的に示唆する。現在、平和憲法を守ることが、
一方では、階級闘争の錦の御旗になり、闘争とは縁のない、感情的平和主義者、日和見主義者、あらゆる
戦ひの放棄による自己保全を夢みるマイ・ホーム主義者、戦争に対する生理的嫌悪に固執する婦人層などの、
自己保全派の支持層に広汎に支へられてゐるといふ事情は、イデオロギッシュな自己放棄派が、心情的自己保全派に
支持されてゐるといふ矛盾を犯してゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より

448 :名無しさん@また挑戦:2010/11/04(木) 12:28:59 ID:???
文化における生命の自覚は、生命の法則に従つて、生命の連続性を守るための自己放棄といふ衝動へ人を促す。
自我分析と自我への埋没といふ孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を
成就すると考へられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このやうな献身的契機を含まぬ文化の、
不毛の自己完結性が、「近代性」と呼ばれたところのものであつた。そして自我滅却の栄光の根拠が、守られるものの
死んだ光輝にあるのではなくて、活きた根源的な力(見返す力)に存しなければならぬ、といふことが、文化の
生命の連続性のうちに求められるのであれば、われわれの守るべきものはおのづから明らかである。かくて、
創造することが守ることだといふ、主体と客体の合一が目賭されることは自然であらう。文武両道とはそのやうな
思想である。現状肯定と現状維持ではなくて、守ること自体が革新することであり、同時に、「生み」「成る」
ことなのであつた。

三島由紀夫「文化防衛論 創造することと守ることの一致」より

449 :名無しさん@また挑戦:2010/11/04(木) 12:34:53 ID:???
さて、守るとは行動であるから、一定の訓練による肉体的能力を具へねばならぬ。台湾政府の要人が、多く
少林寺拳法の達人であると私はきいたが、日本の近代文化人の肉体鍛錬の不足と、病気と薬品のみを通じて肉体に
関心を持つ傾向は、日本文学を痩せさせ、その題材と視野を限定した。私は、明治以来のいはゆる純文学に、
剣道の場面が一つもあらはれないことを奇異に感じる。(中略)肺結核の登場人物は減少したが、依然として、
そこには不眠症患者、ノイローゼ患者、不能者、皮下脂肪の沈積したぶざまな肉体、癌患者、胃弱体質、感傷家、
半狂人、などの群がり集まつた天国なのである。戦ふことのできる人間は極めて稀である。病気及び肉体的不健康が
形而上学的意味を賦与されたロマンティスムから世紀末にいたる古い固定観念は、一向癒やされてゐないのみならず、
こんな西欧的観念は、時には時世に媚びて、民俗学的仮装であらはれたりする。このことが行動を不当に
蔑視させたり、危険視させたり、あるひは逆に過大評価させたりする弱者の生理的理由にさへなつてゐるのである。

三島由紀夫「文化防衛論 創造することと守ることの一致」より

450 :名無しさん@また挑戦:2010/11/06(土) 13:06:20 ID:???
さて、「菊と刀」を連続させ、もつとも崇高なものから卑近なものにまで及び、文化主義者のいはゆる「危険性」を
避けないところの文化概念の母胎は、何らかの共同体でなければならないが、日本の共同体原理は戦後バラバラに
されてしまつた。血族共同体と国家との類縁関係はむざんに絶たれた。しかしなほ共同体原理は、そこかしこで、
エモーショナルな政治反応をひきおこす最大の情動的要素になつてゐる。それが今日、民族主義と呼ばれる
ところのものである。よかれあしかれ、新しい共同体原理がこれを通して呼び求められてゐることは明らかであらう。
戦後の民族主義はほぼ四段階の経過を辿つたといふのが、私の大まかな観察である。
戦後しばらく、占領下の民族主義は国家観念の明らかな崩壊の状況下に社会革命なるものと癒着してゐるやうな
外見を呈した。(中略)吉田内閣は、国民総体の欺瞞へのよろこびを代表してゐた。占領に対する欺瞞的抵抗が、
民族主義のひそかな、語られざる満足になり、一方、大声の、公然たる民族主義は、革命の空想と癒着した。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

451 :名無しさん@また挑戦:2010/11/06(土) 13:15:49 ID:???
(中略)
池田内閣のあのやうなふしだらな消費政策がはからざる逆効果をもたらし、オリンピックにおいて、平和憲法と
民族主義との戦後最大の握手が国家の司祭によつて成功した。これは一つの国家による、そして国民による、
民族主義的達成のピークであつた。しかし安保条約下における民族主義といふ制約は、民族主義そのものの質の
変化を正にこのときひそかに要求してゐた。佐藤内閣は、いろんな面で、「正直な内閣」たらざるをえぬ宿命を
担つてゐた。国会の防衛論争が正に破綻に瀕せんとする寸前に、オリンピック選手円谷の自刃が起つたことは
象徴的である。国家権力は、再び、民族主義に、それのみが国家が民族主義に寄与することのできる贈物で
あるところの国家的栄冠を与へることに失敗しつつある。
第三次の民族主義は、エンタープライズ事件を一つの曲り角として、再び「ナショナリズムの糖衣をかぶつた
インターナショナリズム」の登場を許したと思はれる。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

452 :名無しさん@また挑戦:2010/11/06(土) 13:20:46 ID:???
エンタープライズ事件における三派全学連の行動は、日本におけるナショナリズムとインターナショナリズムの
「見る者」と「見られる者」の分離を明確にした注目すべきモメントを形成した。すなはち、米軍基地の存在が
過去の自民党政府の民族主義の高揚によつて却つて、自立の感情を刺戟し、国民心理に無形の負担を感ぜしめ、
又、国会の防衛論争において、「自主防衛」の具体的方策を執拗に問はれた佐藤首相が、「自主防衛とは
すなはち三次防を行ふことだ」(十二月九日国会答弁)と答へた瞬間に、論争はその論理的発展を失つて単なる
政争の場面へ顛落し、国民の自主防衛意識は精神的支柱を失つて政治的プラグマティズムへ直結され、却つて
米軍基地の柵をのりこえた日本青年といふ象徴的事件が、国民のエモーショナルな欲求の一斑を満足させて、
民族主義を一つの曲り角へ導いたのである。このやうなターニング・ポイントは、実はヴィエトナム戦争によつて
長期間に養成されたものであつた。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

453 :名無しさん@また挑戦:2010/11/06(土) 13:26:12 ID:???
すなはち、ヴィエトナム戦争への感傷的人道主義的同情は、民族主義とインターナショナリズムの癒着を無意識の
うちに醸成し、反政府的感情とこれが結合して、一つの類推を成立させた。類推とは、他民族の自立感情に対する
感情移入を以て、自民族の自立感情のフラストレーションの解決をはかるといふ代償行為である。そこでは
厳密に言つて、近代国家の形成を経ぬヴィエトナムの民族主義とわが民族主義との歴史的諸条件の差異、
民族主義にとつての本質的な差異は看過されてをり、又、インターナショナリズムの連帯と同情や感傷による
連帯との本質的な弁別は、無視されるか、あるひはカヴァーされてゐる。(中略)
彼ら(三派全学連)は上陸した米軍兵士を殺すわけでもなく、基地内の米軍兵士に射たれたわけでもなかつた。
ただ強引に「見られる民族主義」を演じるといふその象徴行為は、彼らの「作られた民族主義」の側面を露呈した。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

454 :名無しさん@また挑戦:2010/11/06(土) 13:43:42 ID:???
インターナショナリズムによつて国家を否定し、ナショナリズムによつて民族を肯定しようといふその政治目的は、
その否定と肯定が同義語になるやうな決定的モメント、すなはち革命を暗示するには足りず、却つて、その分離の
様相を明確にしたのである。(中略)
「かれら」の文化は、民族主義とインターナショナリズムの国家超克との結合点としてとらへられるであらう。
これは文化主義のもつとも先鋭な政治的利用の方式であり、文化主義そのものが内包してゐる「人類の文化」概念の、
民族主義的下部構造からの再構成である。この種の動きは、小規模ではあるが、日本の新劇運動に深く浸潤してゐる。
その依つて立つ共同体理念である民族主義自体が、共同体の意味の移管を暗示するやうに「作られて」ゐるのである。
しかし、何はともあれ、共産主義にとつてもファシズムにとつても、もつとも利用しやすい民族主義が、目下の
ところ、国家に代つて共同体意識の基本単位と目されてゐるだけに、民族主義のみに依拠する危険は日ましに
募つてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

455 :名無しさん@また挑戦:2010/11/06(土) 14:10:41 ID:???
民族主義とは、本来、一民族一国家、一個の文化伝統・言語伝統による政治的統一の熱情に他ならない。(中略)
では、日本にとつての民族主義とは何であらうか? 自主独立へのエモーショナルな熱望は、必ずしも民族主義と
完全に符合するわけではない。(中略)言語と文化伝統を共有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげて
をり、われわれの文化の連続性は、民族と国との非分離にかかつてゐる。そして皮肉なことには、敗戦によつて
現有領土に押し込められた日本は、国内に於ける異民族問題をほとんど持たなくなり、アメリカのやうに一部民族と
国家の相反関係や、民族主義に対して国家が受け身に立たざるをえぬ状況といふものを持たないのである。
従つて異民族問題をことさら政治的に追及するやうな戦術は、作られた緊張の匂ひがするのみならず、国を
現実の政治権力の権力機構と同一し、ひたすら現政府を「国民を外国へ売り渡す」買辧政権と規定することに
熱意を傾け、民族主義をこの方向へ利用しようと力めるのである。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

456 :名無しさん@また挑戦:2010/11/06(土) 14:14:55 ID:???
しかし前にも言つたやうに、日本には、現在、シリアスな異民族問題はなく、又、一民族一文化伝統による
政治的統一への悲願もありえない。それは日本の歴史において、すでに成しとげられてゐるものだからである。
もしそれがあるとすれば、現在の日本を一民族一文化伝統の政治的統一を成就せぬところの、民族と国との
分離状況としてとらへてゐるのであり、民族主義の強調自体が、この分離状況の強調であり、終局的には、
国を否定して民族を肯定しようとする戦術的意図に他ならない。すなはち、それは非分離を分離へ導かうとする
ための「手段としての民族主義」なのである。
(中略)
前述したやうに、第三次の民族主義は、ヴィエトナム戦争によつて、論理的な継目をぼかされながら育成され、
最後に分離の様相を明らかにしたが、ポスト・ヴィエトナムの時代は、この分離を、沖縄問題と朝鮮人問題に
よつて、さらに明確にするであらう。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

457 :名無しさん@また挑戦:2010/11/07(日) 12:28:16 ID:???
社会的な事件といふものは、古代の童話のやうに、次に来るべき時代を寓意的に象徴することがままあるが、
金嬉老事件は、ジョンソン声明に先立つて、或る時代を予言するやうなすこぶる寓意的な起り方をした。それは
三つの主題を持つてゐる。すなはち、「人質にされた日本人」といふ主題と、「抑圧されて激発する異民族」
といふ主題と「日本人を平和的にしか救出しえない国家権力」といふ主題と、この三つである。第一の問題は、
沖縄や新島の島民を、第二の問題は朝鮮人問題そのものを、第三の問題は、現下の国家権力の平和憲法と
世論による足カセ手カセを、露骨に表象してゐた。そしてここでは、正に、政治的イデオロギーの望むがままに
変容させられる日本民族の相反するイメージ――外国の武力によつて人質にされ抑圧された平和的な日本民族といふ
イメージと、異民族の歴史の罪障感によつて権力行使を制約される日本民族といふイメージ――が二つながら
典型的に表現されたのである。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

458 :名無しさん@また挑戦:2010/11/07(日) 12:34:31 ID:???
前者の被害者イメージは、朝鮮民族と同一化され、後者の加害者イメージは、ヴィエトナム戦争を遂行する
アメリカのイメージにだぶらされた。
しかし戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、
明らかに政治的意図があつて、先進工業国における革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
そこには、しかし、日本の民族主義との矛盾が論理的に存在するにもかかはらず、ヴィエトナム戦争とアメリカの
黒人暴動とが、かかる「手段としての民族主義」を、ヒューマニズムの仮面の下に、正当化したのである。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

459 :名無しさん@また挑戦:2010/11/07(日) 12:37:30 ID:???
手段としての民族主義はこれを自由に使ひ分けながら、沖縄問題や新島問題では、「人質にされた日本人」の
イメージを以て訴へかけ、一方、起りうべき朝鮮半島の危機に際しては、民族主義の国際的連帯感といふ
論理矛盾を、再び心情的に前面に押し出すであらう。被害者日本と加害者日本のイメージを使ひ分けて、
民族主義を領略しようと企てるであらう。しかしながら、第三次の民族主義における分離の様相はますます
顕在化し、同時に、ポスト・ヴィエトナムの情勢は、保守的民族主義の勃興を促し、これによつて民族主義の
左右からの奪ひ合ひは、ますます先鋭化するであらう。

三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

460 :名無しさん@また挑戦:2010/11/08(月) 12:35:18 ID:???
叙上の如く、日本では戦後真の異民族問題はなく、左右いづれの側にとつても、同民族の合意の形成が目標で
あることはいふまでもないが、同民族の合意とは、少なくとも日本においては、日本がその本来の姿に目ざめ、
民族目的と国家目的が文化概念に包まれて一致することである。その鍵は文化にだけあるのである。又、
その文化の母胎としての共同体原理も、このやうな一致にしかない。
そもそも文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との完全な対立概念であるが、ここには詩と政治との
もつとも古い対立がひそんでゐる。文化を全体的に容認する政体は可能かといふ問題は、ほとんど、エロティシズムを
全体的に容認する政体は可能かといふ問題に接近してゐる。
左右の全体主義の文化政策は、文化主義と民族主義の仮面を巧みにかぶりながら、文化それ自体の全体性を敵視し、
つねに全体性の削減へ向ふのである。言論自由の弾圧の心理的根拠は、あらゆる全体性に対する全体主義の
嫉妬に他ならない。全体主義は「全体」の独占を本質とするからである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より

461 :名無しさん@また挑戦:2010/11/08(月) 12:39:20 ID:???
文化の全体性には、時間的連続性と空間的連続性が不可欠であらう。前者は伝統と美と趣味を保障し、後者は
生の多様性を保障するのである。言論の自由は、前者についてはともかく、後者については、間然するところの
ない保護者である。
もちろん言論の自由は絶対的価値ではなく、それ自体が時には文化を腐敗させることは現下の日本に見るとほりで
あり、ともすると言論の自由が文化の創造的伝統的性格とヒエラルヒーを失はせ、文化の全体性の平面のみを
支持して、全体性の立体性を失はせる欠点があるけれども、相対的にはこれ以上よいものは見当らず、これ以上、
相手方に対する思想的寛容といふ精神的優越性を保たせるものはない。かくて言論の自由は文化の全体性を
支へる技術的要件であると共に、政治的要件である。言論の自由を保障する政体の選択が、プラクティカルな
選択として最善のものとなるのはこの理由からである。文化の第一の敵は、言論の自由を最終的に保障しない
政治体制に他ならない。

三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より

462 :名無しさん@また挑戦:2010/11/08(月) 12:44:19 ID:???
しかし、言論の自由は本質的に無倫理的であり、それ自体が相対主義の上に成立つた政治技術的概念であるから、
いはゆる自由陣営に属することの相対的選択を、国是と同一視する安保条約の思想は、薄弱な倫理的根拠をしか
持ちえぬのは当然であり、それは今後ますますその力を失ふであらう。
言論の自由と代議制民主主義とが折れ合ふのは、正にこの相対主義的理念に於てであり、いかなる汚ない言葉も
一度は言はれねばならない、といふところから精神の尊卑をおのづから弁別せしめるのであるが、その最終的
勝利にはいつも時間がかかり、過程においては、趣味の低下、美の平価切下を免れない。それは言論の自由が
本質的に、文化の全体性のうち、その垂直面、すなはち時間的連続性には関はらないからである。しかも自由の
非自由に対する優位は、非自由の速攻性と外面的権威に対してハンディキャップを負ふ一方、自由そのものが、
政治宣伝技術上イデオロギー化のきはめて困難な政治概念であるため、危機に臨んでは、無理なイデオロギー化に
よつて足をとられやすい。

三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より

463 :名無しさん@また挑戦:2010/11/08(月) 12:47:51 ID:???
そこで自由諸国といへども、内部から全体主義に蝕まれる惧れをなしとしないのは、幾多の実例に見るとほりである。
「民主政治の信者は……共産主義者よりも、自分の考えがちなことすべてについて無意識である」とパーキンソンは
その「政治法則」の中で言つてゐる。「たとへば、彼らの宗教はかならずしも一冊の聖なる書物による宗教ではない。
彼らは、あいまいな歴史知識にもとづいて議論しがちだ。(中略)政治の理論と実際を討議するどんな場合にも
君主政治もしくは寡頭政治にまったく長所がないと否定するのは、バカげたことであらう」
かくて言論の自由が本来保障すべき、精神の絶対的優位の見地からは、文化共同体理念の確立が必要とされ、
これのみがイデオロギーに対抗しうるのであるが、文化共同体理念は、その絶対的倫理的価値と同時に、文化の
無差別包括性を併せ持たねばならぬ。ここに文化概念としての天皇が登場するのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より

464 :名無しさん@また挑戦:2010/11/09(火) 11:40:41 ID:???
国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるところの天皇は、日本の
近代史においては、一度もその本質である「文化概念」としての形姿を如実に示されたことはなかつた。
このことは明治憲法国家の本質が、文化の全体性の侵蝕の上に成立ち、儒教道徳の残滓をとどめた官僚文化によつて
代表されてゐたことと関はりがある。私は先ごろ仙洞御所を拝観して、こののびやかな帝王の苑池に架せられた
明治官僚補綴の石橋の醜悪さに目をおほうた。
すなはち、文化の全体性、再帰性、主体性が、一見雑然たる包括的なその文化概念に、見合ふだけの価値自体を
見出すためには、その価値自体からの演繹によつて、日本文化のあらゆる末端の特殊事実までが推論されなければ
ならないが、明治憲法下の天皇制機構は、ますます西欧的な立憲君主政体へと押しこめられて行き、政治的機構の
醇化によつて文化的機能を捨象して行つたがために、つひにかかる演繹能力を持たなくなつてゐたのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

465 :名無しさん@また挑戦:2010/11/09(火) 11:55:02 ID:???
雑多な、広汎な、包括的な文化の全体性に、正に見合ふだけの唯一の価値自体として、われわれは天皇の
真姿である文化概念としての天皇に到達しなければならない。
かつて建武中興が後醍醐天皇によつて実現したとき、それは政権の移動のみならず、王朝文化の復活を意味してゐた。
(中略)
このやうな文化概念としての天皇制は、文化の全体性の二要件を充たし、時間的連続性が祭祀につながると共に、
空間的連続性は時には政治的無秩序をさへ容認するにいたることは、あたかも最深のエロティシズムが、一方では
古来の神権政治に、他方ではアナーキズムに接着するのと照応してゐる。
「みやび」は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであつたが、非常の時には、「みやび」はテロリズムの
形態をさへとつた。すなはち、文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、
無秩序の側へも手をさしのべてゐたのである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

466 :名無しさん@また挑戦:2010/11/09(火) 12:04:51 ID:???
もし国家権力や秩序が、国と民族を分離の状態に置いてゐるときは、「国と民族の非分離」を回復せしめようと
する変革の原理として、文化概念たる天皇が作用した。孝明天皇の大御心に応へて起つた桜田門の変の義士たちは、
「一筋のみやび」を実行したのであつて、天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきで
あつたが、西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪つてゐた。
明治憲法による天皇制は、祭政一致を標榜することによつて(明治元年十月「氷川神社を武蔵国の鎮守に為し
給へる詔」には、祭政一致の文字が歴然と見える。――西角井正慶氏著「古代祭祀と文学」)、時間的連続性を
充たしたが、政治的無秩序を招来する危険のある空間的連続性には関はらなかつた。すなはち言論の自由には
関はりなかつたのである。政治概念としての天皇は、より自由でより包括的な文化概念としての天皇を、多分に
犠牲に供せざるをえなかつた。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

467 :名無しさん@また挑戦:2010/11/09(火) 12:30:02 ID:???
そして戦後のいはゆる「文化国家」日本が、米占領下に辛うじて維持した天皇制は、その二つの側面をいづれも
無力化して、俗流官僚や俗流文化人の大正的教養主義の帰結として、大衆社会化に追随せしめられ、いはゆる
「週刊誌天皇制」の域にまでそのディグニティーを失墜せしめられたのである。天皇と文化は相関はらなくなり、
左右の全体主義に対抗する唯一の理念としての「文化概念たる天皇」「文化の全体性の統括者としての天皇」の
イメージの復活と定立は、つひに試みられることなくして終つた。かくて文化の尊貴が喪はれた一方、復古主義者は
単に政治概念たる天皇の復活のみを望んで来たのである。
とはいへ、保存された賢所の祭祀と御歌所の儀式の裡に、祭司かつ詩人である天皇のお姿は活きてゐる。御歌所の
伝承は、詩が帝王によつて主宰され、しかも帝王の個人的才能や教養とほとんどかかはりなく、民衆詩を
「みやび」を以て統括するといふ、万葉集以来の文化共同体の存在証明であり、独創は周辺へ追ひやられ、
月並は核心に輝いてゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

468 :名無しさん@また挑戦:2010/11/09(火) 12:53:34 ID:???
民衆詩はみやびに参与することにより、帝王の御製の山頂から一トつづきの裾野につらなることにより、国の
文化伝統をただ「見る」だけではなく、創ることによつて参加し、且つその文化的連続性から「見返」される
といふ栄光を与へられる。その主宰者たる現天皇は、あたかも伊勢神宮の式年造営のやうに、今上であらせられると
共に原初の天皇なのであつた。大嘗会と新嘗祭の秘儀は、このことをよく伝へてゐる。
文化の現存在と源泉、創造と伝承とが、このやうな形で関はり合つてゐる文化共同体としての天皇制は、
近代文化の担ひ手の意識からは一切払拭されてゐるやうに見えるけれど、われわれは宮廷風の優雅のほかには、
真に典例的な優雅の規範を持たず、文化の全体性は、自由と責任といふ平面的な対立概念の裡にではなく、
自由と優雅といふ立体的構造の裡にしかないのである。今もなほわれわれは、「菊と刀」をのこりなく内包する
詩形としては、和歌以外のものを持たない。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

469 :名無しさん@また挑戦:2010/11/10(水) 12:46:37 ID:???
かつて物語が歌の詞書から発展して生れたやうに、歌は日本文学の元素のごときものであり、爾余のジャンルは
その敷衍であつて、ひびき合ふ言語の影像の聨想作用にもとづく流動的構成は、今にいたるも日本文学の、
ほとんど無意識の普遍的手法をなしてゐる。宮廷詩の「みやび」と、民衆詩の「みやびのまねび」との間に
はさまれて、あらゆる日本近代文化は、その細い根無し草の営為をつづけてきたのであつた。伝統との断絶は
一見月並風なみやびとの断絶に他ならず、しかも日本の近代は、「幽玄」「花」「わび」「さび」のやうな、
時代を真に表象する美的原理を何一つ生まなかつた。天皇といふ絶対的媒体なしには、詩と政治とは、完全な
対立状態に陥るか、政治による詩的領土の併呑に終るしかなかつた。
みやびの源流が天皇であるといふことは、美的価値の最高度を「みやび」に求める伝統を物語り、左翼の
民衆文化論の示唆するところとことなつて、日本の民衆文化は概ね「みやびのまねび」に発してゐる。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

470 :名無しさん@また挑戦:2010/11/10(水) 12:51:13 ID:???
そして時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、「幽玄」「花」「わび」「さび」などを
成立せしめたが、この独創的な新生な文化を生む母胎こそ、高貴で月並なみやびの文化であり、文化の反独創性の極、
古典主義の極致の秘庫が天皇なのであつた。しかもオーソドックスの美的円満性と倫理的起源が、美的激発と
倫理的激発をたえずインスパイアするところに天皇の意義があり、この「没我の王制」が、時代時代のエゴイズムの
掣肘力であると同時に包容概念であつた。天照大神はかくて、岩戸隠れによつて、美的倫理的批判を行ふが、
権力によつて行ふのではない。速須佐之男の命の美的倫理的逸脱は、このやうにして、天照大神の悲しみの
自己否定の形で批判されるが、つひに神の宴の、鳴滸業を演ずる天宇受売命に対する、
文化の哄笑(もつとも卑俗なるもの)によつて融和せしめられる。ここに日本文化の基本的な現象形態が語られて
ゐる。しかも、速須佐之男の命は、かつては黄泉の母を慕うて、「青山を枯山なす泣き枯す」男神であつた。
菊の笑ひと刀の悲しみはすでにこれらの神話に包摂されてゐた。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

471 :名無しさん@また挑戦:2010/11/10(水) 12:55:48 ID:???
速須佐之男の命は、己れの罪によつて放逐されてのち、英雄となるのであるが、日本における反逆や革命の
倫理的根源が、正にその反逆や革命の対象たる日神にあることを、文化は教へられるのである。これこそは
八咫(やたの)鏡の秘義に他ならない。文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、つひに「みやび」の中に
包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、
といふのが、日本の文化史の大綱である。それは永久に、卑俗をも包括しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並の
故郷であつた。
菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から
与へられなければならない。現行憲法下法理的に可能な方法だと思はれるが、天皇に栄誉大権の実質を回復し、
軍の儀仗を受けられることはもちろん、聨隊旗も直接下賜されなければならない。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

472 :名無しさん@また挑戦:2010/11/10(水) 12:59:33 ID:???
(中略)
時運の赴くところ、象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の成立を容認するかも
しれない。そのときは、代議制民主主義を通じて平和裡に、「天皇制下の共産政体」さへ成立しかねないのである。
およそ言論の自由の反対概念である共産政権乃至容共政権が、文化の連続性を破壊し、全体性を毀損することは、
今さら言ふまでもないが、文化概念としての天皇はこれと共に崩壊して、もつとも狡猾な政治的象徴として
利用されるか、あるひは利用されたのちに捨て去られるか、その運命は決つてゐる。このやうな事態を防ぐためには、
天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに確実な防止策はない。もちろん、
かうした栄誉大権的内容の復活は、政治概念としての天皇をではなく、文化概念としての天皇の復活を促すもので
なくてはならぬ。文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体(ヴエルト・アン・ジッヒ)
だからであり、天皇が否定され、あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の
真の危機だからである。

三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より

473 :名無しさん@また挑戦:2010/11/11(木) 15:02:02 ID:???
一、われわれはあらゆる革命に反対するものではない。暴力的手段たると非暴力的手段たるとを問はず、共産主義を
行政権と連結せしめようとするあらゆる企図、あらゆる行動に反対する者である。この連結の企図とは、
いはゆる民主連合政権(容共政権)の成立およびその企図を含むことはいふまでもない。国際主義的あるひは
民族主義的仮面にあざむかれず、直接民主主義方式あるひは人民戦線方式等の方法的欺瞞に惑はされず、
名目的たると実質的たるとを問はず、共産主義が行政権と連結するあらゆる態様にわれわれは反対する者である。
「共産党宣言」は次のごとく言ふ。
「共産主義者は、これまでの一切の社会秩序を強力的に顛覆することによつてのみ自己の目的が達成されることを
公然と宣言する」
われわれの護らんとするものは、わが日本の文化・歴史・伝統であるが、これらは唯物弁証法的解釈によれば、
かれらの「顛覆せんとする一切の社会秩序」に必然的に包含されるからである。

三島由紀夫「反革命宣言」より

474 :名無しさん@また挑戦:2010/11/11(木) 15:05:46 ID:???
二、われわれは、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその
精華であることを以て自ら任ずる。「よりよき未来社会」を暗示するあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する。
なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがへのない現在をして、すべて
革命への過程に化せしめるからである。自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華をここに具現し、伝統の美的形式を
体現し、自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理であり、特攻隊員は「あとにつづく者あるを信ず」
といふ遺書をのこした。「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に
対立するものである。なぜなら、「あとにつづく者」とは、これも亦、自らを最後の者と思ひ定めた行動者に
他ならぬからである。有効性は問題ではない。

三島由紀夫「反革命宣言」より

475 :名無しさん@また挑戦:2010/11/11(木) 15:11:49 ID:???
三、われわれは戦後の革命思想が、すべて弱者の集団原理によつて動いてきたことを洞察した。いかに暴力的表現を
とらうとも、それは集団と組織の原理を離れえぬ弱者の思想である。不安、懐疑、嫌悪、嫉妬を撒きちらし、
これを恫喝の材料に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集団運動である。
空虚にして観念的な甘い理想の美名を掲げる一方、もつとも低い弱者の情念を基礎として結びつき、以て
過半数(マジョリティ)を獲得し、各小集団小社会を「民主的に」支配し、以て少数者(マイノリティ)を圧迫し、
社会の各分野へ浸透して来たのがかれらの遣口である。
われわれは強者の立場をとり、少数者から出発する。日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれの
ものである。再び、有効性は問題ではない。なぜならわれわれは、われわれの存在ならびに行動を、未来への
過程とは考へないからである。

三島由紀夫「反革命宣言」より

476 :名無しさん@また挑戦:2010/11/11(木) 15:16:26 ID:???
(中略)
われわれは天皇の真姿を開顕するために、現代日本の代議制民主主義がその長所とする言論の自由をよしとする
ものである。なぜなら、言論の自由によつて最大限に容認される日本文化の全体性と、文化概念としての天皇制との
接点にこそ、日本の発見すべき新らしく又古い「国体」が現はれるであらうからである。
さて、かれらは、言論の自由を手段的過程的戦術的に利用し、言論の自由自体に革命を論理的に推進する
進歩的価値が内在すると主張するが、これはあやまりである。言論の自由は、人間性と政治との相互妥協の
境界線にすぎぬが、同時に人間の本能的な最低限の要求を充たすものである。(拙論「自由と権力の状況」参照)
言論の自由を保障する政体として、現在、われわれは複数政党制による議会主義的民主主義より以上のものを
持つてゐない。
この「妥協」を旨とする純技術的政治制度は、理想主義と指導者を欠く欠点を有するが、言論の自由を守るには
最適であり、これのみが、言論統制・秘密警察・強制収容所を必然的に随伴する全体主義に対抗しうるからである。

三島由紀夫「反革命宣言」より

477 :名無しさん@また挑戦:2010/11/11(木) 15:23:16 ID:???
従つて、第二に、われわれは、言論の自由を守るために共産主義に反対する。
われわれは日本共産党の民族主義的仮面、すなはち、日本的方式による世界最初の、言論自由を保障する
人間主義的社会主義といふ幻影を破砕するであらう。この政治体制上の実験は、(もしそれが言葉どほりに
行はれるとしても)、成功すれば忽ち一党独裁の怖るべき本質をあらはすことは明らかだからである。
五、まづ言論闘争、経済闘争、政治闘争といふ方式はかれらの常套手段であり、「話し合ひ」の提示は、すでに
かれらの戦術にはまり込むことである。(中略)われわれの反革命は、水際に敵を邀撃することであり、その水際は、
日本の国土の水際ではなく、われわれ一人一人の日本人の魂の防波堤に在る。千万人といへども我往かんとの
気概を以て、革命大衆の醜虜に当らなければならぬ。民衆の罵詈雑言、嘲弄、挑発、をものともせず、かれらの
蝕まれた日本精神を覚醒させるべく、一死以てこれに当らなければならぬ。
われわれは日本の美の伝統を体現する者である。

三島由紀夫「反革命宣言」より

478 :名無しさん@また挑戦:2010/11/12(金) 02:13:24 ID:llsg+GRS
仙石「グゴゴゴゴ…私は反日左翼として本性を暴かれつつある…
だが何をやるべきかはわかっている…国民を踏み台にし蔑ろにしてでも中国に媚びへつらう事だ!」http://p2.ms/wdv2i

479 :名無しさん@また挑戦:2010/11/22(月) 20:07:21 ID:???
西ドイツは、第二次大戦後連合軍占領下の占領基本法を憲法と見做(みな)さず、占領終了後自ら修正制定してゐる。
占領下に制定された憲法がそのまま維持されてゐる日本は、旧敗戦国中でも特殊例であり、これには、国際政治と
国内政治の双方の要因が複雑にからみ合つてゐることは周知の通りである。
憲法は国家の基本法であるから、法学者は逆に、国家を定義して、法体系の投影であると言ふ。現実の新憲法下の
日本を見る限り、正にその通りである。しかしながら、「逆モ亦真ナリ」は成立しない。憲法の法理念法体系が
国家の投影であるか、といふのに、新憲法はそのやうな確たる国家像を背後に持たず、国際連合憲章にすべてを
委任する形で成立してゐるからである。ここに現行憲法の最大の問題がひそんでゐる。
(中略)敗戦直後怱卒(そうそつ)に作られた現憲法は、直訳まがひの、日本語としてもつとも醜悪な文体を持ち、
木に竹を継いだやうな文字どほりの継受法として、何らの内発性なしに与へられ、教育によつて新世代に
浸透するやうに、いはばあとから内発性の擬制を作られたのである。

三島由紀夫「問題提起」より

480 :名無しさん@また挑戦:2010/11/22(月) 20:13:58 ID:???
国際政治の力関係によつて、きはめて政治的に押しつけられたこの憲法は、はじめからその国際政治の力学の上に
乗らざるをえぬ曲芸的性格を与へられてをり、それが又逆に、今日まで憲法を生き永らへさせてきた要因に
なつてゐる。ありていに言つて、現憲法と日米安保条約は合せて一セットになるやうに仕組まれてをり、又
同じ理由で、左派の護憲勢力の抵抗が、憲法改正の機運を挫折させ、これを逆手にとつた現政府の、護憲宣言と
なつて現はれたのであつた。左派は等しくアメリカから与へられた二つのものの内、一方の安保条約には反対し、
一方の平和憲法には賛成してきた。この態度の論理的矛盾を衝いた永井陽之助氏が、本来なら安保反対平和憲法反対が
自立価値中心の論理として、安保賛成平和憲法賛成が福祉価値中心の論理として、それぞれ一貫してゐるべきで
あるのに、それが現実の主張では、「安保反対・憲法護持」と云つた具合に紛糾してゐる、と論じてゐるのは
至当である。

三島由紀夫「問題提起」より

481 :名無しさん@また挑戦:2010/11/28(日) 20:37:47 ID:???
ノサップ岬には数回足をのばし、ガスの晴れ間から水晶島にソ連の監視兵が動いているのさえ観ることができた。
還らぬ北方の島々への関心はさすがに高く、私達の使命感はより一層高まった。現地の漁民はただもくもくとして
働き、涙さえ浮かべようとしない。(中略)
学生運動は社会的起爆剤としての役割を持っている。学生及び青年の行動が、連鎖反応的に運動の輪を拡げ、
大きな力へと成長させてゆく。その歴史的自覚を持ったときこそ、新しい学生運動の明るい展望は開けて
くるのである。とするならば、北方問題に関しても、政府も漁民も立場上言えないような主張を代弁するのが
学生ではないのだろうか。民族の悲願として、全千島、南樺太をあらゆる条約や障害をのりこえて取り戻すこと。
この正当な主張も、政府及び根室市がソ連と交渉するときには、歯舞、色丹、国後、択捉だけが対象となっている。
千島列島はサンフランシスコ条約で放棄したから可能ならば日本に復帰させて頂きたいと及び腰である。

森田必勝「民族運動の起爆剤を志向」より

482 :名無しさん@また挑戦:2010/11/28(日) 20:41:58 ID:???
外交のベテランソ連に対し、はじめから下手で臨むものだから、馬鹿にされて相手にされないのも当然だと
言えるかも知れない。
(中略)
私達は一体何のために「北方領土復帰運動」を行なうのだろうか。ただ単に魚の穫れる漁場がほしいとか、
領土的野心からとかでは決してない。根室市で、私達と関係者との懇談会の席上、ある一人の老人は絶叫調で
こう言った。「たとえ、ソ連が何十年居坐ろうとも、われわれは日本民族の闘いとして、この運動を続ける」と。
この老人の一言に、恐らく私達すべての立場は代表されるのではないだろうかと思う。
(中略)
北方領土への関心は、一般国民をして領土主権の問題、民族意識の問題、国家理念の問題へと眼を開かせる。
それはやがて、日本という中級国家が、これからの世界の荒波をどう航海しどうすすんゆくのかという、
主権国家としての自立の条件への模索となってゆくであろう。

森田必勝「民族運動の起爆剤を志向」より

483 :名無しさん@また挑戦:2010/11/28(日) 20:49:55 ID:???
結集された同志諸君! 我々はついにソ連に奪われた祖国固有の領土、貝殻島、水晶島が見渡せる所まできています。
(中略)我々は、その北方領土諸島への最短距離にある貝殻島を眼の前にして、身体中の怒りが、民族の血が
たぎりつつあるのです。日本民族の祖先が営々としてきずきあげてきたあの島々を、我々はたとえ何年かかろうと、
どれだけの犠牲が出ようと、必ず取り返してみせる、といった意気込みをもって、更に力強くこの運動を続けて
いかなければなりません。(中略)
我々は午前中、ここに立てられている標識に「本土最東端=ノサップ岬」と書かれているのを発見しました。
ノサップが日本の最東端なのか?
日本の最東端は全千島列島の尖端にあるシュムシュ島であり、ソ連の軍事占領下にあるとはいえ、本来は
日本領土ではありませんか! ノサップをもって、本土最東端などと開き直る敗北主義は、(現地の方々が、
これほど敗北的な現実主義に陥っていることを、我々は改めて知らされたけれども――)我々の熱意と民族の魂とで
粉砕しなければならないと考えます。

森田必勝「演説 北方領土返還問題」より

484 :名無しさん@また挑戦:2010/11/28(日) 20:56:01 ID:???
(中略)
一九一七年のロシア革命は、全世界の知識人にショックを与え、人類の幸福、バラ色の社会とかいうデタラメな
宣伝文句につられて日本にもマルクス主義運動が入ってきました。階級史観なるエセ歴史主義の虚妄は、やがて
本家本元のロシアの、その後の数限りない侵略の事実によって明らかにされているではありませんか。(中略)
我々にとって、共産主義は敵には違いないが、イデオロギーというよりも、むしろ人間の魂の問題として、
このような思想を拒否するわけです。だから、何回も何回も繰返すように、反共という立場はイデオロギーの
位相によるアンチではなく、人間性の問題として、人の自由を束縛し、他国民の迷惑を何とも思わぬような
独善的な国家主義を、(それはマルクスのいった共産主義とはほどとおいけれども――)我々は憎んでゆかなければ
なりません。

森田必勝「演説 北方領土返還問題」より

485 :名無しさん@また挑戦:2010/12/02(木) 14:56:18 ID:???
社会党の「護憲条例」提出は、社会党自体の愚かさを示して余りありますが、私達は何としても、こうした
バカげたことを避けるために、ここで抗議集会をもちたいと考えます。
皆さん、既に御存知のように、現在の憲法は、GHQが、日本が再び立ち起ることが出来ないようにと、永久に
三流の後進国家としての位置におとしこむために作られた“占領基本法”でしかありません。ですから、
“マッカーサー憲法”とも呼ばれ、心ある国民は、一日も早くこのようなインチキ憲法を改正し(その改正方法に
関しては、いろいろな議論はありますけれども―)自主的な日本民族の手になる憲法の制定を呼びかけています。
現行憲法の基調は、さきほどの山本委員長の演説でも触れたように、アメリカ占領軍の日本弱体化政策の基調、
すなわち三S、五D政策にのっとられて作られた、“アメリカのための”日本国憲法であります。

森田必勝「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より

486 :名無しさん@また挑戦:2010/12/02(木) 14:59:13 ID:???
三S政策とは、セックス、スポーツ、スクリーンといったSのイニシャルに代表される軽薄極まりないアメリカ文化の
移入によって、日本の伝統的な文化、歴史を破壊しようというたくらみであり、五D政策とは、第一に非民族化、
第二に非産業化、第三に非集中化、第四に非軍事化、そして第五に民主化といった、それぞれがDのイニシャルに
象徴される、徹底的な日本の破壊のための基本方針であります。
GHQは、日本の占領中に、権力をフルに行使して、これらの基本方針を実行し、軍隊を解体し、国家の独立を
まっとう出来ないような状況にしました。そして、警察機構を分断し、各県の県警はそれぞれの自治体に
帰属させたり、あらゆる連絡網の分断を策したのであります。
また日本の産業が再び力をつけることのないよう、航空技術の開発を停止させたり、国家的規模の産業の興隆を抑え、
あるいは、再び日本に民族精神の昂揚がないようにと、歴史、地理教育の禁止を策したのでありました。

森田必勝「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より

487 :名無しさん@また挑戦:2010/12/02(木) 15:01:02 ID:???
とりわけ、日教組に代表される極端な歴史教育の歪曲は、「民主化」という、アメリカニズム、もしくは
プラグマティズムを背景に、わが国の光輝ある歴史を、一方的な視野から裁断し、日本の過去の歴史はすべて
悪いのだ、といった調子のおどろくべき教育の条件の下で、我々戦後世代は育ってきたのです。あの家永訴訟に
みられるごとく、まったく内容の無いマルクス史観で貫ぬかれた家永三郎の日本歴史が、それを代弁しています。
(中略)
そしてまた憲法をよく読んでみれば、第九条と、第九九条が、明らかに相互矛盾しているにもかかわらず、
(これは、わずか二週間で作ったという拙速主義の何よりの証しですが―)そのような矛盾点にほおかむりして
現行憲法は世界に誇るべき平和憲法だなどといって自己満足している学者、文化人、党派の、日本民族と日本の
歴史に対する犯罪的な行為を、我々は絶対に許してはならないと思います。

森田必勝「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より

488 :名無しさん@また挑戦:2010/12/17(金) 11:49:06 ID:???
日本を外国から弁別するメルクマール、日本人を他国人から弁別するメルクマールというのは
天皇しかない。他にいくらさがしてもないんだ。


ぼくは大蔵省にいた頃に、観音崎に皆で団体旅行に行ったんですよ。そしてぼくが船端にいて、
沖を見ていたんだよ。実に海がきれいだった。雲がきれいだった。しかしそれからぼくが
変わり者だという評判がたちまちたっちゃったんです。景色なんか見ちゃいけないんだよ、
本当に。景色を見るやつは、もうすでにアウトサイダーなんだ。そういう社会があるんだよ。
世の中には、見えないやつがいっぱいいるんだ。


現代というものの伝達の仕方から、天皇制というものを、純粋無垢に置こうという意識が
全然ないだろう。威厳を保つには断絶しかないという時代にわれわれは生きているんだ。

三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より

489 :名無しさん@また挑戦:2010/12/17(金) 11:55:41 ID:???
バカなコミュニケーションが発達すればするほど、国民は分裂し孤立してくるでしょう。
伝達することによって、何らそれを統合することはできないでしょう。そうしたら、
統合するためには、伝達しない、元の方法にもどるよりほかないじゃあないですか。
明治時代にはそれが逆だと思うんだ。コンミュニティーするものの主体に天皇を置いて
バラバラになった日本が、国民的統合をやって、近代国家を成立させた。一応近代国家が成立し、
工業化が進展して、社会がこういう、左翼の言葉を使えば自己疎外というようなことが
おこってそして巨大な力で動かされているんだけれども、各人がバラバラになって、
伝達機能が容易になればなるほどバラバラがひどくなる。それを統合するには空白のもの
しかない。絶対に断絶しかない。
…祭主ということなんだよ。結局断絶ということは、時代全体が空間的伝達によって
動いている中で、時間的伝達をする人は一人しかいない、それが天皇だ。

三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より

490 :名無しさん@また挑戦:2010/12/17(金) 13:25:38 ID:???
ぼくが否応なしに中国問題というものにとらわれたのは、文学座なんかにいたからですね。
中国に行ったりする俳優がいてね、中国を天国のように言う。そして、それを人に強制する。
その人たちは現実に何を通して中国を知ったかというと、自分たちを接待してくれた人、
そして案内してくれた人を通じてなんですね。それがこういう状態になると、自分が
世話になった文化関係の人がひどい目にあってもこんどは知らん顔。わたしのほうは
毛派だからという顔をする。それが腹が立ってたまらないということがあるわけです。
いまひとつの問題は、この五、六年、それを考えてきたんですが、もしもう一度戦時中の
言論統制の時代がきたらどうするかということなんです。(中略)そういう事態にどう
対処するかということですね。やっぱり文学はお国の役に立たないんだということを
はっきりさせておかなきゃ非常に危険だと思うんです。

三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より

491 :名無しさん@また挑戦:2010/12/17(金) 13:31:19 ID:???
政治家には、腹を切るつもりなんか毛頭ない。そして芸術家のほうは、半分、実みたいな
気持になっちゃった。戦後はことにそうです。
それと、例の言論統制がきた場合にどうするか。ぼく自身の覚悟をいえば、ぼくは虚の
芸術家である。虚をもって、河原乞食として小説を書くんだ。その小説は絶対お国の役に立つ
わけはないし、ぼくがたとい自発的(スポンティニアス)に国粋主義的な小説を書いたって、
それは政治に頼まれて書いているんじゃない。ぼくが自然にわき起って書いているんだから
人がどう思おうと知ったこっちゃない。
しかし、それは虚にすぎない。それじゃ、虚にすぎない芸術にぼくが生きて、そしてどうなるか。
それはぼくはインターナショナリストじゃないから、どこにも亡命できると思わないし、
日本で死ぬほかないと思っていますがね。その場合に、それじゃ虚と一緒にぼくは死ねるか
ということを考え出したんですね。ぼくは死ぬためには虚でありたくないんですよ。
どうしても、死ぬためには実でありたいんです。

三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より

492 :名無しさん@また挑戦:2010/12/17(金) 13:40:46 ID:???
ぼくはひょっとすると芸術至上主義者なのかもしれないと思うのは、どうしても虚を
信じたいから、実のほうに頭がいっちゃうんですよ。何とかして虚を信じたいと思えば
思うほど、虚をしっかり把握するためにはどうしても実がほしい。そうすると剣ということに
なっちゃう。いま石川さんのおっしゃった、わたしは言葉を信じない、文学を信じないと
おっしゃった気持は、ぼくは痛切にわかるな。
…つまり虚を信じないということが、虚に生きる唯一の道かもしれないんですよ。
(中略)
文字を墨で書く場合、紙に墨がぽとっと一滴落ちた瞬間に、文学表現が成り立つでしょう。
それが十部刷ろうが百部刷ろうが、別の問題ですね。だけど、文学というものは、その一滴の
墨のあとから、千部刷る、一万部刷るということになっちゃったらもうおしまいだと思うんです。
…言語というのは言霊だよ。

三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より

493 :名無しさん@また挑戦:2010/12/23(木) 11:44:16 ID:???
御代は血の色と、
安き心の淡き灰色とに、
鮮やかに二段に染め分けられたり。
今にして奏す、陛下が人間(ひと)にましまし、
人間として行ひたまひし時二度ありき、
そは昭和の歴史の転回点にて、
今もとに戻すすべもなけれど、
人間としてもつとも信実、
人間としてもつとも良識、
人間としてもつとも穏健、
自由と平和と人間性に則つて行ひたまひし
陛下の二くさの御行蔵あり。
(されどこの二度とも陛下は、
民草を見捨てたまへるなり)
一度はかの二、二六事件のとき、
青年将校ども蹶起(けつき)して
重臣を衂(ちぬ)りそののちひたすらに静まりて、
御聖旨御聖断を仰ぎしとき、
陛下ははじめよりこれを叛臣とみとめ
朕の股肱(ここう)の臣を衂りし者、
朕自ら馬を進めて討たんと仰せたまひき。
重臣は二三の者、民草は億とあり、
陛下はこの重臣らの深き忠誠と忠実を愛でたまひ
未だ顔も知らぬ若者どもの赤心のうしろに
ひろがり悩める民草のかげ、
かの暗澹たる広大な貧困と
青年士官らの愚かなる赤心を見捨て玉へり。
こは神としてのみ心ならず、
人として暴を憎みたまひしなり。
されど、陛下は賢者に囲まれ、
愚かなる者の血の叫びをききたまはず

三島由紀夫「悪臣の歌」より

494 :名無しさん@また挑戦:2010/12/24(金) 13:19:34 ID:???
花が咲くとは何といふ知恵のかゞやきでせう。咲くとは何といふ寂しく放胆な投身の意味。外へ擲(なげう)つことが
却つて中へ失はしめる勇気のあらはれです。内外の間に存するものをそれは捨てもせず生かしもせずきはめて
爽やかに殺さうと試みるのでした。この生命への不遜がいつか或るより大きな意味に叶つてゐることを信じ
させずには舎(お)きませんでした。(中略)
花が咲くとは運命でありませうか。花が咲くとは決心でせうか。僕にはそれがよくわかりません。まことに
荒々しい力が優に美しいものを押しゆるがしそこに震盪と困惑にみちたあまりに、憧れに近いやうな心地を
生み出すのを、人は創造とのどかによびます。運命も決心をもさういふ創造の一党だと私は信じ難かつた。
花が咲くとは風が吹き鳥がうたふやうに、あるおほきな無為から生れたもう動かしがたい痺れたやうな創造だと
僕は思ひました。決心も運命もそこでは投身そのものではなく、投身直前の、あのゆらゆらしたなつかしい虹の
時間でありました。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

495 :名無しさん@また挑戦:2010/12/24(金) 13:25:47 ID:???
(中略)
もう一度僕らは同じ質問をくりかへしませう。「花が咲くとは?」「なぜ花は咲く」「いかにして花は咲く」
「なんのために」質問はこのやうに微妙な変様をかさねます。ともあれ花が咲くといふこの言葉、なんといふ
なつかしい慰めにあふれた言葉でありませう。それは訪れです。それは一つの便りです。それはある確乎たる海の
訪(おとな)ひのやうなものでした。燕とぶ巷をこえ潮風にきらめく松林の梢はるかに輪廻のやうに音立てゝゐる
あの海の訪れでした。(中略)
季節をまちがへずに咲くことはよいことにちがひありません。しかし花が咲くのはそのためばかりではありません。
多くの愛恋から見離され、かずかずの哀しみを拒みながら、抱きつゞけられたひとつの約束を、みごとにいさぎよく
破ることでもありました。さうした清らかな違約は、単なる放恣ではなしに、ある与へられた回帰の命令であつた。
出発への不信からではなく、もはや浄福にまで高められた信頼からもえ出でてくる素直な拒否のしるしであつた。
花を聡明なる宇宙とよぶなら、それはかうした聡明さであらねばならなかつた。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

496 :名無しさん@また挑戦:2010/12/24(金) 13:30:12 ID:???
詩人は今日こそ花が咲く季節々々を呆けてうたつてゐてはならないのです。今こそよみがへる花々の歌が、
その死の意味よりして、切なく奏でられねばなりません。よみがへる日はおほきな回帰の日であつても出発の日とは
なり得ません。人々は死ぬやうにしてよみがへる。花々は枯れるごとに咲く。それはたゞ徒爾でせうか。救ひが
来る時、来るのは救ひではなくて、いつも慰め手であるやうに思はれるのです。花々の咲くのがつねに慰め手の
来訪にすぎぬのなら、なぜもつてそれは僕らのよすがになり得ませう。茲(ここ)に待つことのはかりしれない深さが、
菖蒲の園を侵す夕闇のやうに、濃まやかにあたりを籠めて下りてくるのであります。
しかし待つことについて僕らはまだいふべき力をもちません。もつと耐へ、もつと書いてからでなければ。
もつと生き、もつと苦しまねば。さうして莞爾としつゝ心はいつもあらたな悲しみに濯がれてゐることをもつと
学ばなくては。かくして詩人はいつの日も失はれたる預言の遵奉者です。この上なく直截に、「花が咲く」と
うたひうる人です。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

497 :名無しさん@また挑戦:2010/12/24(金) 13:40:11 ID:???
昔、燦爛たる天空へ手をさしのべて星占ひした人々が僕には羨ましさの限りでした。万物と一つにならう、
万物の嘆きと一つにならうとする豪毅な意志をもつ人よりも、彼らはむしろつゝましやかに万物を彼ら又ひいては
僕らすべてに対する示者とみる人でありました。僕らの目が万物から何ものかを示されることを信じたのです。
しかし僕らと万物の関係は、自と他の対局ではなかつた。そこにあるものはもつと秘めやかな不可思議な聨関で
ありました。万物は僕らにむかふときいつも高貴な示者であつたのです。それは同時に、僕らが「映すもの」で
あつたといふことです。のりかゝること、憑くこと、存在の本質を蝶のやうに闊達に舞ひのぼらせ、分ちながら
投身すること、それを僕らは示すと呼びました。映すことには之に反してある熱い無為のこもつた正確さが
在つたのです。憑かれながら確固として映すのが、僕らの所業でした。そのとき示者と映すものとは共に他であり
同時にまた共に自でありえたのです。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

498 :名無しさん@また挑戦:2011/01/04(火) 17:26:33 ID:???
お父さんが大阪へ転任したので、それからちよいちよい関西旅行をするやうになつたある夏のこと、お父さんは
わたくしをお役所へつれていつてくれました。仔熊をみたいとせがんだからです。その仔熊は――若しおぼえて
いらしたら、大阪の新聞や、その社のコドモニュウス映画で、ごらんになつた方々も、ずいぶん多い筈だと思ひます。
お父さんは仔熊をうつした写真を、よく東京へもつてきました。お役所の女のひとだのお父さんだのが、
眩しいやうなコンクリイトの空地のうへで、熊にお菓子をやつてゐるところでした。さうしてどの写真の熊も
チンチンをして一寸首をかしげて、まだ小つぽけな両手の爪を、全部だらしなく出してゐました。
赤か、それとも派手な模様のリボンを、首につけてやりたいやうでした。
お役所のAさんは話してくれました。
「あんまり深い山でも有名な山でもありませんけど、大阪近県の山おくで、きこりが木をきつてゐたのです。
するとどつかで、コリッコリッといふ音がしてきました。…

平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より

499 :名無しさん@また挑戦:2011/01/04(火) 17:31:32 ID:???
(中略)
ふいに明るいところへ来て眩しかつたものか、目をしよぼしよぼさせた仔熊が、耳だのあるかないかわからないほどな
尻尾だのをぴくぴくうごかして、両手でつかんだきいろい木片をコリッコリッと噛みながら出てまゐりました。
さきほどからの音はこの音だつたんです。
おいしくもなさゝうなその木片を、さも大事さうにカジつたりシャブつたりなめたりしてゐるのをみると、
きこりはかはいらしくつてふきだしさうになる一方、大へんかはいさうにも思ひました。きつとたべるものが
なくなつたので空きぬいたお腹をだますために、そんなものをかじつてゐたのに相違ないのです。きこりは熊を
抱き上げました。すると真暗な、小さな革コップをかぶせたやうな鼻先を、しきりにきこりのえりだのふところだのに
つつこみました。手を出してやるとふんふんといひながら、ふざけるつもりか喰へ物と思つたのか、そつと
やはらかく指をかみます。
ありあはせの縄で傍らの木にひとまづつないでおき、お弁当なんぞを分けてやつたのち、仕事がすむとそれを抱へて、
村里へ下りてゆきました。

平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より

500 :名無しさん@また挑戦:2011/01/04(火) 17:36:37 ID:???
(中略)
営林署の大竹さんがあるいてきました。
『へ、だんな熊ッ子です』ときこりは、いちぶしじゆうつかまへた話をしました。どれどれとわらひながら
大竹さんは熊を抱かうとして手をのばしました。すると口にくはへてゐた煙草をおとしてしまひました。大竹さんが
ちよつと惜しさうにしてそれをみますと、熊も心配さうな顔をして、自分が落し物をしたやうに下をみました。
大竹さんはアハヽハと笑ひました……」
Aさんはそこまで話して自分もをかしさうに笑ひながら、
「営林署でゆづりうけてそれから大阪の、この営林局へつれてこられたんですよ……」といひました。
背のひくい女のひとゝAさんとの案内で、わたくしは熊を見に行きました。廊下の両側にはタイプライタアの音が
つつかゝるやうにやかましく響いてゐました。(中略)
小さいドアをあけて二三段下りると、地べたへぢかの屋根付廊下がまはりを囲み、バラックがみえてゐて、
ちよつとペンキの匂ひもする、一面セメントのたゝきのやゝ広い場処へ出ました。

平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より

501 :名無しさん@また挑戦:2011/01/04(火) 17:39:24 ID:???
仔熊はそのはじつこの岩乗な檻のなかでオォン・ウォンとないてゐました。営林局へ来てからといふもの世話を
一ト手に引き受けていちばん懐かれてゐる小使さんが、わたくしたちを待つてゐました。(中略)
やがて小使さんが小さな金だらひに御飯でつくつた糊をたんといれたのをもつてきて、をりの戸をあけますと、
熊はなれなれしく小使さんにすりつきました。それをいれてやるとみるまにパクパクたべてしまひましたが、
いよいよ手が要用になつて前脚でたらひを抱へ、顔をすつかりつつこんで隅から隅まできれいにしてしまひました。
お食後には林檎をひとつやりました。一寸爪先で皮をむくやうなまねをしましたけれども、思ひ直したやうに
ガブリとかみついて芯から何からみなたべてしまひました。
「熊を出しませう」と小使さんが云ひました。わたくしはもうちつとも熊がこはくなくなつてゐましたから、
ニコニコ笑ひました。
「あんよはお上手」なんぞと言はれながら小使さんに前脚を持たれると熊は困つたやうな顔をして立つたまんま
危なつかしげに出てきました。

平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より

502 :名無しさん@また挑戦:2011/01/04(火) 17:44:33 ID:???
足の裏のぶよぶよした灰色が、そのとき日に光つてまつしろに濡れてみえました。鎖をつけて小使さんが引つぱつて
あるきました。
「また梯子のぼりさせようぜ」と云つて別の小使さんが梯子をもつてきて屋根にかけました。満腹で御機嫌に
なつたので、熊は云ふとほりになりました。ウヴォオンと呟やいて梯子のまへにチンチンすると、屋根のうへの方を
まぶしげに眺めながら、手招きしつづけてゐるやうな前脚をそつと梯子にかけ、それからはすらすらと三四段
上りました。
もうそれ以上はのぼれないとわかると熊は恨めしさうにトタン屋根のまぶしい反射を見上げて、かへりはひどく
用心ぶかく下りてきました。
……そのときむかうの出口から給仕さんがやつてきました。「お父さんがお呼びですよ」
……わたくしは何度も何度も熊のはうを見ながら、のこりをしさうにその扉の前の段段を上つてゆきました。
熊はねぶられたやうな眩しい目付をして一寸わたくしを見ましたが、なんだつまらないと云つた顔付で、また
むかうを向いて歩いて行きました。……

平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より

503 :名無しさん@また挑戦:2011/01/04(火) 17:49:14 ID:???
(中略)
あるときお父さんが大阪からかへつてきて夕食のときに申しました。
「あの仔熊は室垣さんとこへ払下げちやつたよ」
「まあ何につかふんでせう、まさか毛皮にするんぢやないんでせうね」とお母さんがいひました。(中略)
室垣さんといふのはお父さんの高等学校時代からのお友達で、温泉の会社をやつてゐました。その会社では
温泉地に宿屋なんぞを経営してゐるのださうで、そんなところへ仔熊は買はれて行つたものとみえます。
「こんどつから大阪行つてもつまんないな」とわたくしが言ひましたらお母さんは、
「熊の毛皮は冬ころしたんぢやないと毛がぬけてだめなんですつて」と別なことをいひ出しました。それをきくと
なんだかあの仔熊はどうしても皮をはがれなけりやならないやうな気がして来て可哀さうで御飯がたべられませんので、
水ばかりのんで流しこんでゐました。
お父さんは新聞に夢中になつて活字のうへにひとつごはん粒をこぼしました……。

平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より

504 :名無しさん@また挑戦:2011/01/04(火) 17:52:00 ID:???
十二月のなかごろに室垣さんは久し振りにたづねてきました。そしてあしたから××といふ山の温泉へいきませうと
いひました。お正月もそこですごすつもりで、学校が早くお休みになつたわたくしはお父さんと室垣さんとで
さきに行き、妹や弟たちもお休みになつてから、お母さんといつしよにやつてくることになりました。(中略)
駅には宿の番頭さんや二、三人のひとが迎へに来てゐました。鈴蘭灯がつゞいてゐる町をぬけると、そのへんは
大へん静かでした。早くも梅のつぼみがふくらんでゐました。宿はまつしろい谷川をみおろして、古びた土橋の
よこにたつてゐました。
わたくしはお風呂にはひるまへに、熊をみにいきました。
「さあさあどうぞ、こちらですわ」とお女将さんが案内してくれました。いちど玄関においてお客さまにみせて
ゐたのですが、おびえてちゞこまつてばかりゐるので、人の少ないこつちの内庭へ、移したのだといつてゐました。

平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より

505 :名無しさん@また挑戦:2011/01/04(火) 17:55:13 ID:???
それは宿屋から渡り廊下でつゞいてゐるお女将さんたちの家の、ごく内輪な庭で、茶梅(ささんくわ)の白と
鴾(とき)いろの花が、落ちついた濃みどりの葉のあひだに、少しちりかけてゐました。文鳥がかつてありました。
三万を棟に囲まれた庭の隅に、営林局のころよりはずつとしやれた檻にいれられて熊はゐました。銅板に彫つた
トミィといふ名札がうちつけてあるところをみると、この仔熊も「トミィ君」になつたとみえます。わたくしが
トミィ、トミィや、と呼びますと、寄つてきて前とおんなじのクスンクスンフンフンをやりましたから、
かはいらしくてだつこしてみたくさへなりましたが、何分大へん大きくなつてゐてかみつかれる心配もなくは
なささうでした。
おかみさんは、
「オヤオヤはじめてン人には見向きもしないのにお坊ちやんばかりには大へんな甘つたれですわ」と云つてゐました。
わたくしがさいしよにそれを見たとき感じたのがほんとになつて、熊は首にまつ赤な絞りの首巻をしてゐました。

平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より

506 :名無しさん@また挑戦:2011/01/24(月) 16:06:43 ID:???
(中略)
示者によつて身を見ることこそ、創造の理に外なりませんでした。星占者はかくて身を見るもの、すなはち彼らは
天への彫塑者でした。宇宙への正確な造形術を、自分の克明な手の皺のなかに、しかと弁へてゐたのでした。
彫刻の不朽なかなしみを誰よりも直截に云ひえたのは彼らであつた。示者の憤りを誰よりもよく知つてゐたのは
彼らでした。
かういふ星占者のかなしみも僕にはよくわかるやうな気持がします。宇宙に対して彫塑者の手をもつこと、
それはどんなに人間であるゆゑの悲しみにみちた事柄でせう。僕らの手がそつくり天のどこかの一隅にのこされて
しまふとき、僕らは弁証にあふれた星空を、支へきれぬほどに重たく感じるでせう。僕らには星座のやうな孤独が
降りてくるでせう。この種の孤独のなかでは、神と親しいものたらんがために、永遠に神を拒否しつゞけねば
ならぬでせう。そして一言否といふたびに僕らは千度の投身を敢てせねばならぬのです。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

507 :名無しさん@また挑戦:2011/02/02(水) 14:46:43 ID:???
(中略)
僕らは薔薇の花に背をむけるとき、その背の向け方から学ばねばなりません。季節がめぐるのは、――夏の最後の
光輝をつんざいて黒々とした葉につゝまれた樫が、はや初菊の薫りをはこんでくる雲のゆきかひに、荘厳に身を
ふるはす刹那のやうに――、花々の饗宴のあとに豊かな収穫の秋が訪れ、やがて連峯の頂きをめぐつて白雪の
かゞやきが日ましにひろくなつてゆくのは、一つの礼節なのであります。知恵にみちた、ふしぎなやさしさに
みちた礼節でありました。かうした礼節のひそかな正しい愛を僕らには測らう術もありませんでした。ある確かな
領域を占めてゐるのに測られぬ物事があるものです。そこでは測られると云ふさへ、可能の意味ではないのでした。
信ずるといふ尺度によつてのみ正確な度数を示して測られる物事があるものです。そのとき信ずるといふこのことは
物差でさへないのでした。触れて来るものをみなその内へとりこんでしまふやうな明澄さ。快晴の内部。僕らは
内部へ陥ちてくるものゝみを信じようとして、その内部自らのおほきな陥没について知りませんでした。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

508 :名無しさん@また挑戦:2011/02/02(水) 14:50:49 ID:???
礼節のまことのやさしさに僕らは盲ひであつたのです。礼節が詩人のみぶりとなるや、厳かな愛が彼らを貫いて
ながれました。運命の突端を担ひながら、彼らはめぐりゆくものに自分たちが親近にするのを感じました。
超克といふことの深いかなしみも、彼らには大らかな礼節をのぞいては考へられなかつたのです。洵に岸を
歩む人である僕らは、たえず彼岸の意識に浸つてゐます。しかし彼岸への川の超克が僕らの考へ得るすべてであるなら、
それは侘しいことではないでせうか。とりわけ川のはてに日が沈み、夕映えが水に映つて千々に砕かれた牡丹のやうに
みえるときは。……
かくて僕らは最初の言葉だけが確かであるとの誤謬に陥るのではありますまいか。その後の
ことばの証しは軽んぜられて、預言のみが。その後のことばのすべてが再び最初の言葉であれ不当に要求される誤りが。
――第二の言葉であることは第三の言葉であるよりも辛いことであります。花が咲くとはむかし第一の言葉で
ありました。今やそれは第二の言葉であります。むしろ第二の言葉であれと花が花自身に教へるのでした。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

509 :名無しさん@また挑戦:2011/02/02(水) 16:05:45 ID:???
星がまたゝき、葉末に露が結ばれ、萩の下かげに虫がすだくのさへ、なべては第二の言葉にならうとしてかなしんで
ゐる万物のいとなみではないでせうか。僕らにとつて生きてゆくことは宿題でも追憶でもなくなるでせう。
生きてゆくことは僕らにとつて凝視に庶幾(ちか)くなつてゆくでせう。凝視といふのが当らぬなら、凝結といふも
同じことでせう。生成としての凝結でなしに、凝結があらゆる一瞬にまつはつてゐて、間断なくそれに生の意味を
与へること。やがて僕らは斜めにとびゆく星となるために身を削がれるでせう。やがて僕は蠅のやうに物狂ほしく
宇宙の時象めがけて飛ぶでせう。それらの時象の目をさまたげ、あらゆる対象の圧殺者となるでせう。僕らは
このやうな驕慢な倫理を深く愛します。僕らは翼の遍在を信じ、それらの翼の殺戮者を信じます。あまりにも
すみやかな愛を信じ切つて、その愛のなかへ千度の投身を敢てして、なほ且つ僕らはその愛と共にゐることを
忘れるのです。共在を忘れることによつてのみ、僕らの愛は完全するのでした。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

510 :名無しさん@また挑戦:2011/02/03(木) 15:01:16 ID:???
(中略)
優れた無為、それを僕らは水や風に対して考へました。先づ僕らは風のことを夢想しました。晴天の、凪ぎつくした
海にあつても、ある距離だけ岸から離れると、そこにはいつも帆船の帆を孕ますに足り乗手の髪をなびかすに足りる
ある不朽の迅速な風が吹いてゐるといひます。その風はなまなかの生物とは関はりのない、しかも一種過敏に
失した傷つき易さをもつ非情の風でありました。なぜならその風の所在に触れそれを感じそれを耳に聞き目に見
鼻に嗅ぐ時のみでなく単にそれを知りそれを夢見るにすぎぬ時でも忽ちにしてそれ自身の本質を根底から変へて
しまふやうな存在をもつた風でした。常住である点で頑なであり、傷つき易い点で優柔であるその風は、無関心と
非情の性質に於て、却つて人間の本質と深く相触れてゐるのでした。人間存在の本質を抹殺するその風に、実(げ)に
人間の真の不在が、即ち真の本質が潜在してゐるのではなかつたでせか。そこでは微小なポジティヴに対する
無窮のネガティヴがあり、あの巨大な夜のやうに鏤められた星辰を以て僕らを深く覆うてゐました。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

511 :名無しさん@また挑戦:2011/02/03(木) 17:07:29 ID:???
かやうなものこそ宇宙の啓示といへ神秘なる証しといへます。そこは到達しがたい裏側であるが故に、何事にも
代へ得ざる礎の有処でした。あの烈しい実在の正統な母胎でありました。いかなる壮麗無比の夢がその風のなかで
ゑがかれようと、風は突如としてその夢を奪ひ、奪はれた夢のなかへ急速に陥ちてゆきます。激しく奔騰しながら
風は嘶きました。人間の夢のひとつひとつが風にはあらはな敵意と感じられたのです。
人間はこの風を記述するのに嘗て方法を知りませんでした。陸(をか)に揚げられるや忽ちその光輝は失はれ
華麗極まる彩色の美も死灰の色に移ろふといふあの深海魚をさながらに、人間のもつ作用の最も遥かな作用である
「知ること」に依つてすら、目にもとまらぬ迅さで風は己が様態を変へてしまふのでした。知ることを超えて
いかなる記述があり得ませうか。
深海魚のもつ美しさといへども、海底ふかく潜つてゆけぱ、目のあたり之を見ることができます。が、銀貨の
表をしてその裏を窺はしめることは不可能事でなくて何でありませう。しかもこの裏面は不動の厳めしい裏面では
ありませんでした。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

512 :名無しさん@また挑戦:2011/02/03(木) 17:11:56 ID:???
この風こそは人間の真の不在をひつきりなしに証ししてゐるたをやかな面差の持主でありました。東方の仏陀のやうな
幽婉さを以て、宇宙万象のときめきに美しく慄へつゞけました。おもへば烈しい実在が人間の悲劇となることも、
その実在が彼(か)の風から生れ彼の風の逆説をきらびやかに身に纏つて、扨て人間の陥没をあまりにも荘厳に
アンダラインするからでした。風は逸脱と普遍によつて、摩訶不思議な中間者となりました。媒体ではなく中間者に。
風は超えるといふことを逸脱しつゝ自由でした。超者と被超者との間を自由に往来できるのは風のみでした。
そこに於て風は手を要しませんでした。風は手をもちませんでした。
それだのに、手をもつ人間が、かやうな風の嫡子たる烈しい実在を内在する機会に遭ふとは、いかに高貴な苦悩に
みちた歓びでありませう。清らかな愛の証跡も、運命の苦しい水脈(みを)も、あまねく歌ひつくされて、ふと
物に憑かれたやうに立止るあの真昼の時刻の歓びでありました。それは人間の癒しがたい疫病ではありましたが、
その悲劇の本性に於て、人間の魂の健康に相触れるところが寡くなかつた。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

513 :名無しさん@また挑戦:2011/02/04(金) 15:24:54 ID:???
(中略)
風について語ることは、恰かも透視者がその霊妙な術を施し終つたあとで感ずるやうな死に庶幾(ちか)い疲労を
呼びさまします。透視者はその果てに死ぬといはれてゐます。しかしこのやうな疲労こそ人間の営為が、ある深く
美しい無為につながつてゐることの一つの証跡であり、人間の営為がかうした美しい無為を橋としてのみ現象と
実相のいづれからも逸脱し得るといふ一つの教へでありました。逸脱と遁走、――疲労はそれへの方法でした。
迅速きはまりない風に対して、彼(か)の美しい無為を持することは、巨きな古代の節制でありましたが、現代は
その代償に、死の惧れさへある疲労を負はせずには措きません。嘗て多くの船舶が憩うてゐる波止場の切岸に
立つた僕は、水面に向ひ沖に向つてこのやうに呼びかけました。水よ! 水は永遠に疲れてゐる。汝の内にいかに
強い意志が籠り、いかに烈しい決心が宿らうとも、汝自身のもつ疲労をあざむくことはできぬ。疲労は汝の属性であり、
汝も亦、疲労の属性であるからだ。永遠に疲れたるものよ。実在をたしかに支へ、支へる力の無為のために、
驕奢を保て。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

514 :名無しさん@また挑戦:2011/02/04(金) 15:29:47 ID:???
(中略)
――僕は水にむかつこのやうに呼びかけました。水はそれに応へるやうにもみえなかつた。そこで僕は青い山々に
向つて、群れ飛ぶ鶴に向つて、古代の国々に沿うて流れる海峡の潮に向つて、折から数多の松笠が夕映のなかに
耀いてゐる傾ける松の森に向つて、檜の薫高い谿間に向つて同じやうに呼びかけました。万象は応へることを止め、
死にゆく神のやうに凝然とうなだれました。そのとき僕は、今もなほ僕自身が呼ぶものであることを、深く羞ぢました。
自ら宇宙の静謐の一分子であるといふ至上の愉楽は、今在る苦しみに身悶えする人間にとつて、いつかは最高に
享受されるでありませう。それまでいかにしてこの苦しみをつゞけるか。否、持続の意識が、既にその苦しみを
軽減するでせう。かゝる軽減から更に悪しきものは生れ出ても、どうして良きものが生れませう。投身と陥没が、
逸脱と遁走が、小田巻のやうに美しく輪廻せねばなりません。苦しみが将に此処にある日のことを、僕らは
祝日として歌ふべきであります。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

515 :名無しさん@また挑戦:2011/02/04(金) 20:07:47 ID:???
(中略)
今日、出発の意味を真に知るために、知慧の輝きがいかなる値ひを持つべきか、僕らはくどくは云ひますまい。
出発は輪廻からの解放ではなしに、まことに美しい日のための、輪廻の祝典でありました。そこでは知慧といふ
優雅な衣裳の、繊細な褶(ひだ)のひとつひとつが、たぐひなく華麗なものとみえ、すべては驕奢の、魅はし
ふかい影にあふれてゐました。僕らは斯くして、帆や旗について考へたのです。
帆や旗について、あれらの闊(ひろ)い風について僕らは考へたのです。すべてはためくもの、はためく姿を以て
風に対するもの、さういふ存在の比喩を僕らは熱心に考へたくおもひました。人間があの仏蘭西(フランス)の
哲人の云つたやうに葦であるべきか、また今茲に語るやうに旗であり帆であるべきか、――彼の偉いなる風を
語つたのち、僕らは思惟したく考へました。なべてはためくもの、烈しい実在をば己が裏側から刻明に表現しようと
する努力。僕らはさうして僕らの裏側を、この上なく烈しいものに対する、繊巧無比な楯としました。その楯は
人を覆ひかくす世の常の楯ではありませんでした。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

516 :名無しさん@また挑戦:2011/02/04(金) 20:11:59 ID:???
(中略)
人間の所謂発見とは? 寓話はいつでも教訓の私生児です。即ち人間が為し得る発見は、あらゆる場合、宇宙の
どこかにすでに完成されてゐるもの――すでに完全な形に用意されてゐるものの模写にすぎないのでした。発見は
完成の端緒であるといふ言葉は、また、完成は発見の端緒であると、神秘な口調で言ひ直すことができる筈でした。
「完全に」――この言ひ方は時空を超えた言ひ方であるのでした。在るとは在つて了つたといふことであり
在るであらうといふことでした。そして同時に、不在の意味が極度に神聖視される筈でした。完全存在が完全不在の
高貴な雛型となる筈でした。その場所では、本物も偽物も模写も同じなのではありませんか? 贋金つくりは
正銘の金貨をいやでも作るのではありませんか。偽物も本物も全く同価値ではないのですか。
では何故いふのです。正真の「永遠の青空」などと。あれは冗談ですか。却々(なかなか)以て、人間はこれ以上
真面目な物言ひはできぬ筈です。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

517 :名無しさん@また挑戦:2011/02/04(金) 20:17:01 ID:???
なぜなら右のやうな完全さが人間界で通用するとは人間の可能性を予め殺すものであり、可能喪失の足場に於てこそ
一番高い建築がなされ得るからです。一番高い建築とは、即ち人間の死でありました。
この得難くまた得易い秀麗な建築。それについて語ることは又更に大いなるものについて語ることでもあります。
そしてその建築の哀切な高さについて。
可能性を放棄するとき人間の身丈は嘗て見ざるほど高くなるであらう。その高さは深部の明澄とすらもはや
無縁なものであるだらう。しかしどこか脆弱な高さである。僕らはそれに気附いて戦慄しました。
死といふものが、あの物質の老朽のやうに、一刻々々が予兆にも触れられざる潔癖な緩さに満ちたものだつたら。
海に沈む日のやうに、蒼褪めた死神の頬をも染めて止まない赫奕たる幻光を放つものだつたら。頽落する宮殿のやうに、
時間の秩序を徐々に濁らせ、つひには別箇の瑰麗な秩序へと凝結させる性質のものだつたら。又は、地上に落ちる
流星のやうに、ある高貴な衝動が無為にかゞやいた一本の弧にまで浄化されるのであつたら。――それはよいであらう。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

518 :名無しさん@また挑戦:2011/02/05(土) 11:03:32 ID:???
しかし人間の死は、人間の死は何か別のものです。残された意志と云つたやうなもの。地球がもつ頽唐の感情を
奪去つたやうな一つの意志。最後の征服意志。時空の中絶をも奪はうとする一つの意志が、あるひは死への熱情となり、
あるひは不死への願望となるのでした。そして時にはそれが、人間に対して死自身がもつ不変の意志とも、全く
一致することさへあるのでした。そのみかけからの共謀も、戦慄に価する脆さをば、打破るわけにはゆかなかつた。
可能性の放棄といふ気高い英雄的行為。その高さが意志によつて脆くされるのであらうか。意志といふ白蟻が、
塔の高さを毀つのであらうか。否、むしろあの高さは意志様態であつた。意志の暗示のてだてであつた。たゞ
可能性の放棄は意志ではなかつた。可能性は意志の原形であつたから。ではそこにいかなる造形術が企てられたの
でしたか。僕らの原始のいかなるデフォルメーションがなされたのでしたか。それは言ひ難いことの限りでありませう。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

519 :名無しさん@また挑戦:2011/02/05(土) 11:11:00 ID:???
(中略)
「待つ」、それはどんなに贅沢な約束であり悔恨でさへありませう。待つといふ刹那を信ずるために、今までの
人類の歴史はひたすらにめぐりつゞけてきたのではないのか。その美しさは放心と等しく、その謐けさ寧らかさは
不屈な魂の距離であつた。このやうな距離にぬれながら、かつてなきさはやかな背信を不断に投げつゞけてくれるのは、
あなたではなかつたか。――僕らは畢竟かくして二人称へとかへるでありませう。僕らの本然の故郷、その二人称の
場所にこそ、僕らの勇気が、僕らの愚行が、甲斐なきことの純潔さを以て、乾き、また乾かされ、たんぽゝの
綿のやうに飛翔(といふより盈溢)を待つでありませう。その花蔭は、花々の密度にひしめき、海よりもなほ色濃く、
今や可能の微風の内に、最初の戦慄を伝へてくるであらう。場所の不易、場所の不朽が、今こそ僕らを飛翔させるで
あらう。百万の王国の名にも値ひせぬ僕らの政治が、昼の間は、貝殻のやうに快晴の希臘を映し、甘美な埃を夢みず、
あらゆる立法の又とない出帆の契りのため、千代かけてサン・サルヴァドルたらんと念ずるでありませう。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

520 :名無しさん@また挑戦:2011/04/01(金) 14:28:46.56 ID:???
古代の雲を愛でし
君はその身に古代
を現じて雲隠れ玉
ひしに われ近代
に遺されて空しく
靉靆の雪を慕ひ 
その身は漠々たる
塵土に埋れんとす

三島由紀夫
昭和21年11月17日、蓮田善明への追悼の詩

521 :名無しさん@また挑戦:2011/04/06(水) 13:54:56.91 ID:???
平岡公威 身長162,2p
(同学年全国平均値158,8p)
身体測定記録表より(昭和16年4月22日)

平岡公威 身体163,1p
身体測定記録表より(昭和17年4月13日)

522 :名無しさん@また挑戦:2011/12/10(土) 17:32:30.67 ID:???


523 : 【44m】 電脳プリオン ◆3YKmpu7JR7Ic :2012/06/23(土) 18:41:07.83 ID:??? ?PLT(12079)
ミってなによ?

524 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:8) :2013/04/02(火) 01:12:40.03 ID:???
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      弋ミニ∨::::::::メ弋゙多        ̄  !::}::l::::i:i::::::`、  おまえは何を言っているんだ
       ヽ:::::::ヽ::::::::\ ̄      `    }::ハi:::jノヽ:::::::\
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     /        i;';∧         \}  }
     /            l;';'∧            \i
     !      }   !;';';∧             \
    i        j  /  !;';';'∧__  \  .:   ,.ィ;';'\
    i        ハ ;'  /;';';';';';';';';`ヽ、`、::. /;';';';';';';';'ヽ
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     !     i ヽ:::{';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';';/
     !      i  〈弋;';';';';';';';';';';';';';';';';';';';ノ';';';';';';';';';';';'/
    j       !   Y^<;';';';';';';';';';';';';';/⌒`ー--r''"
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    !      i     !                   /
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   // ̄ ̄ ヽ--ヲ               /
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525 : 忍法帖【Lv=15,xxxPT】(5+0:8) :2013/04/02(火) 06:32:23.81 ID:???
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526 : 忍法帖【Lv=15,xxxPT】(6+0:8) :2013/04/02(火) 12:25:24.90 ID:???
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527 : 忍法帖【Lv=15,xxxPT】(7+0:8) :2013/04/02(火) 13:26:22.31 ID:???
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528 : 忍法帖【Lv=15,xxxPT】(8+0:8) :2013/04/02(火) 18:25:05.64 ID:???
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529 : 忍法帖【Lv=18,xxxPT】(3+0:8) :2013/04/09(火) 01:00:07.85 ID:???
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530 : 忍法帖【Lv=19,xxxPT】(4+0:8) :2013/04/10(水) 00:56:13.00 ID:???
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531 : 忍法帖【Lv=20,xxxPT】(5+0:8) :2013/04/11(木) 00:12:01.67 ID:???
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532 : 忍法帖【Lv=21,xxxPT】(6+0:8) :2013/04/12(金) 00:19:04.24 ID:???
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533 : 忍法帖【Lv=22,xxxPT】(7+0:8) :2013/04/13(土) 00:29:23.70 ID:???
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534 : 忍法帖【Lv=23,xxxPT】(8+0:8) :2013/04/14(日) 00:33:26.37 ID:???
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535 : 忍法帖【Lv=24,xxxPT】(7+0:8) :2013/04/15(月) 00:50:45.51 ID:???
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536 : 忍法帖【Lv=25,xxxPT】(7+0:8) :2013/04/16(火) 00:09:16.11 ID:???
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537 : 忍法帖【Lv=26,xxxPT】(7+0:8) :2013/04/17(水) 00:09:49.60 ID:???
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538 : 忍法帖【Lv=27,xxxPT】(6+0:8) :2013/04/18(木) 00:33:38.56 ID:???
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539 : 忍法帖【Lv=28,xxxPT】(7+0:8) :2013/04/19(金) 00:24:23.35 ID:???
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